artscapeレビュー

2018年10月15日号のレビュー/プレビュー

ARKO2018 久松知子

会期:2018/09/11~2018/11/11

大原美術館[岡山県]

若手作家の支援を目指して2005年に始まったARKO(Artist in Residence Kurashiki, Ohara)。今年は久松知子が選ばれ、3カ月の滞在制作を経て作品を発表しているので、久しぶりに大原美術館見学も兼ねて見に行った。ここに来るのは10年ぶりくらいか。これまで4、5回来ているので平均10年に一度だが、徐々に感動が薄まっていくのは年のせいだろうか。でも、来るたびに関心の対象が少しずつ変わってきてることにも気づく。例えば、これまでただでかいだけで時代遅れの二流品と思っていたレオン・フレデリックの《万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん》が、今回とても新鮮に見えた。タイトルも長いが幅も長く、全長11メートルもある超大作だ。

久松のほうはレオン・フレデリックにはおよばないものの、パネル3枚をつなぎ合わせた縦2,6メートル、幅5メートルほどの超大作を中心に展示している。タイトルは《物語との距離(2018、夏、倉敷)》というもので、大原美術館の外観、エル・グレコやゴーガンらの飾られた展示室、大原孫三郎ら美術館創立者や歴代理事などを三連画に描いているアトリエ内を描いたもの。わかりにくいと思うが、要するに巨大画面に三連画を「画中画」として描いてるわけ。だから三連画のなかに描かれたエル・グレコやゴーガンの絵は「画中画中画」になる。さらにこの巨大画面の制作中を描いた絵もあって、三重にも四重にも入れ子状になった迷宮のような絵画なのだ。それだけではない。この超大作、透視図法を用いた構図といい、画家のアトリエを舞台にしていることといい、正面にパトロンを据え、作者自身や画中画も描いていることといい、迷宮の絵画ともいうべきベラスケスの《ラス・メニナス》を彷彿させるのだ。

ところでARKOの滞在作家の制作場所は、大原美術館の基礎となるコレクションを収集した画家の児島虎次郎が使っていた自宅の一部で、とくに、1927年に児島が明治神宮聖徳記念絵画館に献納する《対露宣戦布告御前会議》を制作するために建てられた大型アトリエが使用できるそうだ。この御前会議の絵は広い意味で戦争画といっていい。ところが、この絵を仕上げたのは児島ではなく、吉田苞という画家。児島は1929年に亡くなったので、絵は未完成か、まだ手をつけてなかったかもしれない。そのため吉田が後任に指定されたのだろう。久松の絵に戻ると、タイトルの「物語との距離」とは、大原や児島ら美術館を築いてきた歴史=物語と、そこで滞在制作している久松との時間的な距離、時代のギャップを指すのだろうか。美術史もまたひとつの大きな迷宮に違いない。

2018/09/28(村田真)

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クリスチャン・ヤンコフスキー Floating World

会期:2018/09/15~2018/10/28

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA(アクア)[京都府]

岡山からの帰り、クリスチャン・ヤンコフスキーを見るため京都で降りる。ヤンコフスキーは昨年のヨコトリで、ポーランドの重量挙げ選手が時代がかったモニュメントを持ち上げようとする写真を出品したベルリン在住のアーティスト。レーニンの肖像画をディカプリオに変身させたザ・プロペラ・グループとともに笑える作品だったので、もっと見たいと思っていたら、京都市立芸大がヤンコフスキーを招き、地域社会をリサーチしながら学生たちとともにつくりあげた作品も展示しているというので、立ち寄った次第。

彼が京都でなにをやったかといえば、緊縛師・龍崎飛鳥とのコラボレーションによりみずから縛られ、尻も露わに宙づりにされたという。わざわざベルリンから京都の大学に招かれて緊縛されるとは、なんてステキなアーティストでしょうね。その緊縛の残骸がロビーの吹き抜けにぶら下がり、緊縛写真がメインビジュアルとしてポスターやチラシに使われている。

ほかに、シュプレー川の流れの音を録音してモルダウ川で流し、逆にモルダウ川の音をシュプレー川に流す映像作品もあったが、今回は両者をミックスして鴨川に流す映像も付け加えた。顔や身体に落書きしたり珍妙な扮装して寝る姿を撮った《We are innocent when we sleep》、水面からいきなり顔を出して「アートは〈今〉である」とか一言いってまた潜る、という動作を10人くらいの男女が繰り返す映像もある。出品作品の大半は2018年の新作だが、1点だけ1992年の旧作があって、これがおもひどい(おもしろい+ひどい)。スーパーで買い物をするのに、弓矢で目当ての商品を射抜き、矢のついたままレジで会計を済ますという映像。都市における狩猟のつもりだろうが、日本でやったら捕まるぞ笑。

2018/09/28(村田真)

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一つ柳恋路展「あたいを愛してたも〜れ」展

会期:2018/09/24~2018/09/29

藍画廊[東京都]

日本橋川、神田川、隅田川を通る「お江戸日本橋舟めぐり」の神田川コースを堪能した後、陸に上がって日本橋から銀座まで画廊回り。そのなかで気に入ったのではなく、気に障った個展がこれ。作者は68歳の現役東京造形大生だそうだ。大学は教授もたいてい65歳で定年だから、だれよりも高齢だ。でもこれから会社を定年になって「自分は本当はこれをやりたかったんだ!」と美大に入学してくる高齢者学生が増えてくるはず。その意味では先駆的お手本になるかもしれない。でもやってることは、ダダカンみたいに裸になったり、エノチューみたいに髪を半分だけ刈ったり、根本敬にそっくりのドローイング描いたり、細い彫刻に小魚をまぶした「チリメンジャコメッティ」出したり。もし大学に入ってこれらのネタを発想したとすれば百害あって一利なし、大学なんか行かないほうがいい。そういうシャレや小細工ではなく、本気の破壊衝動が見たい。貸し画廊も悪くないが(とくに藍画廊は良心的だが)、本気で目立ちたいならもっとキケンな場所を選ぶべきだ。

