2020年06月01日号
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artscapeレビュー

2019年04月01日号のレビュー/プレビュー

Uma Kinoshita / 矢作隆一「Pairing FUKUSHIMA 写真家と造形作家による二人展

会期:2019/03/01~2019/03/30

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

今年も「3・11」が巡ってきた。東日本大震災から8年目ということで、生々しい記憶が薄れつつあることは間違いないが、アーティストたちにとっての「3・11」はむろんまだ継続している。東京・広尾のエモン・フォトギャラリーでは、震災と原発事故に触発された「写真家と造形作家による二人展」が開催された。

Uma Kinoshitaは震災の3年後に福島を訪れて撮影した写真を、福島県でつくられた手漉き和紙に焼き付けている。被災地の光景は注意ぶかく選ばれており、特に「Homeland」と題された、樹木と墓の写真を何種類かの和紙にプリントしたシリーズには、その繊細な明暗とテクスチュアへのこだわりがしっかりと表現されていた。それぞれの写真には作家自身が執筆したというテキストが添えられている。「誰もいないの?」/「いないね」/「どうして?」/「住めなくなったんだな 故郷なのに」/「故郷?」/「帰りたいと思える 帰る場所のことだよ」という具合に、会話体を活かしたテキストも、よく練り上げられたものだ。ただ、作者の立ち位置がやや曖昧なので、なぜ、いま福島の写真なのかという問いかけに完全に答えきっているようには見えなかった。

メキシコ在住の矢作隆一は、石のフォルムを、石彫の技術を駆使して別な石でそっくりそのまま再現する「模石」という手法で作品を発表してきた、いわば、石の立体写真という趣の作品だが、今回は福島県の浪江町と富岡町で拾ってきた石を、メキシコ唯一の原子力発電所がある場所で採取した石を使って「模石」している。その表現意図は明確だが、むしろそれよりも、一方は何万年という時間を経て形成され、一方はせいぜい数週間という単位でつくられた2つのそっくりな石が並んでいる、そのたたずまいに惹きつけられる。なんの変哲もない小石に秘められた、時間のドラマを感じないわけにはいかないからだ。

二人のアーティストの作風はかなり違っているが、「二人展」の面白さは、そこに思いがけない共時性が生まれてくることだろう。その点では、今回の展示はうまくいっていたのではないかと思う。なお、本展は4月30日~5月12日に、KYOTOGRAPHIEのサテライト展示、KG+の一環として、京都・四条のギャラリー・マロニエ スペース5に巡回する。

2019/03/11(月)(飯沢耕太郎)

奥山由之「白い光」

会期:2019/03/07~2019/04/15

キヤノンギャラリーS[東京都]

会場の入り口で小型のフラッシュライトを渡される。中に入ると真っ暗で、そのライトで照らし出しながら写真を見るというのが、今回の奥山由之の展示のコンセプトだ。入場制限があり、一度に3人しか会場に入れない。あまり人が多すぎると、ライトが交錯して写真を見る行為に集中できないからだという。

このような趣向を凝らした展示のやり方は、けっして嫌いではない。奥山が会場に掲げたコメントで述べているように、現代社会では「空間のみならず自己を取りまく全ての情報や環境を照らし出す」ような状況が蔓延しており、「視えることで見えなくなったもの」がたくさんあるからだ。今回のインスタレーションは、むしろ見えにくくすることで、作品をより注視することができるようになるのではないかという奥山の真摯な問いかけでもある。

ただ、本展に出品された「白い光」という作品についていえば、そういうトリッキーな見せ方がよかったかどうかはやや疑問がある。じつは、僕はこの作品を昨年12月の全国カレンダー展の審査の時に見ている。審査員たちから高い評価を受けたその「気仙沼漁師カレンダー2019」は、奥山が何度も漁船に乗り組んで撮影したもので、漁業に従事する男たちのエネルギッシュな作業の様子と、潮風の匂いを感じさせるような海上の雰囲気をストレートに捉えた写真で構成されていた。

