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北アルプス国際芸術祭2017 ~信濃大町 食とアートの回廊~ その2

2017年08月01日号

会期:2017/06/04~2017/07/30

大町市内各所[長野県]

問題なのは、そのような芸術祭にふさわしい類型的な作品が、芸術祭という形式にとっての最終形態であるように感じられる点にある。仮に現行の日本型芸術祭の端緒を「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2000」に求めるならば、アーティストたちはその形式のなかで自らの美術作品を問いかけ、17年もの時間をかけて切磋琢磨することによって、芸術祭にふさわしい作品が徐々に選別されてきたことになる。その取捨選択の政治学は決して悪いことではないし、芸術祭で歓迎される作品が洗練されることもことさら否定されるべきではない。美術館で歓迎される作品が恣意的に選別されてきたことは誰もが知る事実であるし、それが眼に見えて先細りになっている以上、芸術祭という新たな形式の開発は、結果としてアーティストに新たな発表の機会をもたらし、事実として美術作品の幅に広がりを与えたからだ。アトラクションと体感を重視する類の作品の台頭は、大衆に受容され支持されることを必要条件とする芸術祭という形式が日本社会に定着する道のりの必然的な帰結とも言えよう。だが、それが発展途上の形態ではなく、完成形だとしたら、どうだろう。完成形とは、言い換えれば、その先に発展する見込みが望めないということだから、仮に場所を移動しながらバージョンアップすることはあっても、基本的な「文法」は変わらない。今後日本の各地で開催される芸術祭や国際展で、目のようなアトラクションと体感を重視した作品が来場者の広範な支持を得ながら増加することは容易に想像できる。しかし、そもそもアーティストの仕事は、「文法」の応用ではなく、「文法」そのものの開発ではなかったか。
例えば里山と棚田が広がる小さな集落で制作・展示されたフェリーチェ・ヴァリーニの作品は、家屋の外壁や屋根のいたるところに黄色い曲線を描いたものだが、ある一点から鑑賞すると線と線が結びつくことで楕円形の模様が浮かび上がるように見える。しかし、これは原理的には、室内空間を塗り上げることで任意の地点から幾何学的な形態を浮上させるジョルジュ・ルースの作品の「応用」である。屋外で、より大規模に展開したところに独自性を見出すこともできなくはないが、それは必ずしも文法の開発とは言えない。

それに比べれば、多くの参加アーティストが風土を過剰に意識した作品を発表するなか、そうした類型的な作品とは明確に一線を画しながら、自らの作風をあくまでも貫いた岡村桂三郎のほうが、たとえ文法の開発とまでは言えないにせよ、芸術祭という形式を一切省みない頑なな態度が、かえって芸術祭にふさわしい類型的な作品の歪さを逆照するという点で、批評的に見えたのも偽らざる事実である。岡村は、例によって焼いた平面をスクレーパーで削り出した巨大な屏風状の作品を、会場とした休憩施設の中に、これでもかというくらいに大量に展示して見せた。主題としているのは、いつものように龍や鳥などの神獣や人間だから、作品が一変したわけではない。だが、決して広くはない空間に押し込められた作品の物量が、いつも以上にすさまじい迫力を倍増させていた(2015年、岡村は浜松市秋野不矩美術館で大規模な個展を催したが、延床面積で言えば、その個展のほうが圧倒的に大きいはずだが、作品が醸し出す迫力という点で言えば、本展のほうが明らかに勝っていた)。作品を芸術祭に従属させるのではなく、芸術祭を作品に従属させること。岡村が示しているのは、類型化を進行させつつある現在の芸術祭に対するアーティストなりの気骨ではなかったか。
いずれにせよ問題の所在は芸術祭に最適化した作品である。それが最終形態を迎えているとすれば、それを無限に反復ないしは増殖させることで芸術祭という形式の寿命を延ばすことはできるかもしれない。だが、それは美術の本質とはまったく無関係である。地域再生や観光振興といった目的が直接的に紐づけられているにせよ、原則的に言えば、芸術祭とは美術作品を媒介としながらアーティストと来場者、そして地元住民が出会うための形式にすぎないからだ。美術が時代とともに形態や思想を変容させてきたことは事実だとしても、その作品が芸術祭によって類型化を免れないとすれば、私たちはいずれ芸術祭という形式を思い切って打ち砕く必要に迫られるかもしれない。いや、あるいはすでに次の形式を探し出す旅に出発する時機が到来しているのではないか。

2017/07/10(月)(福住廉)

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