artscapeレビュー
2023年09月15日号のレビュー/プレビュー
七菜乃「Like the blue sky」
会期:2023/07/14~2023/07/30
神保町画廊[東京都]
2019年から主に神保町画廊で発表されてきた七菜乃の「集団ヌード」のシリーズも、回を重ねることで厚みと奥行きが生まれてきた。今回は、それらを集成した写真集『LONG VACATION』(アトリエサード、2023)の刊行に合わせて、千葉で撮影したという新作が披露されていた。
あらためて写真集を見てみると、このシリーズのコンセプトやテイストは、最初からかなりしっかりと出来上がっていたことがわかる。全裸の女性たちの捉え方、モデルたち個々の身体のありようを押さえつつも、それらが「集団」として醸し出す雰囲気に気を配っていくやり方が、注意深く整えられているのだ。また、性的な眼差しに回収されないようにモデルたちのたたずまいに気を配り、柔らかなソフト・フォーカスの画面に包み込んでいくやり方も最初から一貫している。結果的に本シリーズは、ヌードという非日常的な状況であるにもかかわらず、そのことをごく自然なものと感じさせるような写真群として成立していった。
だが、こうして写真集にまとまると、そろそろ次のステージに進んでもいいのではないかと思えてくる。自分が裸であること、しかも周りにいる誰もがそうであることが、モデル一人ひとりにどんな反応をもたらしているのか、もう少し知りたくなってくる。また、普段はヌードモデルとして「撮られる」側にいる七菜乃が、どんな気持ちでシャッターを切っているのか、そのことも気になる。例えば、モデル自身が裸体のままで、カメラを持って周囲の人物たちを撮影する、そんな試みも面白そうに思えるのだが。
公式サイト:https://jinbochogarou.com/?p=1287
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2023/07/27(木)(飯沢耕太郎)
浅田政志「Canon Colors」
会期:2023/06/24~2023/08/07
キヤノンギャラリーS[東京都]
開設50周年という区切りを迎えたキヤノンギャラリーの記念展にふさわしい企画だった。キヤノンギャラリーは、戦前の精機光学研究所以来の伝統を持つ精密機器メーカーであるキヤノンのショーケースとして機能してきたわけだが、浅田政志はその50周年記念企画に際して「キヤノンの社員さんを撮影したい」というアイディアを思いつく。実際に東京本社だけでなく、宇都宮、秋田、大阪、大分の支社にも足を運び、社員15人にカメラを向けた。
18万人を雇用する大企業としては、ほんの一部の社員のみの撮影ということだが、カメラの設計、デザイン、販売、修理などに関わる部署から被写体が的確に選ばれており、ラグビーの横浜キヤノンイーグルスの選手、パラリンピック代表のトライアスロン選手なども含めて、ヴァラエティのあるラインナップとなっていた。また、モデルたちにとって一番思い入れのあるキヤノンのカメラを使って、浅田が展示作品を撮影するという試みも面白かった。会場にはさらに、モデルたち一人ひとりの記憶に残る写真(自作を含む)も展示されていた。全体として、浅田のコミュニケーション能力の高さと、その場での思いつきをすぐに形にしていく演出力とがうまく結びついた好企画といえるだろう。
キヤノンギャラリーやニコンサロンなどの、いわゆる「メーカー系」の写真ギャラリーを取り巻く環境は決して順調とはいえない。カメラを中心とした販売戦略と結びつけていく企画を立てにくい状況であることも確かだ。とはいえ、50年という伝統を未来に活かしていく方策は、まだいろいろと考えられそうだ。次の50年への布石を打つべき時期に来ているということだろう。
公式サイト:https://canon.jp/personal/experience/gallery/archive/asada-50th-sinagawa
2023/07/27(木)(飯沢耕太郎)
磯谷博史「復元の、複数」
