artscapeレビュー
2017年06月15日号のレビュー/プレビュー
MADSAKI 個展
会期:2017/05/19~2017/06/15
カイカイキキギャラリー[東京都]
大作が10点以上。いずれも着物をつっかけたヌードの女性がさまざまな姿態を見せている図。スプレーでざっくり描き、黒で輪郭をなぞり、液が滴り落ちている。目は黒のスプレーでプシュッ、プシュと吹いただけ、口は赤一線で鼻もないのに、妙にリアルに感じるのはなぜだろう。うまいからか? 写真に基づいているからか? モデルが嫁さんだからか? ぼくにはよくわからない。
2017/05/27(土)(村田真)
オープンシアター2017
会期:2017/05/27
神奈川県立音楽堂[神奈川県]
神奈川県立音楽堂のオープンシアター2017へ。横浜国立大学の建築学科の学生らが館内を案内するほか、のちにいろいろと増築されたバックヤードも見学することができ、建築ファンを増やすよい機会になっている。親子や幼い子どもが多く集まったミニコンサートは、松田理奈によるヴァイオリンの独奏から始まり、曲ごとに横坂源のチェロ、加藤昌則のピアノが増えていく構成だった。それにしても、木のホールのせいか、弦楽器の響きのよいことに感心させられる。また、あちこちで子どもが泣き叫ぶなかで聴くクラシックの演奏もめずらしいというか、ある意味でシュールな体験だった。
2017/05/27(土)(五十嵐太郎)
未来への狼火
会期:2017/04/26~2017/07/17
太田市美術館・図書館[群馬県]
太田市美術館・図書館へ。2度目だが、図書館がオープンしてからは初の訪問である。今回は館の全体が稼働しているので、確かに2つの施設のアクティビティが相互に感じられる空間体験だった。美術の展示も、館内の図書エリアのあちこちに染み出す。開館記念展「未来への狼火」のタイトルは、太田市の清水房之丞の1930年の詩集からとったものである。3部構成になっており、最初が太田市の風土と景観を、淺井裕介、藤原泰佑、前野健太が発見する。続いて2階では、リサーチをもとに、郷土と所縁が深い、近代の絵画や工芸、石内都、片山真理らを紹介する。そして螺旋階段を上って、最後の部屋が、林勇気の映像インスタレーションで未来を描く。地域性と向きあう展示の態度は、アーツ前橋のオープニング展もほうふつさせるだろう。
写真:左下2枚=淺井裕介 右上から=藤原泰佑、片山真理、林勇気
2017/05/27(土)(五十嵐太郎)
裏声で歌へ
会期:2017/04/08~2017/06/18
小山市立車屋美術館[栃木県]
栃木県小山市に初めて足を踏み入れた。東北新幹線だと宇都宮駅のひとつ手前が小山駅だが、美術館は在来線で小山駅のひとつ手前の間々田駅になる。空っ風の吹きそうな殺風景な街だが、なぜか展覧会のポスターだけはあちこちに貼ってある。あんまり宣伝しがいのなさそうな展覧会なのにね。そもそもどんな展覧会なのかどこにも解説がなく、唯一手がかりになりそうなのが、カタログに一部転載されている丸谷才一の「裏声で歌へ君が代」という一文だ。それについてはあと回しにして、会場を一巡してみて、どうやら「声(音)」と「裏」に関する作品が選ばれていることはわかった。
大和田俊は石灰岩が溶けるかすかな声、國府理は水中のエンジン音を聞くインスタレーションで、加えて地元中学校の合唱コンクールの映像もある。本山ゆかりはアクリル板の裏から描いているし、五月女哲平は裏面はおろか側面も見えない窮屈なスペースに抽象画をはめ込んでいる(しかもタイトルは《聞こえる》)。もうひとつ、明治から昭和初期にかけてブームになった軍艦や戦闘機を描いた「戦争柄着物」が出ているが、これは羽裏や襦袢に描かれることが多かったからだけでなく、君が代は恋歌だったという先の丸谷の「裏話」にも通じるからかもしれない。ちなみに、大和田と五月女は地元出身で、地元中学校の合唱も含めて意外と地元愛が強い。街にポスターが貼られているのもうなずける。
