2018年10月15日号
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artscapeレビュー

2016年03月01日号のレビュー/プレビュー

作家ドラフト2016 近藤愛助 BARBARA DARLINg

会期:2016/02/02~2016/02/28

京都芸術センター[京都府]

若手アーティストの発掘・支援を目的に行なわれる京都芸術センターの公募企画展。今年は美術家の小沢剛が審査員を担当し、104件の応募の中から近藤愛助とバーバラ・ダーリンの展示プランが採用された。近藤は、移民としてサンフランシスコで暮らし、第2次大戦中に日系移民収容施設に入った経験を持つ曾祖父の人生を、遺品、写真、映像などでたどるインスタレーションを発表。国家や時代に翻弄される人間の姿を描きながら、現在ドイツに住む自身の姿とも重ね合わせていた。一方、ダーリンの作品は上映時間約10時間の長尺映像作品。東京から青森まで自動車で旅する男女の姿を、ほぼ後部座席からの車載カメラで捉えている。ほかに宿泊、食事、寄り道などの場面もあるが、「愛している」の一言以外2人の音声は消去され、外部の音も一部の場面以外は聞こえない(ちなみに筆者は2時間以上粘ったが、台詞を聞けなかった)。両者の作品に共通するのは、個人的な記憶がテーマになっていることであろうか。強度のある表現が個人の枠を突き破り、普遍性へと至る可能性を示すこと。小沢が2人を選んだ意図はそこにあったと思う。

2016/02/02(火)(小吹隆文)

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デジタルメディアと日本のグラフィックデザイン──その過去と未来

会期:2016/01/29~2016/02/14

東京ミッドタウン・デザインハブ[東京都]

1970年代から2000年代まで、コンピュータとグラフィックデザインの関係をたどり、さらに未来の姿を考える企画。展示の区分としては、70年代以前を「プレデジタルメディアの時代」、80年代を「CGの時代」、90年代を「マルチメディアの時代」、00年代を「ウェブ広告の時代」とし、そして2045年以降の未来を「シンギュラリティの時代(人工知能の発達が爆発的に進み、予測不可能になるとされる未来)」と設定している。会場に来るまで出展作家リストに荒木経惟や金子國義の名前が挙がっていることを不思議に思っていたのだが、彼らはマルティメディア時代草創期にそのコンテンツとして作品が用いられた作家たちだった。いまとなっては信じられないくらい画像の解像度が低いが、それでもPC上で写真集を見ることができたり、マルティメディアで作品世界を探訪する体験は非常に新しく、それも初期にはMacintosh使用者の特権だった。すばらしいことに、この展示では90年代、00年代に関しては、再生する機器におおむね同時代のMacintoshやPowerbookが使用されていた。Macintosh Plusの小さな画面を見ながら、角張ったひとつボタンのマウスで実際にコンテンツを操作することができるのだ。実機を集めるのに苦労したのではないだろうか。より新しい機器で再生可能なソフトウェアであっても、同時代のハードウェアの制約と合わせて体験できるようにということなのだそう。そのような練られた企画のために、歴史を辿り未来を見据えることが主旨だと頭では理解しつつも、ついついノスタルジックな気分に浸ってしまう。「ああ、メディアがフロッピーディスクだ!」「ハイパーカードのスタックが動いている!」。体験としてそれを語ることはできても、まだ客観的な歴史として整理することは難しいかも知れない。
 ただ、これも体験による試論でしかないのだが、歴史を語る方法としては、表現の変化を見るよりも、あるいはメディアの変化を見るよりも、それらの担い手の変化を探るほうが有効であると思う。たとえば90年代初頭、DTP(Desk Top Publishing)草創期にそれを手がけていたのは印刷業とは無縁あるいは周辺の人たちが多かった。書体の種類は少なく、組版上の制約は多く、写植・電算写植でできることとは雲泥の差があり、それらを手がけはじめたのはタイプライターよりもよいというレベルでの仕事からスタートできた人たちか、実験的な試みが許される一部の紙メディアであり、当然のことながら業界の中心ではなかった。数百万円の機械で文字を組み、数千万円の機械で写真をスキャンし、数億円の機械でそれをレタッチしていた人たちがそれらの投資を捨てて新しい時代へと移行するのは、もう少しあとのことだ。印刷メディアが必要とする解像度の出力は容易ではなかったが、コンピュータの可能性を信じた人々が着目したのが画面での表現で、それがすなわち「マルチメディアの時代」をつくったのだともいえる。いまならまだ変化の時代を体験した関係者に対するオーラルヒストリーが可能だ。どなたかにぜひお願いしたい。[新川徳彦]

2016/02/06(土)(SYNK)

小林哲朗 NO ARCHITECTS「魅せる工場展」

会期:2016/01/20~2016/02/28

あまらぶアートラボ A-Lab[兵庫県]

