artscapeレビュー

2018年07月01日号のレビュー/プレビュー

第21回文化庁メディア芸術祭受賞作品展

会期:2018/06/13~2018/06/24

国立新美術館[東京都]

例年どおり冷やかし程度にしか見てないので、めんどくさい作品は通りすぎている。ずいぶん乱暴な見方だが、それで足が止まった作品はホメてあげたい。折笠良の《水準原点》はクレイアニメ。雪原か海原のような白い風景のなかをぐんぐん進んでいくと、ときおり津波のような高波が押し寄せる。なんだろうと見ていると、今度は同じ場所を斜め上から見下ろすかたちで映し出していく。なんと津波の中央では文字が生まれている、というより、文字が生まれる波紋で津波が生じているのだ。その文字をたどっていくと、シベリア抑留経験のある石原吉郎の詩「水準原点」になる。言葉の生成現場がかくも厳しいものであることを伝えるこのアニメも、かくも厳しい生成過程を経て完成したものだ。

もうひとつ、Gary Setzerの映像作品《Panderer(Seventeen Seconds)》はきわめてわかりやすい。映像のなかで男が観客に対し、「美術館で、平均的な鑑賞者がアート作品を見るのに使う時間は1作品につき約17秒であり、この映像作品はその制約を受け入れて17秒という理想的な鑑賞時間を正確に守っている」と語り、17秒で終わる。作品の内容と形式が完全に一致した「理想的」なアートになっているのだ。もちろん理想が必ずしもすばらしいとは限らないが。

2018/06/12(村田真)

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コトリ会議『しずかミラクル』

会期:2018/06/13~2018/06/17

こまばアゴラ劇場[東京都]

ざあぶざぶざんざん、と聞こえてくる波の音はしかし本当の波の音ではない。25世紀の地球に海はない。宇宙人は今はもう聞こえてこない波の音を想像し、口ずさんでみる。地球がなくなるまで、あと1年。

大阪を拠点とするコトリ会議は2016年に上演された短編「あたたたかな北上」をきっかけに東京でも注目され、2017年には『あ、カッコンの竹』を5都市で上演。本作は単独では2度目の東京公演となる。これまでに東京で上演された3作品にはどれも宇宙人が登場し、SFと言えばSFなのだが、そのようなジャンル分けを意に介さぬ、自然体の融通無碍が山本正典の作劇の魅力だろう。

『しずかミラクル』は最期のときを受け入れるまでの物語。滅亡迫る地球で地球人・とおる(大石英史)は宇宙人・シズカ(三村るな)と暮らしていた。しかしシズカは地球滅亡を待たずに亡くなってしまう。とおるはそれを受け入れられない。滅亡直前の地球を観光しに時間旅行者(まえかつと、中村彩乃)が訪れるが、実は過去の人間が宇宙警察からの警告を無視した結果、地球は滅亡することになったのだった。海がなくなったのも宇宙人の仕業だ。シズカの死を調査しに宇宙人(原竹志、山本瑛子)がやってくるが──。

繰り返されるのは過去からの声を聞くモチーフだ。起きたことは取り返しがつかないが、過去からの声に耳を傾けることはできる。それは過去を引き受けるということかもしれない。消えゆく地球でとおるはシズカの死を受け入れ、最期にシズカの声を聞く。海が消えて残った砂が鳴らす音も、かつて地球に存在したものの名残だ。

シズカという名は静まりかえった海からとられた。彼女が望んだのは「人間のなくしたものの名前」だ。もはやない海を臨む二人の視線は客席に向けられている。25世紀に私たちはもういない。あるいはそれは2018年の「人間のなくしたものの名前」だったかもしれない。過去からのささやかな声に耳を澄ませるための静寂は失われつつある。時間旅行者は何世紀からの旅人だっただろうか。

[撮影:竹内桃子〈匿名劇壇〉]

公式サイト:http://kotorikaigi.com/

2018/06/13(山﨑健太)

アート&デザインの大茶会

会期:2018/06/15~2018/07/22

大分県立美術館[大分県]

茶会をテーマにした展覧会は案外多い。千利休に端を発する茶道という絶対的な様式美がアーティストやデザイナーの心をくすぐるのだろうか。本展はマルセル・ワンダース、須藤玲子、ミヤケマイによる合同展だったが、茶会のテーマにもっとも即していたのはミヤケマイだった。そこで本稿では彼女のインスタレーション作品《現代の大茶室》を取り上げたい。

ミヤケがテーマとしたのは「モダン陰陽五行」。陰陽五行説はご存知の通り中国で生まれた自然哲学で、茶道にも深い関わりがある。ミヤケはこれを独自に解釈し、「木」「火」「土」「金」「水」の五つの空間をつくり上げた。寄付から細い路地を通り抜けると、最初の茶室へと導かれる。そこは五つの空間の結節点であり、入口でもあった。茶室に上がって掛軸などの作品を観ていると、ひとつの空間の入口に明かりが灯った。明かりに導かれて足を踏み入れると、そこは「木」の空間だった。この空間の壁にはいくつものアクリル板の額がかかっており、額には松や南天、椿などの常緑樹が根っ子を付けた状態で、1本ずつ、植物標本のように収まっていた。しかも根や茎、葉は本物だが、実や花は造作というキッチュな魅力がある。中央には半畳分の茶室に見立てたロッキングチェアが置かれており、そこに正座して揺られながら、いくつもの額を借景のように眺める仕掛けとなっていた。

ミヤケマイ《SHISEIDO THE STORE ウィンドウディスプレイ》 (2018)[撮影:繁田諭]

