artscapeレビュー
2016年02月01日号のレビュー/プレビュー
肉筆浮世絵の美──氏家浮世絵コレクション
会期:2016/01/01~2016/02/14
鎌倉国宝館[神奈川県]
製薬会社の経営者であった氏家武雄氏が蒐集した肉筆浮世絵のコレクション展。戦前期から日本美術を収集していた氏家氏は、戦後浮世絵、それも1点ものの肉筆画の蒐集に専念することを志す。1974年10月1日、鎌倉国宝館内に財団法人氏家浮世絵コレクションが設立され、集めた作品は鎌倉市と協力して保存公開されることになった。この財団設立から40年を迎えて2014年から松坂屋美術館、いわき市立美術館と巡回してきた企画が本展である。分業によって制作される刷り物とは異なり、画家自身の筆遣い、色遣いが現われていることが本コレクションの特徴だ。出展作には歌麿、春章、師宣もあるが、数の点でも印象の強さでも北斎。北斎美人画の代表作といわれる「酔余美人図」(1807年頃)、晩年の武人画「雪中張飛図」(1843年)等々に魅せられる。興味深い史料としては、松楽斎眉月「役者絵(かおとはな)」(1812年)、清谷「役者絵(すがたづくし)」(1804 30年頃)がある。いずれも役者の顔の描き分けが様式化されておらず、個性的なところが見ていて楽しい。司馬江漢「江之島富士遠望図」(1807年)は、実際には海岸からは江の島の右手に見えるはずの伊豆と富士を島の背後に配しているところ、その写実的な表現とのギャップが面白い。[新川徳彦]
2016/01/03(日)(SYNK)
超細密! 明治のやきもの 幻の京薩摩
会期:2016/01/02~2016/01/31
美術館「えき」KYOTO[京都府]
明治時代に海外で人気を博し、外貨獲得の輸出品として大量生産された薩摩焼。本家は鹿児島だが、大阪、京都、神戸、横浜でも生産され、大阪薩摩、京薩摩などと呼ばれた。本展はそれらのうち京薩摩に注目し、清水三年坂美術館の所蔵品で振り返るものだ。薩摩焼の特徴は人間離れした超細密な絵付けと金彩の多用だが、本展の作品も超絶技巧のオンパレードであり、あまりにも細かい装飾ゆえに途中で目が疲れ、何度も根負けしそうになった。しかしこれらの見事な工芸品を見て思うのは、昔から変わらぬ日本人の性質である。薩摩焼では極限的な技術を徹底的に追求し、器本来の実用性を超えて装飾が肥大化していく。それは現在の国内メーカーの一部に見られるガラパゴス化にも通じるのではないか。京薩摩のゴージャスな美しさに魅了される一方で、そんな思いが脳裏を横切るのであった。
2016/01/07(木)(小吹隆文)
山本爲三郎没後50年 三國荘展
会期:2015/12/22~2016/03/13
アサヒビール大山崎山荘美術館[京都府]
アサヒビールの初代社長・山本爲三郎(1893~1966)の没後50年を記念して、彼が生前に民藝運動をあつく支援した証である「三國荘」を再考する展覧会が開催されている。三國荘は元々、民藝運動の創始者である柳宗悦が1928年の御大礼記念国産振興東京博覧会に出品したパビリオン「民藝館」であり、博覧会終了後に山本が買い取り、大阪・三国の自宅に移築して「三國荘」と命名した。本展では、山本コレクションの陶磁器・調度品など三國荘ゆかりの品々を展示しているほか、三國荘の応接室と主人室を実寸大で再現しており、当時の様子をリアルに体感できる貴重な機会となっている。山本は民藝以外にも様々な美術工芸品をコレクションしており、それらのうち少なからずが関西の美術館・博物館に寄贈されている。我々はその恩恵を受けている立場であり、彼の業績に深く感謝を捧げるべきであろう。
2016/01/07(木)(小吹隆文)
夷酋列像─蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界─
