artscapeレビュー
2016年04月15日号のレビュー/プレビュー
Symposium, “New Directions in Japanese Art and Architecture after 3/11”
会期:2016/03/11
Japan Society Gallery[アメリカ、ニューヨーク]
震災から5年ということで、ジャパン・ソサエティーのシンポジウム「New Directions in Japanese Art & Architecture after 3/11」が開催された。僕は企画に携わったあいちトリエンナーレ2013や「3.11以後の建築」などの展覧会を通じて、アートと建築における状況とその変化を紹介し、志賀理江子さんは村のカメラマンとしての活動、米田知子さんは自作の経緯と離れた場所からの震災について語る。記憶がテーマになったように思う。
2016/03/11(金)(五十嵐太郎)
チョイ・カファイ「ソフトマシーン:スルジット&リアント」
会期:2016/03/11~2016/03/13
京都芸術センター 講堂[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇3本目。
ベルリン在住のシンガポール人アーティスト、チョイ・カファイは、同時代のアジア諸国のダンサー・振付家へのインタビューを通して、アジアにおけるコンテンポラリー・ダンスについてリサーチするプロジェクト「ソフトマシーン」を継続的に展開している。2012年より開始されたこのリサーチ・プロジェクトでは、これまでに88人のダンサーや振付家、キュレーターへのインタビューが行なわれ、ビデオ・アーカイブを構築している。二本立て公演である本作も、このリサーチ・プロジェクトの一環として上演された。二本とも、出演者のダンサーとともにカファイ自身も舞台に上がり、ダンサーへのインタビューや記録映像を交えた、半ばドキュメンタリー、半ばレクチャー形式の上演であった。
まず、一本目の「ソフトマシーン:スルジット・ノングメイカパム」では、種々のインド伝統舞踊や武道を習得したインド出身の若手コンテンポラリー・ダンサーである、スルジット・ノングメイカパムが召喚される。この作品は、「ヨーロッパで上演するために、カファイとスルジットが一緒につくっている途中のダンス作品」のワーキングプロセスを実際に実演する、というものだ。カファイはスルジットに、これまで経験したさまざまな種類のダンスをやってみせるよう、指示を出す。スルジット自身の振付によるコンテンポラリー・ダンス作品の一部、インドの複数の地域の伝統舞踊、武道の動き。そこへ、「インドの古典舞踊とコンテンポラリーを融合させた」として世界的な評価を得る振付家やカンパニーの特徴的な動きや、インド製ミュージカル映画・ボリウッドのダンスまでが投入される(「グローバル市場での成功例」として)。
複数の文脈のダンスを(脈絡なく)接合させ、「それじゃあヨーロッパの観客には分からないよ」と何度もダメ出しを入れるカファイ。そのやり取りはギャグすれすれで、どこまで本気か分からない。むしろ浮かび上がるのは、カファイからスルジットへの、すなわち振付家からダンサーに対して一方的に行使される権力関係である。だがそれはいったい、誰の欲望なのだろうか? おそらくそこには、(名前と風貌から察するに中華系で)シンガポール出身、現在はドイツ在住のカファイ自身の立ち位置も影を落としている。「アジアのダンス」という欧米のマーケットや観客の期待に応えながら、自身の位置を思弁的に相対化すること。したがってカファイの試みは、スルジットという器に内包された複数の身体的記憶を開示しながら、自己言及的なメタダンスにならざるをえない。カファイの狙いは、「作品の完成そのもの」よりも、2人のやり取りを通して浮かび上がる、アジアにおけるコンテンポラリー・ダンスを取り巻く諸問題─伝統舞踊とコンテンポラリー、近代的国民国家に内包された多様な地域性、欧米と非欧米の非対称性、芸術的戦略とエキゾチシズム、グローバルなアート市場、といった問題を照射することにある。
一方、二本目の「ソフトマシーン:リアント」では、ジャワの伝統舞踊をマスターしたインドネシア出身のダンサー、リアントが召喚される。冒頭、ゆったりとした音楽に合わせ、美しい衣装をまとい、優美で官能的な仮面舞踊を披露するリアント。舞踊が終わって仮面を取り、自分のダンス経歴について語りながら、化粧を落とし、女性の伝統衣装を脱いで普段着に着替えると、見知らぬ青年が現われた。「2003年に東京に移住し、ジャワの古典舞踊のカンパニーをつくった。でも今は、コンテンポラリー・ダンスもやっている。2つは全く違う考え方や踊り方だから、両者の間について探り始めた」と言うリアント。そして彼が、「私にとって、コンテンポラリー・ダンスにはジェンダーは存在しない」と言うとき、彼自身のプライベートな問題が、ジェンダーと古典舞踊、ジェンダーと文化、そしてコンテンポラリー・ダンスはそれらを相対化しえるのかという、より大きな枠組みへと接続される。「仮面」を取り、「化粧」を落とし、「着替え」を観客の目の前で行なうという演出も、表層から次第にリアント自身に迫っていく仕掛けとして効果的に機能していた。中盤に流れたドキュメンタリー映像では、ジャワ古典舞踊の教室での稽古風景や発表会の様子に加えて、息抜きに新宿のゲイサウナに通っていることが映し出される。
そして圧巻の終盤。暗転と立ち込めるスモーク。何も見えないくらいの暗闇の中から、蠢く黒い物体がおぼろげに姿を現わし始めた。真っすぐに浮き上がった背骨、肩、水平に伸びた両腕。それが、何も身にまとわずに立つリアントの後ろ姿だと了解するのに、少し時間がかかった。
