artscapeレビュー

2015年07月01日号のレビュー/プレビュー

ライゾマティクス──グラフィックデザインの死角

会期:2015/06/05~2015/06/27

ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]

Perfumeの舞台演出などエンターテイメント分野での活躍が知られるライゾマティクスであるが、彼らのもうひとつの仕事に大規模なデータを可視化し、その構造を解析するというものがある。東京都現代美術館で開催された「うさぎスマッシュ展」(2013/10/03~2014/01/19)に出品された《traders》は、金融取引におけるビッグデータを可視化する試みであった。今回の展覧会でライゾマティクスが可視化を試みたのはグラフィックデザイン。4人の著名デザイナー──田中一光、福田繁雄、永井一正、横尾忠則──の仕事をデータ化し、その特徴を探ろうというものである。今回行なわれた解析の視点は二つ──配色と構成。4人のデザイナーのポスター作品約3000点をデータ化。配色についてはポスターを構成する色彩をピクセルに分割してそれを色空間にマッピングし、デザイナー毎の配色の特徴を示す。構成については画面におけるタイトルやサブタイトルの配置、写真やイラストレーションが導く紙面の強度を解析する。そうした解析結果は二つの作品として提示されている。ひとつは「感性」に関連するビデオインスタレーションで、配色と構成の解析結果に音と動きの要素を加えて、4人のデザイナーたちの作品を再構成している。もうひとつは配色と構成の解析結果を用いたポスター作品である。さて、こうした二つの要素の解析結果と、それらに基づいて再構成された作品は、それぞれのデザイナーたちの作品の特徴をどれほど伝え得ているのか。田中一光については今回の解析対象にとてもマッチしているように思われる。それはおそらく彼の用いる色彩や書体が特徴的だからか。他方で福田繁雄や横尾忠則の配色の解析結果は筆者が抱いているそれぞれのデザイナーの作品の印象とかなり乖離がある。解析結果に基づいて制作されたポスター作品についても同様だ。これをどう考えるか。ビッグデータの解析がデザインの分析に役に立たないと言ってしまうのは短絡的にすぎるだろう。そうではなくて、解析の視点が十分ではないのだと思われる。今回の試みでは二つの要素の解析結果をライゾマティクスのデザイナーによる「感性」で補正しているが、それだけではやはり不十分で、二つの視点の「死角」にこそそれらのデザイナーの作品の本質が隠されていることが示されたと考えるべきであろう。[新川徳彦]


会場風景。配色の解析と、解析結果に基づいたポスター


同、構成の解析

 


同、感性に基づく映像インスタレーション

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うさぎスマッシュ展──世界に触れる方法(デザイン):artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2015/06/26(金)(SYNK)

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捩子ぴじん『Urban Folk Entertainment』

会期:2015/06/25~2015/06/27

横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]

捩子ぴじんの新作公演を見た。「ぽっかり」とした舞台と10人ほどの演者たち。そこはかとない空虚感。演者たちのほかに登場するのは「水」。天井から吊り上げられた蛇口から水は滴り落ち、ポリバケツに収められる。水入りペットボトルを演者たちは仰向けで額に置き、起き上がろうとしては、床に落とす。遠くでは祭りの音が聞こえている。祭りの輪の外、そのさらにはずれの出来事。水道メーターが床に浮き上がるかたちで置かれているので、舞台の「高さ」はコンクリートやアスファルトをめくり、土を少し掘り出した位置であるようだ。ならば、この演者たちは地の霊? ぽっかりとした集団は同じ動作をともに行ない、ときにそれがポストモダン・ダンスのような「タスク」の遂行のようにも映り、また、『牧神の午後への前奏曲』をバックに、みなが方々であくびを繰り返しつつ前進するところには、捩子ぴじんがかつて所属していた大駱駝艦の舞台を連想させる集団性があった。ぼくはここに、バレエともモダンダンスとも異なる、ポストモダン・ダンスや舞踏に近いがそれとも一致しない、新しいダンスの萌芽を見た。祭りの一体性からはずれたところで起きる、もうひとつのダンス。それは目下のところ水のモチーフに引きつけるなら「無味の味」のダンスだ。甘くも苦くも辛くもない。そうしたわかりやすい味でひとを引きつけたり、引きはがしたりするようなことは、このダンスはしない。その点で、支配にも排除にも加担しない、正しいところがある。けれども、「無味の味」には味がない。「いや、ある!」と好事家を気取って言うこともできよう。でも、その味は、甘さや苦さや辛さで麻痺した人たちを、「やっぱり、こっちが美味しい!」と魅了するほどの力は、まだない。本公演はコンテンポラリー・ダンスの「ゼロ地点」を指差した舞台だったともいえるだろう。かつてBONUSサイト上で行なった座談会で、捩子は自分の制作姿勢を「ニッチ」と呼んでいた。さまざまな方法が群雄割拠するなか、それらの方法の盲点に、自分のするべき仕事が隠されているのではないか、そんな話だった。「ニッチ」を選択するのは「反ダンス」の態度でもあるだろうが、未知のダンスを発見する冒険でもあるはず。反ダンスでありダンスであるダンス。それを目指す地平に、かつてレイナーも土方巽も立ったはず。捩子ぴじんがその地平にまずは立ったというのが本公演だとしたら、さて、どうやってそれでもダンスを踊ろうか?(あるいはなぜそれでもダンスなのか?)という問いが次の公演で掲げられることになるのでは、そうであると期待をかけたい。

