artscapeレビュー
2023年09月15日号のレビュー/プレビュー
白石ちえこ「北北東」
会期:2023/07/31~2023/08/12
巷房[東京都]
白石ちえこは2015年に、写真集『鹿渡り』(蒼穹舎、2020)におさめた写真群を撮影するために、北海道東部に足を運んだ。それをきっかけとして、アイヌ語で「ニムオロ」と称されていた根室近郊の原野や湿原を何度も訪れるようになる。それらの仕事をまとめた本展の出品作を見ると、道東の自然環境とそこに展開される生の営みに向けられた眼差しに、より一層の深みと広がりが備わってきたことがわかる。
微粒面の黒白印画紙に、丁寧にプリントされた写真には、馬(道産子)、キタキツネ、フクロウなどの動物や鳥の姿が目立つ。だが、それらは狙って撮影したというよりは、たまたま画面の中に入り込んできたように見える。むろん、構図やシャッターを切るタイミングには、しっかりと配慮しているのだが、これみよがしではないその自然体のたたずまいに、白石が被写体と対話を積み重ねてきた、経験の蓄積が写り込んでいるように思える。もうひとつ、今回のシリーズで特に目につくのは、「水際」の風景である。川や沼などの水辺の眺めが幾度となくあらわれてくる。そこには、見る者を水の中に誘い込み、柔らかに包み込んでいくような感触が生じてきている。
白石は、これまで巷房で何度か個展を開催しているが、巷房1(3F)、巷房2(B1)、階段下の3つの会場を同時に使った展覧会は初めてである。階段下のスペースでは、床置きの写真のフレームの前に、鹿の角を配するという、意欲的なインスタレーションも試みていた。写真作家として、ひと回り大きく成長したことを強く感じさせるいい展示だった。
公式サイト:https://gallerykobo.web.fc2.com/194512/index.html
関連レビュー
白石ちえこ「鹿渡り」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2020年11月01日号)
2023/08/03(木)(飯沢耕太郎)
石川竜一「風土 人間の殻」
会期:2023/08/03~2023/09/03
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
石川竜一は2015年に第40回木村伊兵衛写真賞を受賞した。その時の受賞対象は、『絶景のポリフォニー』(赤々舎、2014)と『okinawan portraits 2010-2012』(同、2014)だったが、どちらかといえば切れ味の鋭い路上スナップの連作、『絶景のポリフォニー』のほうの印象が強かった。その後、石川は『okinawan portraits 2012-2016』(赤々舎、2016)を、続篇として刊行し、6×6センチ判だけでなく6×4.5センチ判のカメラも使い始める。今回、コミュニケーションギャラリーふげん社で、『写真 vol.4』(特集:テロワール/TERROIR)の刊行記念展として開催された彼の個展はその延長線上で企画されたもので、3階のギャラリースペースで、まさに「テロワール(風土)」というテーマを踏まえたポートレート群が展示されていた。
大判プリントされた12点は沖縄で撮影されており、観光客を含めて、強力な熱を発する風貌の人物をほぼ正面から撮影している。その強度と精度の高さも特筆すべきなのだが、むしろ興味深いのは、小さめにプリントした13点のほうで、こちらは沖縄だけでなく全国各地で撮影した写真を、春夏秋冬の季節を追って並べていた。「okinawan portraits」の連作と比較すると、被写体のたたずまいはやや穏やかなものとなり、複数の人物たちにカメラを向けた作品も増えてきている。また、人物たちの背景となるべき景色が、むしろ前景化してきているようにも見える。これらの変化は、石川の関心が、個としての人間存在だけでなく、彼らを取り巻く風土・環境=「人間の殻」にも向き始めていることを示している。彼のポートレート作品の新たな展開が期待できそうだ。
なお、同ギャラリーの2階スペースでは、同時期に『写真 vol.4』の口絵として掲載された、笹岡啓子、田附勝、中井菜央、山口聡一郎、田代一倫、北井一夫の作品も展示されていた。
公式サイト:https://fugensha.jp/events/230803ishikawa/
関連レビュー
石川竜一写真集『okinawan portraits 2012-2016』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年12月15日号)
