artscapeレビュー

2022年04月15日号のレビュー/プレビュー

Chim↑Pom展:ハッピースプリング

会期:2022/02/18~2022/05/29

森美術館[東京都]

筆者の著作『建築の東京』(みすず書房、2020)は、オリンピックにあわせて刊行した東京論だが、実は表紙にChim↑Pomのスクラップ&ビルドをテーマにした展覧会の会場写真を用いている。建築・都市論なのだが、どうしても東京の再開発で使いたい写真がなかったからだ。そもそも同書は、東京におけるデザインの保守化を批判的に論じており、第一章ではむしろChim↑Pomや会田誠らのアーティストの空間的な想像力をとりあげている。つまり、彼らの作品は、建築・都市論の文脈からも刺激的なのだ。

さて、これまでの活動を振り返る「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」は、約8割はすでに美術館やギャラリーなどの会場で見ていた作品やプロジェクトだったが、改めてまとめて鑑賞すると、原爆、震災など、社会的な問題に対し、彼らが一貫性をもった知的なアート・コレクティブであることがよくわかる(しかもコロナ禍の直前に、イギリスでパンデミックの展示も企画)。特に再現展示や、関連するアーカイブ(プロジェクトへの反響やコメントなどを年表やコンピュータのデータによって紹介)が充実しており、総覧できることに意義がある内容だった。

正直、筆者も最初はお騒がせ集団という感じでとらえていた。しかし、渋谷駅の《明日の神話》(1968-69)に311の原発事故を踏まえた絵が追加されたとき、直感的にChim↑Pomの仕業ではないかと思い、後から本当にそうだったと判明したことで、その認識を変えた。今回の展示では、最初の部屋にいきなり仮設の路上空間をつくったように、公共性や道をテーマに掲げている。今度、筆者は排除アートを批判的に論じる本を出版する予定だが、まさにこれと呼応する内容だった。他者を排除する「アート」ではなく、むしろアートによって公共的な道をつくり、空間の可能性を開くこと(例えば、国立台湾美術館のプロジェクト)。今度の本では、地下の排除アートと対比させながら、ロバート・インディアナのパブリック・アート「LOVE」に触れるが、Chim↑Pomもすでにプロジェクト《ラブ・イズ・オーバー》(2014)において利用している。エリイの結婚式のパレードを新宿のデモとして実行し、「LOVE」に集結するというものだ。公共空間やスクラップ・アンド・ビルドへのラディカルな問いかけを行なっており、建築系の人も、見るべき展覧会である。すでに仮設の路上においてウクライナの文字が刻まれていたが、彼らはロシアによるウクライナへの侵攻に対しても何らかのアクションを展開していくのではないか。



「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」展示風景 岡本太郎《明日の神話》への介入



「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」展示風景 仮設の二階・路上的空間《道》



「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」展示風景 国立台湾美術館でのプロジェクト《道》の模型




「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」展示風景《ラブ・イズ・オーバー》




「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」展示風景 コロナ禍の《May, 2020, Tokyo》



「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」展示風景「ビルバーガー」

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美術館は道を育てられるのか?──「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」と「ルール?展」|田中みゆき:キュレーターズノート(2022年04月01日号)

2022/03/03(木)(五十嵐太郎)

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名古屋の排除アート

[愛知県]

2020年12月にウェブ版の「美術手帖」にて、「排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン」を寄稿したところ、予想をはるかにうわまる反響があった。というのは、すでに筆者は15年以上前に『過防備都市』(中公新書ラクレ、2004)を上梓し、そこで排除アート(ただし、当時、この言葉は用いておらず、「排除系オブジェ」と呼んでいたが)を論じており、特にもう新しくないものだと考えていたからである。ともあれ、同書では街中で監視カメラが増殖していることと、ホームレスを排除するベンチやオブジェが登場していたことを批判的に論じていたが、前者にはもう慣れてしまい、また実際に犯人の検挙に役立つことから、ほとんど問題視されなくなった。だが、排除アートは身体そのものに影響を与えるためなのか、ウェブの論考を契機に、改めて多くの人が意見を表明している。また直前の2020年11月に渋谷でホームレスの女性殴打事件が発生し、バス停の排除ベンチが注目されたことも大きいだろう。



