artscapeレビュー

2022年02月15日号のレビュー/プレビュー

Study:大阪関西国際芸術祭

会期:2022/01/28~2022/02/13

グランフロント大阪各所、船場エクセルビル、釜ヶ崎芸術大学、kioku手芸館「たんす」、花外楼 北浜本店ほか[大阪府]

日本国際博覧会(大阪・関西万博)が開催される2025年に予定されている大阪関西国際芸術祭のプレイベント。「アート×ヒト×社会の関係をStudyする芸術祭」というテーマのもと、「アートは、上流国民のものか」「アートは、必要か」「アートは、社会問題に対して無力か」といった問いを掲げている。会場は、大阪駅前の大型商業施設、ビジネス街の解体予定のビル、日雇い労働者の街として知られる西成のあいりん地区など、大阪という都市の多様な面がうかがえる構成だ。

ただ、「国際芸術祭」と銘打っているが、海外作家はポーランド出身かポーランドにルーツを持つ作家に限られ、実質的には「日本・ポーランド二ヶ国展」である。また、コロナ禍もあいまって、ポーランド作家の出品作はすべて映像だ。例えば、ポーランドの現代史や記憶をテーマに制作するミロスワフ・バウカは、アウシュビッツ絶滅収容所に関する映像作品を展示。《アウディHBEF144》では、ドイツ出身のローマ法王ベネディクト16世がアウシュビッツを訪問した際のテレビ放送画面を撮影し、無音の静止画のスライドショーとして解体/再提示する。黒スーツのボディガードに囲まれ、ドイツ車のアウディに乗った法王の姿はカメラに映らず、「見えない権力」の象徴を思わせる。また、リリアナ・ゼイツ(ピスコルスカ)の《強き姉妹たちは兄弟に語った》では、同性愛者やクィアのステートメントを引用しながら、異性愛中心主義の社会構造、異性愛者たちの無理解や特権意識の希薄さ、家父長制や性差別の抑圧、そのなかで醸成された自責の念に対する怒り、そして連帯への希求が、モノローグとして綴られる。ポーランドにルーツを持つ木村リアのミステリアスな絵画では、古典的な肖像画を思わせるポートレートが曖昧にぼかされ、その上を手で塗りたくったような絵の具の跡が覆う。「物理的には一枚の表面/レイヤー構造」という絵画の原理的構造に言及しつつ、イコノクラスム(画像破壊)的な衝動と、「イメージに触れたい」欲望とがない交ぜになった両義性を突きつける。


木村リア 展示風景[Photo: Kohei Matsumura]


一方、本展の特徴は、ローカルな文脈を会場構成に組み込んだ点にある。西成で地域の人々とともに表現活動を行なう「釜ヶ崎芸術大学」とkioku手芸館「たんす」が会場となった。kioku手芸館「たんす」は、美術家の西尾美也が地域の高齢女性たちと共同制作するファッションブランド「NISHINARI YOSHIO」の工房兼ショップである。女性たちの裁縫技術とセンスを活かした個性的な服を、地元男性たちが着こなしたファッション写真の展示や実際の服の販売が行なわれた。


NISHINARI YOSHIO(西尾美也 + kioku手芸館「たんす」)展示風景  [Photo: Kohei Matsumura]


また、2012年に西成のあいりん地区で開講した釜ヶ崎芸術大学は、日雇い労働者の街として知られる釜ヶ崎の街を大学に見立て、地域のさまざまな施設を会場に、年間約100の講座や大阪大学との協働講座などを実施する。別会場のオフィスビルでは、釜ヶ崎芸術大学の活動を凝縮して見せるインスタレーションが展開された。床にはダンボールが敷き詰められ、釜ヶ崎で暮らす人々が書いた習字が壁や天井を覆い尽くす。


釜ヶ崎芸術大学 展示風景[Photo: Kohei Matsumura]


大学を運営するNPO法人「こえとことばとこころの部屋(ココルーム)」の活動拠点であるゲストハウスでは、個室やドミトリーに作品が展示される。講座の講師を務めたことのある森村泰昌と元日雇い労働者の坂下範征の共同制作《Our Sweet Home》では、森村の作品画像やポスターが部屋じゅうに貼りめぐらされる。谷川俊太郎の《詩人の部屋》では、かつて谷川が泊まった部屋で書いた詩「ココヤドヤにて」とともに、宿泊者がその続きを書いたノートを読むことができる。また、コロナ禍のポーランドと釜ヶ崎をつなぐのが、ウーカシュ・スロヴィエツの《ヤコブの階段》である。観光客が途絶えた宿泊施設をホームレスの人々のために開放し、お茶を飲んでくつろぎ、シャワーを浴び、ベッドで眠る様子を静謐な映像で捉える。それは、メタレベルでは、「疎外された他者をアートは招き入れることができるのか」という問いへの応答でもある。