2015/06/26(金)(木村覚)

世界に挑んだ明治の美──宮川香山とアール・ヌーヴォー

会期:2015/04/25~2015/08/30

ヤマザキマザック美術館[愛知県]

横浜・眞葛焼の創始者、宮川香山の仕事は明治の輸出工芸のひとつで、花鳥や蟹、鼠などの生き物を高浮彫と呼ばれる写実的な彫刻によって壺などの器の表面に表現した独特な陶磁器作品で知られる。本展は宮川香山作品のコレクターであり「宮川香山 眞葛ミュージアム」の設立者である山本博士氏のコレクションを中心に、香山の作品をラリック、ガレやドーム兄弟などによる同時期のヨーロッパのアール・ヌーヴォーの工芸や家具とともに展示、紹介している。工芸作品の展覧会というと、そのつくり手である工芸家に着目することが多い。しかし、京都の陶工であった香山が横浜に移って窯を開いたのは輸出陶磁器制作の注文を受けたことがきっかけであり、その作品のほとんどが海外に渡り、国内には残されていない。すなわち、香山の作品は日本人のためにつくられたのではない。それゆえ、彼の仕事を理解するためには、国内におけるつくり手側の事情と同時に、当時のヨーロッパでなにが求められていたのかを考える必要があり、今回の展示構成はその様相をとてもわかりやすく伝えていると思う。会場入口正面には、16世紀フランスの陶工ベルナール・パリッシーによる爬虫類などを浮き彫りにしたグロテスクな作品の、19世紀ドイツにおける写しが展示されている。パリッシーの作品が19世紀のヨーロッパで新たに人気を博していたということで、欧米人にとって香山の高浮彫のような作品はただエキゾチックで珍しいものではなく、その様式においてすでに受け入れる素地があったということになろうか。また展示ケースにアール・ヌーヴォーのガラス器と香山の高浮彫とが交互に並んでいながら両者が違和感なく収まっている姿を見ると、工芸の東西交流と相互の影響関係に至極納得がいく。[新川徳彦]

2015/06/27(土)(SYNK)

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プレビュー:Q『玉子物語』

会期:2015/07/08~2015/07/15

こまばアゴラ劇場[東京都]

先月、舞踏家・室伏鴻が逝去した。享年68才。ブラジルでの公演を終え、ドイツでのワークショップに向かう最中、メキシコの空港で心臓発作に倒れたと聞く。ドゥルーズを愛した室伏らしいノマデックな旅の途中のことだった。筆者は15年ほど前に『edge』という公演を見て、あまりのことに驚愕し、この舞台を言葉にしてみたいと切望するところからダンスの批評をはじめた。室伏が踊るから、ダンスにはなにかがあると信じることができた。拙サイトBONUSでも第2回の連結クリエイションに室伏を招いていた。『牧神の午後』をテーマにしたダンスの制作を依頼していたのだが、最後の舞台となってしまったブラジル公演でも、ほんの数十秒とはいえ、『牧神の午後』を彷彿とさせる振りを踊っていたのだそうだ。亡骸の脇で、そのビデオを拝見した。本人は不在となったものの、なんらかのかたちで室伏が心に宿した『牧神の午後』を辿る試みをするつもりです。
さて、室伏と同じ舞台に立つはずだった市原佐都子の劇団Qの新作公演が迫っています。タイトルは『玉子物語』。Qは、女の子の自意識や性を含めた欲望や普段は隠されている部分を丁寧にひらいて見せてくれる。それは、ときにどぎつく映ることもある。けれども、Q以外の劇団のつくる演劇の多くが、いかに男性のためにつくられたものであるのかを知らしめてくれる。男性にとって心地よいシュガー・コーティングされた女性像を脱ぎ捨てた女性の姿は、ひょっとしたら醜くも滑稽にも見えるかもしれないけれど、人間が次の段階へと至る際の変容中のさまなのかもしれない。Qの舞台には、そうした未来が懐胎されている。

2015/06/30(火)(木村覚)

2015年07月01日号の
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