新宿バスターミナルの排除ベンチ



新宿西口地下の排除アート


排除ベンチも排除アートも、筆者が知る限り、1990年代には存在していたが、いったん気になると、日本中で発見することができる(特に大都市は多い)。ウェブの論考が発表された後、筆者はいくつかの新聞社から取材を受け、排除アートを論じる本を岩波ブックレットで準備中だが、NHK名古屋の番組制作にも協力した。その際、名古屋の排除アートを幾つかめぐり、コメントをしたが、一番強烈だったのは、若宮大通公園の水辺である。ホームレスの居場所になりそうなスペースに、家型のフレームをいくつも設置した後、おそらくそれでも排除できなかったため、今度は鉄筋を水平方向にはりめぐらせていた。さらに柵を追加し、三重に防御しており、景観を和ませるためなのか、最後にお花をつけている。この近くの陸橋の階段は立ち入り禁止の柵で大量に埋めつくし、もはや反転して、本当に現代アート的に見える。実は水上には、1988年に設置された新宮晋の作品も残るのだが、現在は動いていない。かつてパブリック・アートが導入された若宮大通公園は、いまや排除アートだらけである。こうした景観は、現代日本の社会の変化を反映しているかもしれない。



名古屋・若宮大通公園



名古屋・若宮大通公園 柵の花



名古屋・若宮大通公園 禁止柵で埋め尽くされた階段



名古屋・若宮大通公園 奥に新宮晋の作品


2022/03/04(金)(五十嵐太郎)

若だんさんと御いんきょさん『すなの』

会期:2022/03/05~2022/03/06

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

安部公房の戯曲3部作『棒になった男』(1969)から毎年1本ずつ選び、同じひとつの戯曲を3人の演出家がそれぞれ手がける演出違いの3本を連続上演するシリーズを、3年間にわたり企画してきた「若だんさんと御いんきょさん」。これまでは30代の演出家を招聘してきたが、今年は現役作家の戯曲をお題に、20代の若手演出家3名を迎えて一新した。上演される戯曲は、コトリ会議の山本正典による短編『すなの』。ある午後、リビングで、テーブルに置かれた「砂がいつまで経っても落ちきらない不思議な砂時計」をめぐって夫婦が交わす会話劇だ。

「気づくと砂がいつのまにか上に上がっていて落ちきらない」と言う妻。「砂がピンクいからかな」と言う夫。だが砂時計のガラスも透明ではなく緑色をしており、「本当の砂の色」は「緑ひくピンク」か「ピンクひく緑」かで2人の意見は食い違う。砂の色を確かめようとして前のめりになった夫は、浮いたお尻の下に「幸せの丸いの」があると言う。そして「幸せの丸いのはピコピコはねてすぐにどこかに行ってしまう」とも。コーヒーを淹れに席を立った夫が突然つぶやく、「どこにもいかない」という意味深げな台詞。聞き返す妻に、「どこにもいかない砂」と言い直す夫。夫は、コーヒーを淹れる際に転がり落ちた「幸せの丸いの」を、「見つからないけど探す」。やがて会話は、お湯を沸かす機械が「電気ポット」か「ケトル」かで再び言い争いになり、「ケトルって何語? フランス語?」と言う妻に対し、夫は突然「ごめん」と謝り、「行きたかったな、フランス」とつぶやく。「こんなに静かな時間があったかな」「俺も覚えてない」という会話を最後に、砂が落ちる「すーーーー」という音だけが静かに響き続け、「真っ白い木の額縁に入った妻の写真」がテーブルの上にあることをト書きが告げる。

要所要所で夫の台詞は不穏さを暗示するが、2人のあいだに具体的に何があったのかは明示されず、会話の「余白」からどう解釈するかは演出家に委ねられている。この戯曲を演出する最大のポイントは、「砂時計」を舞台上にどのように存在させるかという点にある。3つの演出作品は、上演順に「砂時計」の実体化が進む一方、「砂が落ちきらない砂時計」が何を指すメタファーなのかをめぐって解像度が上がっていく構成が興味深かった。

1本目の木屋町アリー(劇団散り花)による演出は、舞台正面の壁いっぱいに「落ちる砂」の映像を投影。またト書きのナレーションを、舞台奥の暗がりに身を置く3人目の人物に語らせる。ストレートな演出だが、焦点が曖昧で未消化感が残った。2本目の葉兜ハルカ(でめきん/旦煙草吸)による演出では、「幸せの丸いの」を異化するような「白い立方体」が舞台上に散らばる。それは妻の手で捏ねられ、砂時計の形に実体化する。ラストシーンでは、白い立方体を積み上げて長方形のフレームを形づくり、その中に妻の顔が収まることで「遺影」が示唆される。



