artscapeレビュー
靖国・地霊・天皇
2014年08月01日号
会期:2014/07/19
ポレポレ東中野[東京都]
美術家の大浦信行による新作映画。美術評論家の針生一郎や韓国の詩人、金芝河、思想家の鶴見俊輔らを手がかりに、日本近代や天皇制の問題について映画をとおして思索を重ねてきた大浦が、ついに靖国神社について映画を撮った。246万の戦没者を「英霊」として祀る靖国神社の問題は根深い。先の戦争にかかわる歴史認識やA級戦犯の合祀、あるいは政教分離や首相参拝などをめぐって、いまも議論は紛糾している。この映画では、靖国についての持論を開陳する右派と左派を代表する2人の弁護士が、左右の対立によって分割されている問題圏としての靖国を象徴的に体現している。それぞれの言い分には、それぞれの論理と正義、そして情緒が見受けられるため、妥結点を見出すことは容易ではないことがわかる。
ただ、この映画の醍醐味は、そうした政治的イデオロギーの対立を再確認させることではない。むしろ、映画の全編にわたって一貫して描写されているのは、左右対立の図式の下に広がる「血の海」である。決して望まない死に方を強いられた日本兵や、靖国での再会を母に誓いながら死んでいった従軍看護婦たちが残した言葉の数々。彼らの生々しくも痛切な声は、「犬死」や「英霊」といった事後的な「死」の意味づけを突き抜け、私たちの心の奥深くに突き刺さる。それゆえ、靖国神社の祭りや二重橋、繁華街を映した赤みを帯びた映像は、血涙を絞った彼らが死してなお現在の都市を彷徨しているように見えてならない。靖国神社の基底にある「血の海」は、現在の都市風景にまで溢れ出ているのだ。
むろん、「血の海」が直接的に目に見えるわけではない。だが、この映画の詩情性は、あたかもそれが目に見えるように錯覚させる。おびただしい「血の海」に木霊する、激しい憎しみや怒り、そして言いようのない哀しみ。映画の随所で幾度も感じられるのは、それらを発する地霊の気配である。劇団態変を主宰する金滿里の踊りは、大地と密着しながら身体を搖動することによって、地霊たちに呼びかけ、身体に彼らを宿らせているように見えた。地霊が見えるわけではない。だが、気配を感じ取ることはできるのだ。
芸術がある種の感性の技術として育まれてきたとすれば、それは死者たちの沈黙の声に耳を傾け、彼らの気配を察知する経験として位置づけ直すこともできよう。戦争がしたくてたまらない為政者に反逆するには、何よりもこのただならぬ気配を感知する技術を研ぎ澄まさなければならない。芸術の意味は、ここにはっきりある。
2014/07/19(土)(福住廉)