森村泰昌×坂下範征《Our Sweet Home》[Photo: Kohei Matsumura]



ウーカシュ・スロヴィエツ《ヤコブの階段》[Photo: Kohei Matsumura]


横浜、愛知(名古屋)などと同様の大都市圏であるにもかかわらず、これまで大規模な都市型芸術祭が開催されてこなかった大阪。同芸術祭は「『大阪=アート不毛の地』説」という問いも「Studyすべき問題」として自虐的に掲げるが、国内の他の大型芸術祭との差異や独自性をどう打ち出していけるか、3年後の本番に期待したい。


公式サイト:https://www.osaka-kansai.art

2022/01/29(土)(高嶋慈)

初沢亜利 写真展「匿名化する東京2021」

会期:2022/01/11~2022/01/30

Roonee 247 fine arts[東京都]

あと10年くらい経ったら、我々はコロナ禍を振り返り、「あのときは大変だったよね」としみじみするのだろうか。2020〜2021年は(おそらく2022年も)誰にとっても忘れられない年になった。後にこの時期の写真や映像を見返した際、皆の顔に一斉にマスクが着いていることをどう捉えるだろうか。これまでの街の風景を一変させたもの、それは紛れもなくマスクだったに違いない。

コロナ禍が始まって以来、私はずっとそんなモヤモヤした気持ちを抱えてきたのだが、そのモヤモヤをクリエーションとして鮮やかに表現していたのが本展だった。それはコロナ禍の東京を舞台に街行く人々の姿を追ったドキュメンタリーで、写真家の初沢亜利は「写真は現在を歴史に置き換える作業だが、コロナ禍東京の自画像がどのように未来を予見するか、撮影者にとっても興味深い」とメッセージを寄せていた。展示写真はなんというか生々しく、アグレッシブで、モヤモヤがいっそうザワザワした気持ちにもなった。コロナ禍がまだ現在進行形のせいだろうか……。タイトルの「匿名化」とは、言うまでもなく皆の顔に一斉にマスクが着いていることを指す。晴れ着姿の新成人たちが笑顔で撮る記念写真もマスクであれば、桜の下でも初詣でもマスク、デモでも選挙活動でもマスクである。いつの間にかマスクが日常化してしまった世の中を記録に残しておきたいという衝動は、クリエーターとして然るべきなのだろう。


展示風景 Roonee 247 fine arts


また、続くタイトルの「東京2021」は別の意味でも記憶に残る年になった。歴史上、初めてパンデミック下でオリンピックが開催されたからだ。開催の是非を巡って翻弄されたのは、紛れもなく東京に暮らす我々市民だった。展示写真はその記憶さえもしっかり留めていた。「もうカンベン オリンピックむり!」と窓ガラスに貼り紙して訴えた病院の上の高架を、オリンピックマスコットがあしらわれた電車が走り行く皮肉な瞬間。人気のない国立競技場から盛大に上がる花火。市民の痛烈な叫びや虚しさ、やるせなさといったものがそこには漂っていた。


展示風景 Roonee 247 fine arts



公式サイト:https://www.roonee.jp/exhibition/room1-2/20211124184908

2022/01/29(土)(杉江あこ)

瀧弘子「天体」

会期:2022/01/25~2022/01/30

KUNST ARZT[京都府]

自らの肉体を駆使したパフォーマンスや絵画作品によって、アイデンティティの輪郭と多重的な分裂、「(男性の視線による)理想化された女性身体」への疑義をときにユーモラスに提示してきた瀧弘子。例えば、過去作品のインスタレーション《写身─うつしみ》では、暗い展示空間の中、観客が洞窟探検のようにライトを向けながら進むと、床や壁に置かれた鏡に光が反射し、乱舞する。鏡の表面には、瀧が自身の顔や裸身を映しながら輪郭線をなぞったドローイングが描かれており、その像は、観客のライトの動きに従って、揺れながら壁や床に投影=複製される。「現実の複製」「光の反射」という鏡の機能をうまく利用し、自己肯定とアイデンティティの不確かな多重性を示した。また、鏡に身体の輪郭線を「映す」/「写す」/「移す」パフォーマンスも行なわれ、瀧自身の豊満な裸身は、規範化された女性美への強烈な抵抗を示してもいた。