日本屈指の工業地帯を有する兵庫県尼崎市で、工場写真をテーマにしたユニークな展覧会が行なわれた。写真家は、尼崎市在住で、工場、廃墟、巨大建築物などの写真で知られる小林哲朗。展示プランを担当したのは、建築家ユニットのNO ARCHITECTSだ。展示室内にはさまざまな大きさのボックス(その大半は人間の背丈を超える)がランダムに配置され、大きく引き伸ばした写真が壁一面に貼り付けられている。巨大な煙突、建物に張り巡らされたダクトや配管、吹き出す水蒸気といった工場特有の機械美・機能美が圧倒的なスケールで目前に迫り、それらがひしめき合いながら奥行のある空間に展開しているのだ。通常の写真展ではほぼ同じ大きさのプリントが壁面に整然と並んでおり、インスタレーションを意識した場合でも写真自体が立体的に扱われることはまずない。ところが本展では、3次元的な展示空間が設けられ、観客は工場の中をさまようような感覚を味わえるのである。写真表現の新たな可能性を示したという点で、このコラボレーションは大成功と言えるだろう。

2016/02/07(日)(小吹隆文)

静物学 小林且典展

会期:2016/01/30~2016/02/28

ギャラリーあしやシューレ[兵庫県]

原型制作から鋳造までを自身で行なうブロンズ彫刻と、それらを卓上に配置して撮影した写真、木彫などの作品で知られる小林且典。本展でもそれらの作品が展示され、細部まで考え抜かれた配置で彼らしい美の世界を作り上げた。小林のブロンズ彫刻といえば、型から抜き出した状態そのままの生々しい姿が特徴。見る者はそこに侘びた味わいや無垢の精神性を見出す訳だが、近作の中には表面をツルツルに磨いた光り輝くものがあり、彼の制作が新たな段階に入ったことを窺わせた。また、同じモチーフを繰り返し使用し、そのバリエーションを写真に収める彼の手法は、イタリアの画家モランディにも通じる美意識が感じられる。それは小林がイタリアでブロンズ彫刻を学んだことと関係しているかもしれないし、こちらの勝手な妄想かもしれない。ただ、画廊オーナーも同じことを考えていたらしく、本展の会期を兵庫県立美術館の「モランディ展」に合わせていたのであった。

2016/02/07(日)(小吹隆文)

冨士山アネット『DANCE HOLE』

会期:2016/02/04~2016/02/09

のげシャーレ[神奈川県]

フライヤーの「本作は出演者の居ないダンス公演」とは本当だった。のげシャーレの普段は通らない廊下を抜けて、観客はまず楽屋に通される。待っているのは、例えれば〈食べるはずが食べられてしまう〉あの「注文の多い料理店」。「見る」担当であるはずの観客は、真っ暗な舞台空間へと連れて行かれ、指示の声に促され、それに応えるうちに、いつの間にか「踊る」担当にされてしまう。天からの声が指示を出し、観客たちは二人ひと組で向き合うと、手をつなぎ、体を接近させて回るといった「ダンス」を踊る。この「ダンス」を見る普通の観客はいない。しかし、この場で唯一の見る者として指示の声がいるわけで、この声の主に観客=ダンサーは見られたまま、上演の60分を過ごす。ダンスを見る者は、大抵、踊る身体に同化したり突き放されたりして見る。それと、見る者が見られる者へと立場を実際に交換することとは、雲泥の差がある。筆者は、この体感型アトラクションを満喫しながら、ひたすら怖がっていた。本作タイトルは「DANCE HALL」ではなく「DANCE HOLE」。不意に「穴」に落とされた感じだ。それは指示の声にひたすら応えるマゾヒスティックな官能さえあった。これはダンスの追体験である以上に、舞台あるいは舞台本番というものの追体験であり、それ故の怖さがあった。ダンスの追体験を目論むのであれば、緊張感を削いだワークショップ形式であってもよいはずだ。しかし、そうではなく、冨士山アネットの狙いとしては、舞台に身を置く緊張こそ観客に体感してもらいたいということがあったのではないか。最後に渡された紙には「これからが本番です」といった言葉が書かれてあった。つまり、本番のはずの時間を過ごしたあとこそ、人生という本番がある。これは、そのためのリハーサルだったわけだ。その狙いはとても面白いのだが、ここで経験するダンスが、もう少しダンス史を観客が知るきっかけになっていたらよいのではないかと思った。踊ることを通して、もう少し踊りとはなにかがわかってくるとよいのだが、なかなかそうはならない(しかし、1時間くらいの「本番」でわかるはずもないのだが)。もうひとつ気になったのは、これを楽しみたい観客ってどんな観客なのだろうということ。ワークショップのマニアみたいな人がダンスの世界にいるようだけれど、そういうひと向け? あるいは、この世にいろいろと理解したらよいことがあるなかで、ほかならぬ「ダンス」を体験させることの意味とは? といった問いが明確になると、こうしたアトラクション型の公演がいま以上の脚光を浴びるなんて日が来るのかもしれない。

2016/02/07(日)(木村覚)

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