今回のインスタレーションの意図として、「漆黒の闇を進む。聞こえるのは、波の呼吸とエンジン音」という撮影時の状況を、観客に追体験させるということがあったのではないかと思う。それには確かに成功しているのだが、「気仙沼漁師カレンダー」の時のようなオーソドックスな見せ方のほうが、伝わるものが多かったのではないだろうか。ライトで照らし出す展示は、やはりそのことに気をとられ過ぎてしまって、写真をしっかりと受けとめることができにくくなるからだ。この展示の仕方は、むしろ別の機会にとっておいてもよかったかもしれない。

2019/03/12(火)(飯沢耕太郎)

VOCA展2019 現代美術の展望─新しい平面の作家たち

会期:2019/03/14~2019/03/30

上野の森美術館[東京都]

今年のVOCA賞は、金属板にグラフィティしたり、その表面を研磨して立体的なイリュージョンを醸し出す東城信之介の《アテネ・長野・東京ノ壁ニアルデアロウ摸写》。金属板の表面を研磨した作品はもう1点あって、三家俊彦の《Dream#4》がそれだが、比べてみると東城のほうが重層的で「絵」になっていることがわかる。VOCA佳作賞の遠藤薫は、ベトナムで雑巾を買って市場で古雑巾と交換し、その古雑巾を縫い合わせてつくった大きな平面を出品。そういう手続きを経ているので「ただの雑巾」でないのは確かだが、それでも少しずつ権威を帯びてきた感のある「VOCA展」のホコリを払拭するくらいの機能はあるだろう。

VOCA展の出品規定は250×400センチ以内の大きさで、奥行き20センチ、重さ80キロ以内の「平面」またはそれに準ずるものであれば原則的に受け入れる。そこに挑戦してくる作品も見どころのひとつだ。関川航平は壁に棚をつくってカラフルな積み木を積み上げ、9本の小さな塔を建てた。これは立体またはインスタレーションだが、巧妙にも積み木の表面に詩のような文字を彫っているため正面性があり、平面に準ずる作品と解釈できる。すぐ倒壊しそうな危うさも魅力だ。2階の奥に進むと、仮設壁を立てて入りにくくしているエリアがあって、その奥に1点だけ絵が飾られている。ずいぶん特別待遇だなと思って見ると、笹山直規の《Lines of Death》という死体を描いた絵だった。作品の物理的条件ではなく、死体とか猥褻とか政治的または宗教的な理由ではねられてきた作品はこれまでにもあったかもしれないが、こうした際どい作品はますます増えていくような気がする。

2019/03/13(水)(村田真)

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Oh! マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー

会期:2019/01/12~2019/03/17

兵庫県立美術館[兵庫県]

関西へ。まずは神戸の兵庫県美でやってる「Oh! マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー」へ。一見おチャラけたお祭り騒ぎのタイトルなので、てっきりウルトラマンとかアンパンマンが並ぶサブカル系の資料展かと思ったら、そんなお子さま向けではなく(サブカルもあるけど)、むしろ戦後の日本で美術がいかに政治や社会と向き合ったかを問うきわめてマジメな、そしてずいぶん踏み込んだ展覧会だった。タイトルの「Oh! マツリ☆ゴト」には「お祭り」と「政(まつりごと)」が重ねられ、その主役であるヒーローとピーポー(ピープル)が時代によりいかに描かれたかが概観されている。

展示は「集団行為」「奇妙な姿」「特別な場所」「戦争」「日常生活」の5章に分かれ、その合間に月光仮面、ゴジラ、ウルトラマンというトピックスと、会田誠、石川竜一、しりあがり寿、柳瀬安里による同展のための新作が挟まれる構成で、とくに時代順に並んでいるわけではない。最初の章で印象的だったのは、戦前の阿部合成による《見送る人々》と、戦後の内田巌による《歌声よ起これ(文化を守る人々)》だ。同展にはこうした群像表現がたくさん登場するが、この2点は、前者の人々が左を向き日の丸を振って熱狂しているのに対し、後者の人々は右向きで赤旗を立てて静かに見上げるという対照的な構図。この2点に描かれたピーポーは一見正反対だが、同じ日本人の10年後なのだ。画面の隅に1人だけ正面(こちら)を向いて覚めた人がいるのが救いというか、不気味というか。