瀧弘子《天体をなぞる》(2022)


本個展では、自らの身体を「天体観測」になぞらえる試みが、写真、パフォーマンス、版画作品によって展開された。皮膚の表面に散らばるホクロやシミを「星」に見立て、線でつなぐことで「星座」を形づくっていく。その行為は、アイライナーやリップペンシルで線を引く化粧的行為を思わせると同時に、線の連なりは刺青にも見えてくる。瀧は、ホクロやシミ、すなわち「美白で除去したり、隠すべきもの」としてネガティブに価値づけられるものを、「化粧」に擬態した行為によって、刺青という装飾、別の美的価値へとポジティブに転換するのだ。



瀧弘子《うつろい》(2022)


また、もうひとつのパフォーマンスの記録映像では、暗闇の中、手に掲げたライトを動かしながら、ゆっくりと回転する瀧の裸身が映し出される。うつろう光に照らし出される身体の凹凸はクレーターのようで、月の満ち欠けを連想させる。輝く星座を持ち、天体として光を放つ身体。ただしその「光」は、誰かに投げかけられるのではなく、自身の手で掲げるものなのだ。



会場風景


2022/01/30(日)(高嶋慈)

地域の課題を考えるプラットフォーム 成果発表「仕事と働くことを演じる」(演出:村川拓也)

会期:2022/01/30

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

本職の介助労働者が、その日の観客から募った「被介助者」役を相手に、日々の重度身体障害者介助の仕事を実演する『ツァイトゲーバー』(2011)。日中韓の3カ国から参加した3人の介助者が同様に出演する『インディペンデント リビング』(2017)。この形式を踏襲した『Pamilya』(2020)では、フィリピンから来日して老人ホームで働く外国人介護士が出演し、介護を担当した高齢女性への想いや自身の人生を語ることで、個人的・歴史的射程が広がるとともに、「外国人労働者に依存する介護現場」「シングルマザー」といった社会的課題を浮かび上がらせた。さらに、『事件』(2021)では、「スーパー」という消費空間を舞台に、従業員、管理する店長、買い物客の行為を(当事者ではなく)俳優がマイムで再現。マニュアル通りの機械化された動作の空虚な反復を通して、消費資本主義社会と組織の中で抑圧された身体によって「快適」に保たれた日常の不気味さが提示された。これらの作品群に通底するのは、「日常生活を支えるものであるにもかかわらず、社会的/個人の意識内において透明化された労働」をまさに観客の目の前に差し出す点である。

ロームシアター京都の事業「地域の課題を考えるプラットフォーム」の一環として開催された本公演も、こうした村川拓也のドキュメンタリー的手法の系譜に連なるものだ。本公演は、「ワークショップ参加者が実際に経験した仕事」を元につくられた演劇作品である。「ワークショップ成果発表」と銘打たれているが、これまで培った手法の新たな展開を示す、完成度の高い作品に仕上がっていた。

スピーカー、パイプ椅子、スタンドマイクのみが登場する、ほぼ素舞台に近い、何もない空間。5名のワークショップ参加者が順番に登場し、普段の(あるいは過去に経験した)労働をマイムで淡々と再現する。具体的な仕事名は告げられないが、接客の言葉や同僚との会話、動作の節々から、カフェの店員、おせち製造工場の従業員、別の工場の従業員、図書館の司書、ごみ収集作業員であることがわかる。点描を重ねていくことで、規律化された労働者の身体(と俳優との同質性)、外国人技能実習生、そして労働とジェンダーの問題が重層的に浮かび上がっていく。


[撮影:金サジ(umiak)]


カフェや工場では、「スピーカー」から流れる注文の合図や現場監督の指示に、機械のようにただ従う身体が提示される。それは同時に、「不在の演出家の声」に動かされる俳優の身体への批評でもある。また、「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」「クレームゼロ!」といった文句や会社のモットーを、誰もいない空間に向かって復唱し続ける姿は、規律化された労働の異様さを強調する。注文の合図や指示の声は次第に間髪を入れずに響き続け、その速度に追いつけない労働者の身体はバグを起こしたように機能不全に陥ってしまう。一方、組み立てラインや箱詰め作業といった、身に染みついた動作の再現は流れるように滑らかで、無対象で抽象化された動きはダンスを見ているようでもある。


[撮影:金サジ(umiak)]