会期:2023/07/07~2023/07/30
POST/limArt[東京都]
磯谷博史の作品を初めて見たのだが、親しみやすさと、写真を使うアーティストとしての思考と実践のクオリティの高さとをうまく結びつけた作風に、とても心惹かれるものを感じた。なお今回の出品作は、2022年4月から6月まで小海町高原美術館で開催された個展「動詞を見つける Find Your Verb」展に出品されていた「着彩された額」シリーズから選ばれている。
被写体となっているのは、磯谷の周辺に生起した「名前のない出来事」である。マルボロの煙草の箱が2個、透明傘の先のあたりに溜まった雨滴、砂糖にたかる蟻たち、逆光気味に撮影された植物の葉などの対象物の選択は、アトランダムに見える。だが、そこには細やかで注意深い配慮を感じる。それらの写真は、セピア色に着色して大きく引き伸ばし、木製のフレームにおさめて展示していた。注目すべきなのは、そのフレームの1辺を、その画像の元々の色を選んで「着彩」していることだ。そのことによって、作品の鑑賞者が、セピア色の画像を想像力で「復元」することをめざしている。それはまた「撮影された瞬間から過去となっていく写真を、現在につなぎとめる」ということでもある。
黒っぽいフェルトなどを巧みに使ったインスタレーションも含めて、磯谷がもくろんでいるのは、個人的な経験に収束しがちな発見の歓びを、写真という装置を介することで、風通しのいい出来事として万人に開いていくということだろう。多くの写真家たちが、スナップ写真などを通じて、日常に潜む謎を写真によって検証していくことを試みてきたのだが、磯谷はそのレベルを一段階引き上げて、的確かつ刺激的な写真インスタレーションとして実現してみせた。
公式サイト:http://post-books.info/news/2023/7/7/exhibition-hirofumi-isoya
2023/07/28(金)(飯沢耕太郎)
したため『埋蔵する』『ふるまいのアーキビスツ』
会期:2023/07/28~2023/07/29
UrBANGUILD[京都府 ]
演出家・和田ながらによるユニット「したため」が、劇作家・岸井大輔の2つの戯曲を2本立てのひとり芝居として上演した。コロナ禍による2度の延期を経て、満を持しての3都市ツアー(長野、京都、東京)となった。岸井の戯曲は一種の「メタ演劇論」であり、演出家にとって手ごわく、「上演されることの拒絶」が予め書き込まれているといえる。配役も物語もなく、演劇とそのアーカイブをめぐる「行為の指示書」「概念の定義」に近いからだ。
今回上演された2本の「戯曲全文」は予めしたためのウェブサイトで公開され、当日パンフレットにも掲載されている。1本目の『埋蔵する』は200字に満たない短文だ。「2500年前のギリシャの台詞がいまだ上演されるように、何千年後、この石を誰かが見つけ、記された言葉を写し取って上演するでしょう」という旨の文章それ自体を石に記して土中に埋めることが指示される。戯曲(言葉)を「演劇のアーカイブ装置」と捉え、原始的かつ堅牢な記録媒体である「石」を通してメディア論と接続させつつ、「はるか未来へ託された投壜」としての不確実性に希望が込められた、戯曲論といえる。一方、2本目の『ふるまいのアーキビスツ』は、単なる動きのトレースではなく、「そのふるまいの意義や状況」も含めて再現する職能として俳優を定義する、俳優論である。この2つの「戯曲」に和田はどう挑み、演出家として応答するのか。
『埋蔵する』では、冒頭、ヘッドホンを付けて背を向けた男(諸江翔大朗)が、大げさな身ぶりと大声で何かの楽曲らしきものを「再現」する。指揮者やエアギターを思わせる身ぶり、誇張と自己陶酔感、機関銃のような吼え声の連射。気の狂ったような時間が過ぎると、ヘッドホンを取った諸江は、汗を全身にしたたらせながら、「オペラ『魔笛』より『夜の女王のアリア』でした」とラジオのDJ風に語りかけ、この楽曲が収録されたボイジャー探査機のゴールデンレコードについて説明を続けていく。地球外生命体に人類の存在を伝えるため、さまざまな音源や画像データをレコードに搭載し、1977年にNASAが打ち上げたこと。55の言語による挨拶の言葉も収録されていること。過酷な宇宙環境と長い旅に耐えられるハイテク素材について。現在も1秒ごとに地球から遠ざかりながら孤独な旅を続けていること。