石川竜一「絶景のポリフォニー」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年01月15日号)
2023/08/10(木)(飯沢耕太郎)
ホーム・スイート・ホーム
会期:2023/06/24~2023/09/10
国立国際美術館[大阪府]
コロナ禍における「ステイホーム」やウクライナ侵攻といった社会情勢を受け、家、家族、居場所、そして祖国や故郷という「ホーム」の多義性を主題に据えたグループ展。イギリス人の父親とフィリピン人の母親をもち、フィリピンで生まれ日本で育ったマリア・ファーラ、上海生まれで幼少時に青森に移住した潘逸舟、ジョージアに生まれロシアの侵略により故郷を追われた経験をもつアンドロ・ウェクアと、2つ(以上)の国にまたがるダブル・アイデンティティやディアスポラ的生を生きる作家が複数参加する。ウェクアは、家族の肖像のコラージュ作品とともに、記憶のなかの故郷の家をミニチュアハウスとして再現した。レンガの壁、雨どい、煙突、窓のつくりなど細部まで精巧につくられているが、部分的にピンクや青に塗られ、どこか非現実感が漂う。
出品作家8名中、2名はレクチャープログラムおよびスクリーニングという形での参加となり、展示会場には物理的な作品が「不在」であることも本展の特徴のひとつだ。アルジェリア出身で、10代でイギリスに移住したリディア・ウラメンは、8月にレクチャープログラムを実施した。アルジェリアからボートでスペインに渡航を試み、不法移民として強制送還された友人から、密航中の映像を見せられた経験が、作家活動を方向づけたことを話した。多くの不法移民を生み出す富の不均衡の原因がアルジェリアの石油産業にあることに着目し、(移民の代わりに)空の石油のドラム缶を国外に持ち出そうとし、その煩雑な手続きのプロセスを「越境の困難さ」と重ね合わせた作品や、アルジェリアの自宅にある家具やドアなどをすべてスイスの展示会場に輸送し、元の配置どおりに設置した作品など、「移動」「越境」をテーマとした過去作品を紹介した。
また、レクチャープログラムに際して「展示」された《母親たちが不在のあいだに》(2015-2018)も興味深い。アルジェリアの市場で、母親のものだという金のネックレスを若い男に売りつけられたこと。その売値がヨーロッパへの密航費の相場であることに気づいたウラメンは、アルジェリア独立戦争時に徴兵逃れのため歯を全部抜いたという祖父のエピソードを「再演」し、自身の歯を1本抜き、ネックレスを溶かしてつくった金歯を口の中に埋め込んだ。植民地支配の歴史と肉親の記憶を、肉体的な痛みを通して自身の身体に「移植」すること。「体内に入り込んだ異物との共生」が移民のメタファーでもあること。
実際には、金歯は2つつくられ、「ウラメンの身体に埋め込まれなかったもう片方」が「展示用のスペア」として存在する。だが、本展への参加にあたり、コロナ禍での人間や作品の移動について作家と話し合ったうえで、もうひとつの金歯の展示は行なわず、レクチャープログラム時に作家が会場に現われた時のみ「作品の展示状態が成立する」という措置が取られた(従って、作家の滞在時以外は、壁にはキャプションのみが貼られ、展示空間は「空白」のままである)。コロナ禍でのリスク管理の対応ではあるが、この「展示方法」は、結果的に、作品の潜在的な批評性を浮かび上がらせたのではないか。「作品」が作家自身の移動する身体の内部にあり、身体と物理的に切り離せないことは、グローバルなアート市場とアートシーンにおいて、「移民やディアスポラの生」を切り売りして「作品化」し消費されることに対する皮肉な抵抗になりうるからだ。
一方、日本におけるポストコロニアルな文脈と移民について「日本家屋」を通して問い直す秀逸な作品が、鎌田友介のインスタレーション《Japanese Houses》(2023)である。日本家屋の基本単位である八畳間を反復した空間構成のなかで、植民地期の朝鮮半島と台湾、移民先のブラジル、そして焼夷弾実験のためアメリカで建てられた日本家屋の写真や図面、映像が展示される。特に映像作品では、戦前から戦後の建築史を縦軸に、日米関係を横軸とした交差点として、日本のアジア侵略と同時代に日本に滞在した「建築家A」ことアントニン・レーモンドに焦点が当てられる。レーモンドは、日本家屋の構造の研究をとおしてモダニズム建築理論を見直しつつ、日米開戦後はアメリカで焼夷弾の燃焼実験用の日本家屋の設計に関わっていたことが語られる。また、インスタレーションの部材の一部には、1930年代に仁川に建設された日本家屋のものも使用され、木材を組み合わせた跡やひび割れが残る。その周囲に並ぶ多数の古いポストカードは、朝鮮半島各地に建てられた日本家屋と日本風の街並みを伝える。