会期:2015/12/15~2016/02/07
国立歴史民俗博物館[千葉県]
夷酋列像(いしゅうれつぞう)とは、松前藩の家老、蠣崎波響(かきざきはきょう)(1764-1826)が描いたアイヌの指導者たち12人の肖像画。本展は、それらの全点と関連する資料を一挙に展示したもの。比較的小規模な企画展だが、絵画のなかに描かれたアイヌの表象と、彼らが身につけた装飾品の実物が併せて展示されているため、知られざるアイヌの世界を垣間見ることができる。
日本美術史において北海道はある種の空白地帯である。そこは民族学的にはアイヌが先住しており、地政学的には「蝦夷」として長らく周縁化されてきたからだ。しかもアイヌには「北海道旧土人保護法」(1899~1997)により財産を奪われ文化を否定されてきたという背景がある。「日本」からも「日本美術史」からも排除されたアイヌの造形表現は、依然として解明されていないことが多い。したがって夷酋列像は類稀なアイヌの表象として希少価値をもつ。
注目したのは、その人物表現。いずれも一見して異様な風貌として描かれているのがわかる。一本につながった太い眉毛や口元を覆い隠すほどの濃い髭、そしてずんぐりとした巨体に不敵な印象を残す三白眼。なかにはラッコの毛皮を敷物にしたり西洋風の外套を羽織ったりしている者もいるから、当時のアイヌが文化的にも経済的にもロシアと密接な関係にあったことが伺える。
しかし、もっとも特徴的なのは、それらの人物像の異様さが陰影法によって増幅されている点だ。眼の下はいずれも色彩が濃いため面妖な印象が強いし、とりわけ脛は陰影を明確に描き分けることで筋肉の剛性を立体的に強調している。このような描写法は、基本的には陰影や濃淡を排除しながら平面性を一貫させる大和絵の画風とはじつに対照的だが、どちらかといえば現在のアニメーションに近い。北海道博物館の学芸員、春木晶子によれば、「陰影(法)は、自分たちと異なる者を示す記号」(図録、p.13)だったのだ。
他者としてのアイヌの表象。夷酋列像はアイヌ自身によるアイヌの肖像画ではなかった。蠣崎波響が松前藩の家老だったように、夷酋列像は和人によって表象されたアイヌのイメージである。事実、そこに描き出された12人のアイヌの指導者たちは、1789年に和人の圧政に耐えかねたアイヌが蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」で、争いを終息させるために松前藩に協力した者たちだった。つまり夷酋列像とは、アイヌという他者の表象にとどまらず、野蛮な彼らを支配下に置く松前藩の統治能力を訴える、じつに政治的な絵画だった。会場には時の天皇が夷酋列像を謁見したという記録や、諸藩による模写も展示されていたから、この絵画の政治性は全国的に行き届いていたようだ。
かつてエドワード・サイードが『オリエンタリズム』で指摘したように、西洋近代は他者としての東洋を一方的に表象することで西洋の知の体系を再生産してきた。むろん日本もまた西洋に表象されてきたわけだが、夷酋列像が示しているのは、その一方で、日本が他者としてのアイヌを表象する権力を行使してきたという事実である。すなわち日本は西洋に表象される客体であり、同時に、アイヌを表象する主体でもあった。ここから類推しうるのは、単一民族国家として信じられがちな「日本」が、じつはさまざまな民族が混在した群島であり、そこには西洋と東洋の不均衡な関係性と同じように、表象をめぐる権力関係が随所で入り乱れているという仮説である。これを実証する余裕はないが、例えば「アイヌ」を「沖縄」に置き換えてみれば、その妥当性はある程度実感できよう。
夷酋列像はアイヌの生態をロマンティックに描いた記録画ではない。それは、歴史の深淵から現在のポスト・コロニアリズム的な状況を照らし出す、きわめてアクチュアルな絵画なのだ。
2016/01/07(木)(福住廉)