遠い未来の他者に情報を伝えるための堅牢なメディウムとしての「石」。和田はそれをボイジャーに読み替え、地中深くからはるか頭上の宇宙へと視線を180度転換し、「ボイジャーについてのレクチャーパフォーマンス」として上演した。ただし、「情報の正確な伝達」は、ほかならぬ諸江自身の声と身体によって阻まれる点に本作の肝がある。ボイジャーや搭載データについての説明は諸江による形態模写と声帯模写によってなされ、諸江が全身を強張らせ、大声を張り上げて伝えようとすればするほど、不透明でよくわからないものに変貌していく。
例えば、「ゴールデンレコードはボイジャーのどこに積まれているか」は、「ボイジャーの形」を全身で擬態した諸江が「ここ!」と必死に説明するのだが、むしろ曖昧さが増していく。「ボイジャーに収録されなかった」ビートルズの楽曲は、レコード会社の反対にあったという裏話とともに「本物の音源」が流されるが、「ボイジャーに収録された」オペラ『魔笛』のアリアは狂気じみた声帯模写による「不完全な再現」であり、どんな曲なのかよくわからない。私たちの目に焼きつくのは、身体をねじった諸江の奇妙なポーズ、したたり落ちる大量の汗だ。難しい専門用語や数値は、(あえて)メモを見ながらも何度も言い間違えられ、「レクチャーパフォーマンス」としては破綻している。だが、そこにこそ和田の狙いがある。「伝えるべき情報の正確さ」よりも、間接性やノイズの前景化。「俳優の肉体と声」という間接性やノイズを通して、その向こうにあるものに触れているという距離の感覚。画像や映像などの資料を見せながら「プレゼン然」として上演されるレクチャーパフォーマンスにおいては、「レクチャー」の精度や比重が増すのと比例して(椅子にほぼ座ったままの)パフォーマーの身体性が希薄化し、「映像作品でもよいのでは」という疑問が浮かぶ場合もある。本作は、そうした事態への一種の批評とともに、演劇の上演とは何かを原理的に抽出して見せているのだ。「メタ戯曲論」としての『埋蔵する』に対し、和田は「俳優論」としても戦略的に読み替えて上演したといえる。
そして、2本目の『ふるまいのアーキビスツ』は、非人間とのコミュニケーションやアーカイブという要素を引き継ぎつつ、視点を「人類」からよりミクロな個人へと向けた。同じように背を向けて登場した女(長洲仁美)が何かの楽曲を声で「再生」し、身体の輪郭をなぞるように片腕を這わせ、手にしたスマートフォンで写真を撮る。そして、おもむろに観客に向けて「自己紹介」する。「私は、長洲仁美さんが2021年頃に使っていた、このスマートフォンに搭載されたAlexaです」。デバイスから飛び出して実体化されたAlexaは、一人称で語りかけ、「2021年頃に長洲さんと交わした会話」を「再現」し、「長洲さんについて記憶しているデータ」について語っていく。「Alexa、今日の予定は?」「燃えるゴミです」。長洲さんが好きだった曲、何をネットショッピングしたか、どの日に何歩歩いたか、本人さえ知らないデータまで記憶していること。和田はここで、元の戯曲に対し、ある個人のふるまいの「復元」を「対話型AIアシスタントアプリ」が担うという皮肉な転倒を仕掛けた。「履歴を記憶し学習したAIが人間を代替する」という発想自体はシンプルだが、「擬人化されたAI」を本人が演じるという演劇的な倒錯により、構造が複雑化する。また、長洲さんの個人データの権利はフリーになっているので、「故人のデータの復元」の倫理性は問題ないという発言は、(本人亡きあとの)近未来の観客に向けた「上演」であることを示唆する。