おせち製造工場で主題化されるのは、「日本人の快適な生活」が外国人技能実習生に支えられている構造だ。(姿の見えない)同僚との会話から、複数の国の出身者がいることや残業問題が示唆される。従業員の周りを取り巻く「見えない外国人労働者」は、まさに私たちの意識の問題でもある。一方、休憩時間の挿話は、「国籍」という個を捨象する枠組みから「個人」への眼差しの移行を示し、示唆的だ。出演者は休憩中、隣席の外国人労働者に「あなたの、くには、どこですか?」と尋ねるが、日本語が通じない(メタレベルでは「答えてもらえない」)。だが、退勤の際、失礼な質問を謝り、「あなたの名前は?」と聞き直すことで、個人としての関係を結べるようになる。

また、労働とジェンダーの関係に焦点を当てるのが、図書館司書が読み聞かせる「絵本」の内容である。「お父さんの仕事」と「お母さんの仕事」の2冊の絵本は、ジェンダー化された労働を如実に示す。「お父さん」は、家では「パパ」「お父ちゃん」と呼ばれるが、仕事中は「現場監督」「係長」「工場長」「配達員」などと呼ばれ、公/私の明確な境界と「社会的地位の高さ」を示す。一方、「お母さん」が従事するのは、家事や育児、保育士、ウェイトレスやスーパーのレジ係などパートタイムや低賃金の労働である。


[撮影:金サジ(umiak)]


終盤、ごみ収集車に乗り込んだ作業員は、市街地を離れ、一面の雪景色を目撃する。娘のためにスマホで写真を撮り、「きれいやなあ」とつぶやく。つかのま出現した銀世界は、一瞬後、暗転に飲み込まれた。徹底してドライな本作だけに、余韻と抒情性を残した終わり方は鮮烈な印象を与えた。

ただ、労働とジェンダーの問題の扱い方には疑問も残る。上述の「読み聞かせ絵本」の選択は確信犯的だが、一方、ワークショップの募集要項には「有償の仕事であること」という条件が書かれ、実際の再現も賃金・雇用労働に限られていた。家事や育児といった家庭内での再生産労働もまた、男性中心主義社会では「見えない労働」である。障害者介助や老人介護、外国人労働者、スーパーの店員、ごみ収集作業員など「生の持続を支えているにもかかわらず、社会的にも私たちの意識内でも透明化された労働」を扱ってきた村川だが、「再生産労働という不可視化された労働」への言及があれば、その射程と批評的意義はより深まるのではないか。

関連レビュー

村川拓也『事件』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年06月15日号)
村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年03月15日号)
村川拓也『インディペンデント リビング』|山﨑健太:artscapeレビュー(2017年12月15日号)
村川拓也『ツァイトゲーバー』|木村覚:artscapeレビュー(2013年03月01日号)

2022/01/30(日)(高嶋慈)

KERA CROSS ver.4『SLAPSTICKS』

会期:2022/02/03~2022/02/17

シアタークリエ[東京都]

ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲をさまざまな演出家が上演するKERA CROSSのver.4として『SLAPSTICKS』が上演された。同作はNYLON100℃ 2nd SESSIONとして1993年に初演された作品。これまでに鈴木裕美が『フローズン・ビーチ』を、生瀬勝久が『グッドバイ』を、河原雅彦が『カメレオンズ・リップ』をとベテランが演出を担当してきたこのシリーズだが、今作では若手を起用しロロの三浦直之が演出を担った。ロロの旺盛な活動と並行して、海野つなみのマンガを原作とした朗読劇『逃げるは恥だが役に立つ』の脚本・演出や松本壮史監督の映画『サマーフィルムにのって』の脚本など活動の幅を広げている三浦だが、自分以外の劇作家の戯曲の演出を手がけるのは今回が初となる。

かつて「チャーリー・チャップリン、ハロルド・ロイド、バスター・キートンの三大喜劇王を全員ワキに廻した」こともある喜劇俳優ロスコー・アーバックル(金田哲)。ある事件をきっかけに映画界から排斥されてしまった彼の映画のリバイバル上映を企画するビリー(小西遼生)は、配給会社で働くデニー(元木聖也)に当時の思い出を語りはじめる。時は1939年から1920年へ。喜劇俳優を目指す若き日のビリー(木村達成)はマック・セネット(マギー)のスタジオで助監督として働いていた。ある夜、ビリーがスタジオで独りフィルムを編集していると憧れの女優メーベル・ノーマンド(壮一帆)が現われる。恋仲だったセネットのスタジオを去って以来、高まる人気とは裏腹に彼女の出演作への評価は低調だ。精神的に不安定な状態にある彼女はその日もコカインをキメているようで──。人々を笑顔にするサイレント・コメディ。しかしその裏には過酷な現実がある。つくり手たちは体を張り、心をすり減らしている。