木屋町アリー演出『すなの』



葉兜ハルカ演出『すなの』


そして3本目の泉宗良(うさぎの喘ギ)による演出では、テーブルの上に実物の「砂時計」が出現した。泉演出が衝撃的なのは、「妻」役の俳優がマイクに向かって「すーーーー」という細い息の音を出し続ける点だ(「妻」の台詞はスピーカーから出力され、録音音声と会話する夫の様子は「不在感」を強調する)。「砂時計」とは字義通りには「不可逆的な時間の流れ」であり、夫の意味深げな台詞や「テーブル上の妻の写真=遺影」の示唆は、「砂時計=妻の命の時間」を暗示するだろう。「妻」がマイクに吹きかけ続ける「息」の音は、命の持続を示す「呼吸」そのものであり、その規則正しくもか細い音は、人工呼吸器から漏れる息の音をも思わせる。そして「砂時計をひっくり返す」夫の介入は、「妻の命の砂が落ちきるのを止めたい」という叶わぬ願望だ。だが、夫は「妻」の方を見ず、誰もいない不在の空間に向かって話し続ける。「こんなに静かな時間があったかな」「俺も覚えてない」というラストシーンの会話を冒頭と終盤で反復し、「妻」が舞台上から去った終盤では、同じ台詞が夫の一人言のように響く仕掛けは、すべてが夫の回想であることを示唆する。円環状に始めと終わりがつながる、出口のない閉じた時間。そのトラウマ的時間の「不在の中心」こそ、砂時計すなわち「妻の身体」の代替物にほかならないことを、幕切れのスポットライトは鮮やかに示す。それは同時に、「演劇とは表象の代行制度である」ことをメタレベルで宣言する。

このように戯曲の要請を鮮やかにクリアしてみせた泉演出だが、「砂時計=妻の身体」のメタファーには別の問題が浮上する。それは、女性の身体を物象化し、オブジェクトとして一方的に眺め、所有する視線にほかならない。「真ん中でくびれを描く砂時計の曲線のライン」は、まさに女性のボディラインのメタファーとして召喚されているのだ。「砂時計=妻」のメタファーを戯曲から読み解いて用いるのであれば、妻を喪った夫の切ない回想を超えて、そうしたジェンダーに対する視線の構造の暴力性を批評し、戯曲が内包する問題を内破していれば、泉演出の意義と射程はより深まったのではないか。



泉宗良演出『すなの』


関連レビュー

若だんさんと御いんきょさん『棒になった男』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年03月15日号)
若だんさんと御いんきょさん『鞄』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年04月15日号)
若だんさんと御いんきょさん『時の崖』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年05月15日号)

2022/03/06(日)(高嶋慈)

スティーブン・スピルバーグ『ウエスト・サイド・ストーリー』

一度のみならず、劇場で見ておくべき傑作だったので、映画『ウエスト・サイド・ストーリー』の二度目の鑑賞を行なった。そもそも全曲を覚えていたくらいの傑作ミュージカルの映画を、改めてスティーブン・スピルバーグが映画化したわけだが、期待以上の完成度に到達した作品である。当初はなぜ、今さらこの映画なのか、という疑問をもっていたが、トランプ前大統領によって加速した分断の時代だからこそ、いまこのリメイクが意味をもつ。またあらゆることが、VFXによって表現できてしまい、かえって驚きが消えてしまった映画界において、生身の人間の歌と、抜群の切れ味のある踊りによって驚異的な力を発揮している。

実際、本作ではいわゆる有名な俳優はキャスティングされていない。だが、その身体能力の凄さによって、観客を魅せることに成功している。ミュージカルという映画ジャンルは、登場人物が歌いだすと、しばしば物語の進行が止まってしまう。下手をすると、映画としては退屈しかねないのだが、バーンスタインによる原曲の良さ、歌の上手さ、そして都市空間におけるダイナミックな動きがノンストップで続くことによって、むしろ鑑賞者の目と耳を釘付けにさせる。ちなみに、バーンスタインの名曲群は、「トゥナイト(クインテット)」の5重唱や「ア・ボーイ・ライク・ザット/アイ・ハブ・ア・ラヴ」、「アメリカ」など、相反する台詞がぶつかる掛合いの部分が多く、実はけっこうオペラ的であることにも気付かされた。