目の前で、黒光りする肩甲骨が、見たことのない生き物のように動いている。磔刑像を裏側から見ているようなポーズ。両腕の先が、S字形を描いて緩やかにくねり始める。ブレもたじろぎもしない体幹の強靭さと、優美に艶かしく動く繊細な手首と指先。ひとつの身体の中に、男性性と女性性、鋼鉄のような強さとしなやかな流動性が同居する。リアントという身体と思考が圧倒的な強度で凝縮された、永遠のように長い瞬間だった。
2016/03/12(土)(高嶋慈)
ブリッジ・オブ・スパイほか
行き帰りの飛行機で幾つかの映画を見る。スピルバーグ監督の『ブリッジ・オブ・スパイ』は一見地味だが、とてもよい。敵側の出方を考える冷戦時代の駆け引きが、緊張感のあるドラマをつくり上げている。現在、世界の敵は理解不能なテロリストということになっているので、これが失われているのではないか。『悪のクロニクル』は脚本と演技がお見事である。また韓国映画らしく、業が深い内容だった。一方、機内で見ることができた最新の邦画は、『orange』や『俺物語』である。漫画ぽいというか、そもそも漫画が原作だからそうなのだけど、もっと緊張感のある映画が見たい。『図書館戦争 THE LAST MISSION』も、それほどのアクションでないし、政治・社会の掘り下げが浅い。
2016/03/12(土)(五十嵐太郎)
WE ARE Perfume──WORLD TOUR 3rd DOCUMENTほか
映画『WE ARE Perfume』とBABYMETALの海外公演映像は興味深かった。ともに英詞をつくらず、そのまま日本語で歌い、自動人形の身振りだが、海外で一定の反響を得ているのは、昔だったら考えにくかった状況である。しかも前者は一応、海外の観客の好みやコミュニケーションを考えるのに対し、後者は去年のオズ・フェストで見たのとそのまま同じパフォーマンスであり、演出を国内外で変えていないことに驚かされた。
2016/03/12(土)(五十嵐太郎)
松本雄吉×林慎一郎「PORTAL」
会期:2016/03/12~2016/03/13
ロームシアター京都 サウスホール[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇4本目。
大阪の「衛星都市」である豊中に暮らす林慎一郎が、豊中の街に取材して書いた脚本を、維新派の松本雄吉が演出。空間の奥行や配置が瞬時に入れ替わる舞台転換、光と影の幻想的な世界を立ち上げる照明、リアルタイム/バーチャルな仮想世界を投影する映像、といった舞台演出が圧巻。また、ヒップホップユニット・降神のMCである志人が繰り出すラップ調の台詞の疾走感、韻を踏んだリズミカルな文体に加え、要所要所で「コロス」としてリズミカルな発話と身振りを同調させた俳優たちがアクセントを打ち、音楽劇の様相を呈している。
舞台は、古い市街地とニュータウンに分断され、国道に沿ってどこまでも膨張を続ける郊外都市の姿を、さまざまな人物の点描的なシーンを積み重ねて描いていく。老朽化した「文化住宅」に住む孤独な男、所在なげな主婦、シネコンの親子連れ、道路交通情報を伝えるアナウンサー、国道をバイクで疾走する女、学習塾の教師たち、シャッター商店街、地図作成業者、スマホのGoogleマップを使用して現実の市街地を舞台にプレイする拡張現実陣取りゲーム「ingress」のプレーヤーたち(エージェント)、……。カビの生えたような文化住宅に住む男は、変質者の隣人や在日外国人への嫌悪をあらわにし、飛行機が街の上空を通り過ぎるとき、爆音で聴こえない街に向かって叫ぶ。「お前ら、この街と一緒に腐っちまえ」。閉塞感に覆われた街に穴を爆破し、出口をつくりたいという男の妄想は、壁に穴を開けて空間を飛び越えるパズルゲーム「PORTAL」や「ingress」に興じる人々へとリンクする。一方、街を歩きまわる地図作成業者にとっての「100万分の1」「5万分の1」といった地図の縮尺は、新装開店したパチンコ店内に流れるMCがうたう「勝敗の確率」へとスライドされる。この「パチンコの玉」は、孤独な男が妄想の中で撃つ銃弾とのダブルイメージを形成する。また、男が妄想の中で街に穿つ「穴」は、ある夫婦が興じる「福笑い」や、のっぺらぼうの体に7つの「穴」を開けてやったら死んでしまったという中国の神様「渾沌」の神話ともリンクし、街全体が巨大な「顔」「人格」をもつ、壮大な「創世記」の神話的ビジョンへと結実する。
シーンの点描をつなぐ、いくつものメタファーやダブルイメージを鮮やかに駆使することで、現実/仮想、住人/通過者、地上/俯瞰、ミクロ/マクロのさまざまな視点が交錯し、現実の地図の上に、架空の地図や記憶の中の地図が重層的に重ね合わせられていく。舞台装置は、スケール感や抽象度の変化に応じて、複数の相を見せて展開する。碁盤目状のグリッドが刻まれた床面と、中央を稲妻のようにジグザグに横切る線。それは、国道や川といった具体物を表象するとともに、文化住宅が象徴する旧市街地/スタバやシネコンのあるニュータウンとの境界、現実と仮想空間との境界を示す。ミクロな日常の世界が壮大な宇宙や神話的世界と結びつき、街の膨張が宇宙の膨張と重ね合わせられていく終盤、居場所を求めてさ迷う人々の中にあって、「おかえり」と夫を出迎える妻の描写にはやや時代錯誤を感じたが、日常の肯定が根底にあるのだろう。疾走感あふれる台詞、音楽的な発話、イメージの多重露光的な重ね合わせによって、観劇後、現実の街の見え方を変えさせるパワーを放っていた。
2016/03/13(日)(高嶋慈)