artscapeレビュー

渡辺篤 ヨセナベ展

2014年08月01日号

会期:2014/06/28~2014/07/19

Art Lab AKIBA[東京都]

いま、グラフィティのメッカは渋谷でも新宿でもなく、浅草橋である。とりわけ総武線の高架下には、質的にも量的にも、すぐれたタギングが多い。もちろん、それらは法的には違法行為であり、すべてをアートとして評価することはできないが、だとしても私たちの視線を鍛え上げる魅力的な触媒であることに違いはない。
その浅草橋と秋葉原のあいだにある会場で美術家の渡辺篤の個展が催された。今回発表されたのは、そのグラフィティをはじめ、宗教団体、ホームレス、右翼の街宣車などを主題とした、おびただしい作品群。卒制として発表された池田大作の巨大な肖像画から近作まで大量に展示されたから、ほとんど回顧展のような展観である。
それらの主題は、確かに私たちの社会的現実に即している。けれども同時に、私たちの多くが、それらを正視することを避けがちでもある。まさしくグラフィティがそうであるように、私たちは見ているようで見ていない。ホームレスのブルーシートハウスも、右翼の街宣車も、視界には入っているが、決して焦点を合わせようとはしない。渡辺の視線は、そのような社会の隙間に埋もれがちな対象を、じつに鮮やかに切り出してみせるのだ。
それは一方で批評的な身ぶりとも言えるが、他方で偽悪的ないしは露悪的な振る舞いとも言える。溜め込んだ鼻くそを固めた金の延べ棒や、枯山水を主題にしながらも庭石をブルーシートで覆った屏風絵などは、ある種の批評性を求める人びとにとっては痛快な作品だが、ある種の美意識をもった方々には到底受け入れられない代物だろう。その微妙なラインを渡辺は巧みに突いている。
とはいえ、渡辺の真骨頂は必ずしもそのような悪意のある批評性にとどまらない。それは、むしろ渡辺の視線が、グラフィティであれホームレスのブルーシートテントであれ右翼の街宣車であれ、そして現代アートであれ、すべてを等しく「表現」として見ている点にある。行政によって壁に貼付された落書き禁止の通告書をていねいに写生し、現物の横に一時的に掲示したうえで、額縁に収めて会場で発表した作品は、シミュレーションには違いないが、そうすることで通告書にひそむ「表現」を導き出したとも言える。無味乾燥で抽象化された通告書を見ても、それがどこかの誰かによってつくられた表現であるとは思わない。けれども、すぐれたグラフィティを目の当たりしたとき、その作者の存在に思いを馳せるように、渡辺は通告書ですら紛れもない表現であることを、その精巧なシミュレーションによって浮き彫りにしたのである。

2014/07/10(木)(福住廉)

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