2017/05/28(日)(村田真)
澤田華「ラリーの身振り」
会期:2017/05/30~2017/06/04
KUNST ARZT[京都府]
「写真」「複製」「認知」をめぐるゲームを仕掛ける澤田華の個展。ギャラリーに入ると、古い街灯のモノクロ写真が背丈を超えるサイズに引き伸ばされ、壁のように立ち塞がっている。傍らには、元の写真が掲載された洋書を入れ子状に写した写真があり、元の写真図版を指差す手も写っている。また、その写真図版のキャプションを訳した文章も掲示される。一方、それらの横には、粗い解像度のドットで印刷された不鮮明な画像が展示されている。何か黒っぽいものの上に白っぽいものが乗っかっているように見えるが、何なのかは分からない。奥へ進むと、同じ画像がモニターに映され、「こんな形のものではないか」と推測するいろいろなパターンの輪郭線が次々と表示されていく。別のモニターでは、同じ画像にトリミング、解像度、画像サイズの差異をさまざまに施し、Google画像検索にかけた結果が次々と羅列されていく。「ハンドバッグ」「透明な石鹸の泡」といった理解可能な検索結果もあれば、「Photoshopの底なし」「コピー&ペーストの顔」など意味不明なものもあり、「正解」は分からない。そして最後に、粘土でほぼ実物大に「復元」した物体が提示されている。これは一体何だろう。一巡して戻ると、引き伸ばされた街灯の写真の中に、小さくあの「ナゾの物体」が写っているではないか。つまりこれらは、元の写真図版の中に「発見」した正体不明の物体を突き止めるべく、写真を複写し、引き伸ばし、分析と検証を加え、立体化して復元する試みなのだ。
澤田はこれまで、《Blow-up》シリーズにおいて、印刷物や画像投稿サイトの写真画像を元に、写り込んだ「正体不明の物体」を検証するため、写真を引き伸ばし(Blow-up)、形態を分析し、3次元の物体として再物質化するプロセスを作品化してきた。それは、デジタル画像の修正が当たり前となった現代において、「ノイズ」として排除される要素を救出する身振りともとれる。また、撮影時に企図された写真の「主題」「意味」の中心から外れた周縁部、些末な細部への執拗なこだわりは、バルトの言う「プンクトゥム」を想起させる。さらに、画像の細部を拡大し、執拗に分析して特定しようとする手続きとその「失敗」は、衛星画像や監視カメラの画像解析によって「秘密の軍事施設」「犯罪の証拠」を発見しようとする監視システムへの批評ともとれる。
写真は現実を「複製」する。2次元に置換された複製イメージから、「元の物体」を復元/再物質化する。この二重の「複製」を介した手続きとそれが内包するズレへの注目は、画像イメージが「データ」として流通し、デジタル画像の加工や3Dプリンターによる立体造形といったテクノロジーに親和性を覚える時代的感性と言える。だが澤田作品の要は、何重もの情報の加工過程を実演しつつも、「元の物体」の正体を宙吊りのまま提示する点にある。「写真とテクストと実物」の提示は、コスースの《1つおよび3つの椅子》を想起させるが、ここでは、視覚記号としての写真と言語による定義と(復元された)実物は、(互いにズレを照射しつつも)「椅子」といったひとつの観念へと統合されるのではなく、写真の表面に「プンクトゥム」として付けられた「小さな傷」を押し広げ、分裂させ、写真が証立てる「かつてあった過去」を「ありえたかもしれない無数の可能態」へと増殖させていく。そのとき写真は、被写体の同一性を証立てる絶対的な根拠ではなく、むしろ亡霊のような近似値を際限なく生み出す装置となるのであり、「写されたもの」の認識をめぐる私たちの眼差しの審級こそが疑問に付されている。
2017/05/30(火)(高嶋慈)