[写真提供:東宝演劇部]


着ぐるみ的なスーツを着てファッティ(デブくん)ことアーバックルを演じた金田が出色。2003年再演版では古田新太が喜怒哀楽もあらわにひとりの人間としてのアーバックルを演じていたのに対し、金田版アーバックルは飄々とすっとぼけた演技を貫き、現実でもサイレント・コメディの世界を生きているかのような人物として造形されていた。いかにも喜劇俳優然としたメイクの施された顔とハリボテの体も非現実感を強調する。シリアスな場面でも軽やかさを失わないアーバックルだが、だからこそそこには哀愁が寄り添う。時折見せる軽快な動きも楽しい。桜井玲香はビリーの初恋の人・アリスという振り幅の大きい役を巧みに演じ、ベテランのマギーはサイレント・コメディの空気感を牽引して頼もしい。喜劇俳優というハマり役を得たロロ俳優陣(亀島一徳、篠崎大悟、島田桃子、望月綾乃、森本華)も大舞台で生き生きとして見えた。


[写真提供:東宝演劇部]


[写真提供:東宝演劇部]


映画業界の光と影。フィクションと現実のギャップは歪みを生む。劇中でその極点として描かれているのが女優ヴァージニア・ラップ(黒沢ともよ)の死だ。彼女はアーバックルの主催するパーティーで何者かに暴行され、その4日後に亡くなってしまう。容疑者として逮捕されたアーバックルは裁判で無罪を勝ち取るものの人気は地に落ち、映画業界からはほとんど追放状態となる。

釈放され、「酒だって飲む、クスリもやる、人も殴る。だけどね、映画を創れなくなるようなヘマはしない」「映画が創れなくなるなら、死んだ方がマシです」と語るアーバックルの映画への思いには胸を打たれる。一方で、それでも他者を踏みつけにするアーティストがいくらでもいる現実を知ってしまっている現在の私に、その言葉は虚しくも響くのだった。


[写真提供:東宝演劇部]


リバイバル上映によって/戯曲に書かれることによって/戯曲が上演されることによって再び光があてられるアーバックルとは対照的なのがラップの存在だ。この戯曲において彼女はアーバックルに「仕事の相談」を持ちかけ、そして何者かに殺されるためだけに登場させられている。ラップは被害者であるにもかかわらず彼女自身に落ち度があったかのような中傷を受け、しかしもちろん反論の機会が与えられることはない。ラップは被害者としても死者としても、そして登場人物としても言葉を奪われている。

三浦の演出はそのことを告発するものだ。死者となり物語から退場させられたラップは幽霊のような存在としてその後もしばしば舞台上に登場する。誰にも言葉を聞いてもらえないままに舞台を彷徨うラップ。戯曲には存在しないラストシーンでもラップは独り舞台に現われ、改めて何事かを語るが、ここでも彼女に声は与えられない。言葉を奪われそれでも何かを語ろうとする彼女の顔がスクリーンに大写しになり、そして舞台は幕となる。

声を奪われたラップの存在は、この戯曲においてあまりに多くのネガティブなイメージを背負わされた女たちを代表するものでもあるだろう。性的に消費され、首の骨を折り、薬物中毒となり、嘘を吐き、自ら命を絶つ女たち。それらの幾分かは時代背景を反映したものでもあるだろうが、男たちに与えられた役割との差は歴然だ。彼女たちもまた声を奪われた存在だ。

だが、三浦のやり方はいささかマッチポンプめいても見える。あるいはこれが純然たるフィクションであればこのようなやり方も(それが最善だとも思えないが)あり得たかもしれない。しかしこの戯曲は史実に基づいて書かれたものであり、ラップは現実に存在した人間だということを忘れるわけにはいかない。セカンドレイプがあったこと自体もまた史実だとはいえ、劇中で行なわれるセカンドレイプと現実におけるそれとの間にいかほどの違いがあるだろうか。戯曲が上演されるたび、ラップの尊厳は傷つけられる。女たちの声が奪われていることを指摘するだけではラップへのセカンドレイプは購えない。

声を奪われた彼女たちを演じる生身の人間である俳優もまた、舞台上で自らの言葉を発することは許されていない。だから、問いは観客である私の側へ、現実の側へと投げかけられる。お前はどうするのかと。


KERA CROSS ver.4『SLAPSTICKS』:https://www.tohostage.com/slapsticks/
ロロ:http://loloweb.jp/

2022/02/03(木)(山﨑健太)

2022年02月15日号の
artscapeレビュー