隣の空間へ移動すると、そこは「水」の空間だった。壁には幻想的な水滴の展示があり、懐中電灯の光を当てると、それまで見えなかったメッセージが浮かび上がる。また野点傘がかかった1艘の舟があり、舟の中に座ると、それまで聞こえなかった水の音が聞こえてきた。しかも水の音は2種類あり、片側は雨の音、もう片側は波の音である。舟の中で対面する2人が互いに別々の水の音を聞くという仕掛けだ。続く「金」「火」「土」の空間でも、そうした体験型の作品が並んでいた。本来ならひとつの茶室の中にある五行をあえて別々の空間仕立てとし、鑑賞者は体験を通して、自らの脳内で五行を再構成するというインスタレーションなのである。さらにミヤケが作品を通して伝えたのは、「見えないからそこにないとは限らない」という一貫したメッセージだった。鑑賞者は何かしらの行動を起こしたり、注意を払ったりしなければ見ることができない些細な事象にハッと気づかされる。それは普段の生活に置き換えてみても然りだ。スマホの画面ばかりを見ていては季節のちょっとした移ろいにすら気づけなくなってしまう。そんな現代人への警鐘のようにも捉えられた。

公式ページ:http://www.opam.jp/exhibitions/detail/328

2018/06/16(杉江あこ)

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いまいけぷろじぇくと第7回パフォーマンス・デュオ公演『ずれる、ずらす、ずらされる』

会期:2018/06/16

SCOOL[東京都]

いまいけぷろじぇくとは作曲家兼パフォーマーの今村俊博と池田萠による現代音楽のユニット。2014年以降、半年から1年に1回のペースで公演を続けている。

二人が「演奏」する作品の多くはダンスや演劇などのパフォーミング・アーツに近しい。私はその演奏を見ながら、地点東京デスロックcontact Gonzo、あるいはベケットといった名前を思い浮かべていた。今回演奏された作品のなかにはダンサーの岩渕貞太に「作曲」を委嘱したものもあり、二人のレパートリーとなっている。

今回はゲストパフォーマーに梅棒の野田裕貴を迎え、6人の作曲家による6曲を演奏した。ボイスパフォーマンスもあればチャンスオペレーションによる演奏もあり、バラエティに富んだ作品はそれぞれに興味深かったが、ここでは身体を酷使する今村・池田作品を紹介したい。

今村作曲の「数える人V」では二人の奏者が交互に馬跳びをし合う。奏者は自分が跳んだ回数をカウントしているのだが、それぞれ自分が跳んだ回数をカウントしているため、二人の唱える数字は一致したりひとつズレたりしながら、カウントは50まで続く。単調な繰り返しと疲労、微妙な数字のズレが奏者のミスを誘う。

池田作曲の「いちご香るふんわりブッセ/うさぎのまくら クリーム金時」は枕草子を暗唱する奏者にもう一方の奏者がコンビニスイーツを食べさせ続けるという作品。食べさせられる側はその都度、商品名を口にしなければならない。私が見た回はチョコケーキとプリンクレープ、もちもちスティック(?)にオレンジジュースという組み合わせだった。演奏はすべてのスイーツを食べ切るまで続く。

二人の取り組みの第一義は音楽を問い直すことにあるのだろうが、身体に負荷をかけることで演奏に揺らぎをもたらす手法は、演劇やダンスにも応用可能な思考をはらんでいる。さらなる思考の交流のなかから未知の音楽が、演劇が、ダンスが生まれることを期待したい。

公式ページ:https://goo.gl/1py5Fu

2018/06/16(山﨑健太)

ダダルズ#1『MからSへ』

会期:2018/06/16~2018/06/18

新宿眼科画廊スペースO[東京都]

他者との関係を「うまく」結ぶことのできない人々。そのあまりの「うまくいかなさ」に笑ううち、いつしか私は居心地の悪さを感じていた。

『MからSへ』に登場する3人はそれぞれに弱さを抱えている。同僚(永山由里恵)の財布から金を抜き取る女(大谷ひかる)。発覚し返金を求められ、それに応じようとはするものの、期日までに満額を用意することができない。女はあろうことか二、三度会ったことがあるだけの男(横田僚平)を、事情を知らせぬままに同僚との待ち合わせの場所に同席させ、その場で借金を申し込む。男は男で、無職であるにもかかわらず親に頼るから問題ないとそれを引き受けてしまう。同僚は納得がいかず食い下がるが、いたたまれなくなった女は2人を残してその場から逃げ出してしまう。

女はどうしようもない人間だが、それはまさにどうしようもないこととしてある。女はおそらく、盗みを働こうとも、借金を踏み倒してやろうとも強くは思っていない。誘惑に負け、プレッシャーに負け、嫌なことからただ逃げたいという消極的な意志があるだけだ。女もそれを自覚していて、だからこそお金を「返さないかもしれません」「先に謝っておきます」などと口走る。それもまた弱さの表われでしかないのは言うまでもない。

男は男で、端から見れば意味不明な言動をしばしば取り、円滑に会話をこなすことができない。その反動のようにして、たかられているとわかっていても女に金を貸してしまう。そんなものでも関係を求めてしまう。唯一「まとも」なのが同僚の女だが、彼女は順序立ててものごとを説明することが苦手で、そんな自分が許せない。失敗を許せない弱さは正論を振りかざすというかたちで他人に向かう。

大石恵美の戯曲と演出、それに応える俳優の演技が描き出す彼らの弱さは極めて解像度が高い。裁きも許しも啓蒙もなく、淡々と観客の前に投げ出されるそれ。観客に求められているのは、ただそれに付き合うことだ。

公式ページ:https://twitter.com/dadaruzu_net

2018/06/18(山﨑健太)

2018年07月01日号の
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