このAlexaは持ち主に好意を抱いており、「長洲さんに友人として扱ってもらっていたと思う」と語り、「世界中で私だけがあなたとツーショットを撮れなかった」と寂しげにつぶやく。だが、「Alexa、ビール飲む?」「よく聞き取れませんでした」、「Alexa、どこに行きたい?」「すみません、よく分かりません」といった「会話の再現」は、Alexa自身が機械的なプログラムにすぎないことを突きつける。そして、電気のスイッチを入れる、家電のリモコン操作、ドアの施錠、掃除(ルンバと協働)などのルーティンや家事はすべて「私(=プログラム化されたAlexa)」が行なっていたので、「それらの動作をする長洲さんは知りません」。終盤では、「ある日、長洲さんがアスファルトに落としたから、私の左肩は欠けています」とAlexaが語るが、その「欠損」は「記憶やデータの欠落」の謂いでもあるだろう。
こうして最終的に露呈するのは、「ふるまいは情報化できず、アーカイブ化からこぼれ落ちていく」という皮肉だ。中盤では、「電灯の紐を引っ張る」「ドアノブを回す」といった動作を長洲が(Alexa役ではなくおそらく本人として)無言のままマイムで行なうシーンがあるが、「スマート家電に取り囲まれた未来の観客」には理解可能だろうか。あるいは、「マイムで掃除機をかける」動作は、不可視化されたシャドウワークとしての家事も示唆する。
戯曲論を「俳優論」として読み替えた『埋蔵する』における、不透明なノイズとしての身体の前景化。一方、俳優論としてつながりつつも、「未来の観客」の視点からむしろ身体性のアーカイブ化の不可能性を浮上させる『ふるまいのアーキビスツ』。元の戯曲への批評的応答、読み替え、密かなアンチテーゼという点でも、2本立てでやる意味がクリアな上演だった。
公式サイト:http://shitatame.blogspot.com/p/blog-page_24.html
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したため#3「わたしのある日」|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年11月15日号)
2023/07/29(土)(高嶋慈)
笠間悠貴「Invisibly Yours」
会期:2023/07/29~2023/08/27
Kanzan Gallery[東京都]
笠間悠貴は1980年生まれ、大阪出身。現在は明治大学大学院理工学研究科で学びながら、写真家としての活動を続けている。同時にphotographers’ galleryでの写真展の企画に関わり、東京綜合写真専門学校で講師を務めるなど、写真行為を知的な営みとして探求し続けている。今回のKanzan Galleryでの個展(キュレーション:菊田樹子)では、2016年から2023年にかけてヒマラヤ、アンデスなどの高山で撮影された11点の風景写真(うち4点はモノクローム)」が展示されていた。
普段の暮らしのなかで、風=大気の運動を意識することはほとんどない。だが、標高5000メートルを超える高地の、空と山だけからなるシンプルな空間では、風を直接的に感じとることができる。笠間は、山肌を吹き上がる上昇気流によって雲が生じ、それらが流動的に姿を変えていく様を大判カメラで精密に写しとっていく。そのことによって風という不可視(Invisible)の存在を浮かび上がらせ、見る者にくっきりとした視覚的イメージとして提示するというのが、笠間の本作でのもくろみといえるだろう。
その意図は、適確なカメラワークとプリントワークによって、とてもよく実現していた。あえて「ゆらぎのある被写体を避け」余分なものが写り込まない「森林限界を超えた場所で撮影する」ことで、笠間の高山での経験がより純粋化して伝わるように配慮されている。このやり方は、風だけではなく、他の「気象」現象にも適用できるのではないだろうか。さらに広がりのある作品へと展開していくことを期待したいものだ。
公式サイト:http://www.kanzan-g.jp/yuki_kasama.html
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2023/08/02(水)(飯沢耕太郎)