鎌田の作品が浮かび上がらせるのは、かつて海の向こう側に「歪な双生児」として存在した日本家屋の姿だ。植民地として統治した土地に移植した、自国の文化様式の象徴としての住居。一方、その帝国主義とナショナリズムを破壊し尽くすために建てられた、焼夷弾実験用の日本家屋。正反対の目的をもった日本家屋が、ほぼ同時期に海を隔てた反対側にそれぞれ存在していたこと。八畳間という基本ユニットの反復構造は、「帝国の建設と破壊」という対極的な欲望の増殖性を、そして「反復=中心性の欠如」は「日本における記憶の忘却」という空白の事態を指し示していた。
公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/20230624_homesweethome/
2023/08/18(金)(高嶋慈)
風景論以後
会期:2023/08/11~2023/11/05
東京都写真美術館 地下1階展示室[東京都]
多くの観客にとっては「よくわからない展覧会」なのではないだろうか。東京都写真美術館地下1階の会場に並んでいるのは、何の変哲もないように思える日常の光景の写真、映像、映画のポスターや資料などである。しかも壁面には作品解説はまったくなく、作者名とタイトルだけ。作品についての詳しい情報を得るためには、入り口で手渡されるリーフレット(「展覧会ガイド」)か、カタログに目を通さなければならない。
不親切と言えばその通りだが、逆に昨今の、わかりやすい解説がないと安心できないような展示を見慣れた目には、その素っ気なさが逆に新鮮に思えた。何だか訳のわからない作品を見せられて、拒否反応を起こす観客もいるかもしれないが、そのことに触発され、これは一体何なのかと考え始める契機になるのではないかとも思う。
ただ、1960年代後半以降に松田政男や中平卓馬によって提起され、大島渚、足立正生、若松孝二らの試行を経て、主に実験的な映画のジャンルで展開されていった「風景論」が、その後どのように受け継がれていったのかという本展の最大のテーマが、充分にフォローされているとは思えない。「あらゆる細部に遍在する権力装置としての“風景”」(松田政男)に抗うことを求めていった「風景論」の輪郭は、例えば松田、足立らが関わった『略称・連続射殺魔』(1969)では明確に読みとれるものの、本展の最初のパートに展示された笹岡啓子、遠藤麻衣子のような現代作家の作品では、曖昧かつ拡散しているように見える。むしろかつての「風景論」の枠組みが、現代作家の風景表現において、どのように変質したのかを、もう少しきちんと検証すべきではなかっただろうか。
公式サイト:https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4538.html
2023/08/19(土)(飯沢耕太郎)
果てとチーク『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』
会期:2023/08/18~2023/08/27
アトリエ春風舎[東京都]
「くらいところからくるばけもの」が「あかるくてみえない」のはなぜか。その「ばけもの」が、誰かにとっては直視してしまえば自身の存在基盤そのものを脅かしかねない危険なものであると同時に、また別の誰かにとっては目も眩むばかりの希望でもあるからだ。 前作『はやくぜんぶおわってしまえ』(YouTubeで全編無料公開中)で女子校の高校生たちが生きる現実という地獄のリアルを抉り出した果てとチーク。同じ主題を引き継いだ新作『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』(作・演出:升味加耀)は、ひとまずのところ正統派のホラーらしい物語を展開していく。
なお、本作は12月17日(日)まで配信チケットを販売している(視聴は2024年1月16日[火]まで )。以下にはネタバレが多分に含まれるので注意されたい。
畑仕事に精を出すルイ(川村瑞樹)・キミタカ(函波窓)夫妻とキリエ(林ちゑ)・マサヤ(佐藤英征)夫妻。それは大学の先輩であるキリエにルイが誘われるかたちで参加している「ヒラヤマ大地の恵み会」の活動の一環なのだが、「女性だけが持つ生命を生み出す尊いソーラーエナジー」を重視する会の教えに対する距離感はまちまちのようだ。会の教えに懐疑的なマサヤによれば、ヒラヤマはかつて母恵会と呼ばれる宗教団体が拠点としていた場所であり、「儀式」として信者たちからレイプされていた少女ソラ(福井夏)が教祖を殺した末に信者たちのリンチによって殺され、さらには多くの信者が教祖の後を追って自ら命を絶つという凄惨な事件があったいわくつきの土地らしい。幕開けの不穏はすぐさま世界を覆うものとなる。「お母様」と呼ばれる巨大ミミズが祀られた神社が燃えるのと時と同じくしてポルノサイトで拡散しはじめるある動画。それは「儀式」を撮影したもので、最後まで見た者は呪われてしまうのだという。やがて眼球を押し潰された死体がマンションの一室で発見されると、同じような死者はあっという間に数百人に膨れ上がり──。