さて、都市という視点では、鉄球による解体作業中の建設現場と、モダニズム的な再開発を促進したロバート・モーゼスに対する反対運動のプラカードが映っていたように、破壊されていくスラム街とされた地域が舞台だった。そしてオペラ、クラシック音楽、バレエなどのパフォーミング・アーツの拠点となるリンカーン・センターや高層マンションの完成予想図などが示される。すなわち、モーゼス的な都市計画に叛旗をひるがえし、路上の地域コミュニティを重視したジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』(1961)が執筆された時期と重なるだろう(映画の設定は、1957年)。



リンカーン・センター


この映画は臨場感を出すべく、さまざまな場所で野外ロケをしているが、印象的だったのは、マリアとトニーがデートに出かけ、愛を誓うシーンである。これはマンハッタン北端にたつ、ヨーロッパの中世の建築を移築して合体させたクロイスターズ美術館で撮影された。それゆえ、二人の会話の流れだったとはいえ、空間をステンドグラスのある教会に見立てることができたのである。



クロイスターズ美術館


2022/03/08(火)(五十嵐太郎)

豊田市の現代建築

[愛知県]

豊田市美術館の企画として、「豊田市の現代建築~美術館と2024年にオープンする博物館を中心に」のオンライン・レクチャーを行なった。これにあわせて改めて豊田市の現代建築もまわったので、いくつか紹介しよう。時期としては、槇文彦による《トヨタ鞍ヶ池記念館》(1974)から2024年に開館する《豊田市博物館》までの半世紀をとりあげた。この間の主要な公共施設は、実は市のホームページにおいて「豊田市の建築物一覧」で紹介されている。また筆者が芸術監督を担当したあいちトリエンナーレ2013にあわせて制作した『あいち建築ガイド』(美術出版社、2013)でも、特別に豊田市のページを設け、《トヨタ鞍ヶ池記念館》、谷口吉生の傑作《豊田市美術館》(1995)、黒川紀章の「恐竜橋」とも呼ばれた《豊田大橋》(1999)と可動式の大屋根をもつ《豊田スタジアム》(2001)、韓亜由美の《豊田ジャンクション》のカラーデザインや「テクノ・フォレスト」構想(2002)、そして妹島和世によるぐにゃぐにゃのガラス建築、《豊田市生涯学習センター逢妻交流館》(2010)の解説が掲載された。



槇文彦《トヨタ鞍ヶ池記念館》



《豊田市美術館》から見る《豊田大橋》と《豊田スタジアム》



妹島和世《逢妻交流館》


レクチャーのために年表を作成して気づいたのは、意外に1980年代の建築が少ないこと。《豊田市民文化会館》(1981)くらいである。したがって、いわゆるポストモダンのデザインが少ない。《豊田自然観察の森 ネイチャーセンター》(2010)は、《大阪中之島美術館》(2022)を手がけた遠藤克彦がコンペで勝利し、設計した建築である。これは森へと続く、道の建築化をコンセプトに掲げ(そう言えば、中之島美術館のエスカレータの動線も印象的だった)、「く」の字型のヴォリュームを背中合わせに違う高さで交差させるフォルマリズム的な手法によって、さまざまな場を生みだしていた。なお、豊田市に拠点を置く建築家としては、ユニークな住宅を発表する佐々木勝敏が挙げられる。豊田市美術館の隣地にオープン予定の博物館は、コンペによって坂茂が設計者に選ばれたが、筆者はそのとき審査委員長を担当した。二次審査では、隈研吾、石上純也、studio velocity、佐藤総合計画・塚本建築設計事務所共同企業体も残っていたが、美術館のランドスケープを担当したピーター・ウォーカーを再起用し、博物館とつなぐ坂のアイデアはほかにないものだった。また20世紀のモダニズム的な空間を極めた美術館に対し、博物館の案では、木の構造を導入することで、21世紀的な建築を表現しようとしたことも特筆される。



遠藤克彦《豊田自然観察の森 ネイチャーセンター》



佐々木勝敏《志賀の光路》



豊田市博物館の模型(スタディ段階)


豊田市美術館オンライントークシリーズvol. 1 五十嵐太郎「豊田市の現代建築~美術館と2024年にオープンする博物館を中心に」

開催日:2020年3月13日(日)
アーカイブ(YouTube):https://www.youtube.com/watch?v=UAKu_Bz0qzg

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2022/03/13(日)(五十嵐太郎)

2022年04月15日号の
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