2018/09/29(村田真)

倉谷卓「Ghost’s Drive」

会期:2018/09/26~2018/10/09

銀座ニコンサロン[東京都]

目の付け所のよさを感じる写真展だった。1984年、山形県生まれの倉谷卓は、故郷に近い山形県遊佐町で、お盆の時期にオモチャの自動車を軒先に吊り下げる習慣があることを知る。それらを同町の友人の助けを借りて、3年余りにわたって撮影したのが、今回展示された「Ghost’s Drive」のシリーズである。

同地域では、以前はナスやキュウリなどを供えるとともに、水草で編んだ「精霊馬」を吊り下げていたのだという。ところが、それをつくる職人が少なくなったことと、移動の手段が馬から自動車に変わったこともあって、戦後の一時期からオモチャの車が普通になった。先祖の霊が自動車に乗って訪れるという発想自体が面白いが、それぞれの家ごとに、さまざまな種類の車が吊り下げられているのが目を引く。赤い車が多いのは、「故人が乗っていた、憧れていた車」ということのようだ。電車やバスなどもあるが、これはご先祖さまの数が多いので、一度に乗ることができるようにという理由だという。タクシーには料金の千円札が挟み込まれている。飛行機やヘリコプターなどまである。

倉谷の撮影ぶりは、肩の力を抜いた軽やかなもので、吊り下げられたオブジェの「ポップでシュール」な雰囲気がうまく捉えられている。「Ghost’s Drive」というタイトルも気が利いている。民俗行事が時代の変化とともに現代化していくプロセスは、ドキュメンタリー写真のテーマとしてもっと広く取り上げられてもいいのではないだろうか。なお、本展は10月25日~11月7日に大阪ニコンサロンに巡回する。

2018/10/02(火)(飯沢耕太郎)

フェルメール展

会期:2018/10/05 ~2019/02/03

上野の森美術館[東京都]

大きな展覧会にはたいてい「生誕100年」とか「バロックの誕生」とか、それらしいサブタイトルがついてるものだが、この「フェルメール展」はサブタイトルなし、すなわちテーマなし。余計なゴタクは並べず、ただひたすらフェルメール作品を1点でも多く集めたという、むしろフェルメールを集めること自体がテーマと化したような展覧会なのだ。なにしろ現存作品35点中9点、つまり4分の1が来るのだから。これはフェルメールを1点も持たない国(西洋美術館には《聖プラクセディス》が寄託されているが、35点には含まれない)としてはほとんど奇跡といっていいだろう。ちなみに2000年に大阪で開かれた最初の「フェルメール展」には5点、2008年のときは7点来た。だいたい8年か10年ごとに大きな「フェルメール展」が開かれ、そのたびに2点ずつ増えていくので、このまま続けば2134年にはめでたく全35点が日本で一挙公開されるはず。116年後……。それまで待てないので、内覧会に行ってきた。上野の森美術館は狭くて混雑が予想されるため、日時指定入場制を採用、休館日はほとんどなく、夜もだいたい8時半まで開館、料金も一般2,500円とお高く設定。欧米か!

会場はいつもとは逆に、まず2階に上って17世紀オランダ絵画を見てから1階に下り、スリットの入った天井から光が注ぐ通路を抜けて、いよいよフェルメールとご対面という構成。最初期の《マルタとマリアの家のキリスト》から、《ワイングラス》《リュートを調弦する女》《真珠の首飾りの女》《手紙を書く女》《赤い帽子の娘》《手紙を書く婦人と召使い》の順で並び、《牛乳を注ぐ女》で終わる。この《牛乳を注ぐ女》は制作年代としてはおそらく《ワイングラス》の前後だが、今回いちばんの目玉ということでトリを務めた次第。ちなみにカタログには《取り持ち女》と《恋文》も紹介されているが、前者は来年1/9から、後者は大阪会場のみの展示となる(大阪では計6点に減る)。付け加えると、《赤い帽子の娘》は12/20までの展示なので、9点同時に見ることはできないし、年末年始は7点しか見られない。これらのうち《取り持ち女》《ワイングラス》《赤い帽子の娘》の3点は日本初公開。とくに《取り持ち女》と《ワイングラス》は前期フェルメールの佳作だ。

フェルメールの作品に関してはあふれるほど紹介されているので、せっかくだからそれ以外の同時代の画家について書いておこう。まず、フランス・ハルス。かつてはレンブラント、フェルメールと並ぶオランダの3巨匠の1人だったが、いつのまにか水をあけられ、いまやフェルメールの前座になってしまった。出品作は夫婦の対の肖像画で、ハルス特有の奔放な筆致はここでは控えめながら、黒とグレーの諧調が美しい。レンブラント周辺の画家による《洗礼者ヨハネの斬首》とヤン・デ・ブライの《ユーディトとホロフェルネス》は、どちらも斬首場面を描いたもので、オランダでは珍しい主題。その「首切り女」の名をもらった女性画家ユーディト・レイステルの《陽気な酒飲み》は、なぜかポップでキッチュでモダンに見える。レンブラント工房で修業したヘラルト・ダウは、親方とは似ても似つかない驚くような精緻な細密描写を見せる。ハブリエル・メツーの《手紙を書く男》と《手紙を読む女》は対作品で、フェルメールもしばしば描いたラブレターが主題だ。これらを見た後で1階に下りると、フェルメールがいかに異次元の仕事をしていたかがわかるはず。

2018/10/04(村田真)

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2018年10月15日号の
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