呪いの蔓延によって機能不全に陥る社会の姿は、新型コロナウイルス感染症が流行するここ数年の現実社会における出来事を彷彿とさせる。異なっているのは、新型コロナウイルス感染症の犠牲者の割合が「社会的弱者」において有意に高いのに対し、ポルノ動画を介して「感染」する呪いの犠牲者が主に男性であるという点だ。「いいですよね、安全な所からしゃべれる女は、ほんとに、今俺らが毎日どんな気持ちですごしてるかなんて全くわかってないじゃないですか」というマサヤの言葉はだから、作者による痛烈な皮肉として聞かれるべきだろう。もちろんこれが新型コロナウイルス感染症に限った話ではないことは言うまでもない。
直後に続く「(呪いによって幻覚が)見えてる奴と見えてない奴の差ってなんですか?」という問いもまた、現実社会において「見えてしまう」呪いをかけられているのが誰であるのかということを、そして「見えてない奴」が誰であるのかということを考えれば皮肉が過ぎる。マサヤの問う「見えてる奴と見えてない奴の差」はほとんどそのまま、現実における「見えてない奴と見えてる奴の差」を反映したものと思われるからだ。マサヤが苛立ちと自己憐憫とともに吐き出すその言葉は実のところ、マサヤたちに向けられた「呪いの言葉」そのものなのだと言うことさえできるかもしれない。
呪いを前になす術のない社会。だが、ルイと幼馴染のナツ(上野哲太郎)、そしてソラの姉ミウ(鈴木彩乃)は、その呪いがルイを守ろうとするソラの意志によるものであることを察する。ルイもまた、かつて母恵会の巫女であることを強いられた過去を持ち、ソラは親友であるルイと入れ替わるようにして巫女の役割を負わされたのだった。ソラ自身とルイに害なす者への復讐としての呪い。しかしその呪いは、ほとんど無差別に男なるものを対象にすることで、もはや別のものへと変質しつつあった。そのことに気づいたルイはソラを止める決意をする。
だからこそ、ラストシーンにおいてルイがソラに告げる「もういい」という言葉が、もう復讐は十分になされたということを意味するものでも、社会が十分に変わったということを意味するものでもないことは明らかだ。「今でも全員殺したいけど、あたしやソラにひどいことしたやつぶち殺したいけど、それはあんたが、やらなくていい。17歳のあんたが、毎日毎日地獄みたいに最悪なこと思いだして、わざわざやらなきゃいけないことじゃない」。ここに示されているのは、17歳のときから変わらず酷いままの現実を諦めとともに受け入れてきたルイが、いまある社会をつくり上げてきた者のひとりとして下の世代に対する自分自身の責任を引き受け、そのことによって過去の自分をも救い出そうとする意志だ。
さて、ここまで書いてきたことはこの作品が描き抉り出そうとする現実のごく一部でしかない。例えば、イエのしがらみと分かちがたく結びついた「母性神話」とでも呼ぶべきものもまた、この作品では鋭く批判に晒されている。それがどのようになされているのかはぜひとも配信で確認していただきたい。特にソラとミウの母ケイコを演じる川隅奈保子の、その穏やかそうな見た目ゆえの「怖さ」は必見。
果てとチークは10月6日(金)から9日(月・祝)にかけて2名のアーティストとひとつの演劇ユニットが作品を発表する共同企画「もういない、まだいない」の一環として『まだ宵の口』『そこまで息が続かない』の2作品を上演予定。12月15日(金)から17日(日)には本公演として『グーグス・ダーダ』の上演も予定されている。
果てとチーク:https://hatetocheek.wixsite.com/hatetocheek
『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』配信ページ:https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=74578&
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果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年02月01日号)
2023/08/19(土)(山﨑健太)