旅と芸術─発見・驚異・夢想
会期:2015/11/14~2016/01/31
埼玉県立近代美術館[埼玉県]
「旅」をキーワードにしながら西洋の近代美術を振り返った企画展。ローマの都市風景を描いたピラネージの銅版画をはじめ、ターナー、モネ、ルソー、クールベらが描いた風景画など200点あまりが展示された。人類の移動というダイナミズムによって美術史を再編成しようとする野心的な展覧会である。
よく知られているように、人類の移動と想像力は同伴しながら発展してきた。ハルトマン・シェーデルの『年代記』(1493)やヤン・ヨンストンの『動物図説:四足獣篇』(1649-57)には、頭がなく胸に顔がある怪物や一角獣のような空想的な動物が描かれている。それらは単に神話的な図像というより、まさしく人の移動によって得られた発見と驚異、夢想の現われなのだろう。近代地理学が確立されるまで、人は未知の土地を想像力によって把握していたのだ。
近代はそのような人類の想像力を許さなかったが、その反面、移動の範囲を飛躍的に拡大することで想像力を別の局面に押し上げた。産業革命により鉄道交通網が拡張すると、人は都市と都市、あるいは都市と郊外を頻繁に往来するようになり、新たな視覚芸術を生産するようになった。クロード・モネの《貨物列車》(1872)が端的に示しているように、人は鉄道で移動することによって都市近郊の田園を「風景」として再発見したのであり、19世紀後半にスフィンクスを撮影したイポリット・アルヌーの写真が如実に物語っているように、観光産業と写真の流通が異郷へのエキゾティシズムを増幅したのである。事ほど左様に、旅と芸術は分かちがたく結びついているというわけだ。
しかし、疑問がないわけではない。「空想の旅・超現実の旅」と題された第5室で、ブルトンやマックス・エルンスト、ポール・デルヴォー、ルイス・キャロルらの作品が展示されていたからだ。すなわち、本展はシュルレアリスムによる無意識の探究や児童文学による空想世界への憧憬もまた、「旅」として考え含めていたのである。むろん心の深淵に想像力を飛躍させることを意識の移動としてみなすことはできなくはない。けれども、物理的な移動も心理的なそれも「旅」だとすれば、たとえ自宅から一歩も外出しなくても「旅」をすることが可能となり、であれば何が「旅」で何が「旅」ではないのか判然としなくなってしまう。本展が明示しているように、「旅」とは「日常生活を離れて別の土地へと移動し、そこで出会うものに驚き、感動を覚え、世界の多様性を感じ取ること」だとすれば、それはおのずと空間的・物理的な制約を前提とした移動概念ではないのか。
ここには日本の一部の美術館が抱えている根深い問題がある。それは、意識的にか無意識的にかはともかく、概念規定が著しく脆弱であるがゆえに展覧会の構成が漫然としてしまうという問題だ。例えば昨年開館した大分県立美術館は、坂茂が設計したことで大きな話題を集めたが、その開館記念として「モダン百花繚乱『大分世界美術館』」展を催した。展示されたのはウォーホルやピカソ、マティスのほかにイサム・ノグチやアンリ・ルソー、さらには尾形乾山や与謝蕪村、三宅一生、松本陽子、横山大観まで、まさしく百花繚乱といえば百花繚乱ではあったが、しかし展示会場を実見してみても、それらのいったいどこが「モダン」なのか、到底理解に苦しむ構成だったと言わねばなるまい。多少の皮肉を込めて言い換えれば、モダンを標榜しながらも、そのキュレーションは無責任で野放図な、すなわちきわめて悪質なポストモダン的なものだったと言ってもいい。
「モダン」にせよ「旅」にせよ、必要なのは指示対象を厳密に限定した明快な言葉を設定することである。このようなごくごく基本的な仕事が疎かにされている現状こそ、驚異をもって発見してもらいたいものだ。
2016/01/08(金)(福住廉)