戦争画も出ている。藤田嗣治の《十二月八日の真珠湾》、鶴田吾郎の《神兵 パレンバンに降下す》、川端龍子の《越後(山本五十六元帥)》、蕗谷虹児の《天兵神助》などで、記録画、肖像画、神話画とバラエティに富み、戦争画もひとつでないことがわかる。戦争関連でいうと、会田誠の新作《MONUMENT FOR NOTHING V 〜にほんのまつり〜》は圧巻だった。ねぶた祭で使われるハリボテの手法で、巨大な戦没兵士の亡霊が国会議事堂らしき墓碑(?)に触れているシーンを表わしたもので、これがいちばん「Oh! マツリ☆ゴト」というタイトルの両義性と矛盾を表現しているように思えた。

ところで、タイトルは「昭和・平成のヒーロー&ピーポー」と続くが、この昭和+平成のおよそ90年間のうち後半の作品が少なく、とくに1970-80年代(昭和でいうと最後の約20年間)がすっぽり抜け落ちていることに気づく。これは図式的にいえば、70年の安保闘争の敗北以来アートがモダニズムの終焉とポストモダニズムの台頭に振り回され、政治や社会から離れてしまったせいだろう。この間、東西冷戦下でつかの間の平和が保たれていたものの、それがアメリカの巨大な核の傘の下であったことを忘れていた、いや忘れようとしていたわけで、その事実を否応なく突きつけたのが1989-90年の昭和の終わりであり、ベルリンの壁の崩壊であり、冷戦構造の終焉にほかならない。その後90年代以降に登場する柳幸典や会田誠やChim↑Pomらが同展に選ばれているのは、いずれも政治や社会に再び回帰しているからだ。

2019/03/15(金)(村田真)

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フェルメール展

会期:2019/02/16~2019/05/12

大阪市立美術館[大阪府]

「フェルメール展」は東京のプレス内覧会でも見たが、作品が何点か入れ替わったので様子を見に行く。《牛乳を注ぐ女》はオランダに帰ってしまったが、ドレスデンから《取り持ち女》が来ているので楽しみ。東京では大混雑が予想されたため予約制だったが、大阪は予約なしで見られるので気楽だ。でも多少は混んでるだろう、20-30分は並ぶかなと覚悟していたら、ぜんぜん並ばずに入れた。大阪人はフェルメールに興味ないんかい!?
展示構成は、まず左側のギャラリー4室で17世紀オランダの肖像画、物語画、風景画、静物画を見てから、右側のギャラリー1室で風俗画を鑑賞。残る3室でフェルメール6点だから余裕の配置だ。と思ったら、メツーの《手紙を読む女》と《手紙を書く男》の対作品がフェルメール部屋にあった。フェルメールとの表現の差異を際立たせるにはいいアイディアだと思ったが、おそらくフェルメール部屋がスカスカに空きすぎたんで持ってきたに違いない。

東京展の内覧会のときになかったのは《取り持ち女》と《恋文》の2点。後者は何度か日本に来ているが、《取り持ち女》は日本初公開という。ぼくはドイツが統一してまもない91年にドレスデンまで見に行ったので(ドレスデン国立古典絵画館にはもう1点《窓辺で手紙を読む女》がある)、28年ぶり2度目の対面。この作品は宗教画から風俗画に移行する初期の作品と見られ、サイズも大きいが、昔見たときより色がずいぶん鮮烈に感じられたのは気のせいだろうか、あるいは統一後、作品の洗浄が行なわれたのかもしれない。と思ってカタログを見直したら、果たして2002-04年に修復が行なわれたという。フェルメール作品は青以外、色彩についてはあまり語られないけど、こんなに鮮やかな色づかいをしていたとは驚き。

2019/03/15(金)(村田真)

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