artscapeレビュー

2018年10月15日号のレビュー/プレビュー

前田英一『Every day is a new beginning』

会期:2018/09/05~2018/09/07

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

ダンサーと現代音楽家のセッションに加え、本物の物理学者が「出演」し、素粒子物理学の研究が舞台上で同時進行するという、異色の舞台公演。ダムタイプの舞台作品に出演し、パフォーマーとして活動する前田英一が初めて演出を務めた。

舞台奥には、人の背丈を超える高さの巨大な黒板が壁のように設置されている。ふらりと登場した男性(理論物理学者の橋本幸士)が、ブツブツと呟きながら、黒板にチョークで物理の数式やグラフを一心に書きつけていく。「ニュートリノ、重力波、電磁波」といった単語が辛うじて聞き取れ、「宇宙空間で起こった物理現象が地球に到達してどう影響を与えるか」についての壮大な思考実験が繰り広げられているようだ。黒板の両脇には2人の音楽家が配され、ピアノとパーカッション(ヤニック・パジェ)、アコーディオン・シンセ(ryotaro)のライブ演奏とともに、前田を含む4名のダンサーがシンクロした反復的な動作に従事し始める。思考に没頭する物理学者、厳密に振付けられた反復運動を同調させるダンサーたち、電子的に増幅された音を紡ぎ出す音楽家。舞台上には3つのレイヤーが同時進行的に共存する。


[Photo: SAJIK KIM]

とりわけ、同じ舞台空間上に、手前のパフォーミングエリア/奥の思考空間というレイヤーの共存ないし対比をもたらすのは、ダンサーと物理学者、それぞれが従事する行為の質的差異である。直線的な手足の動き、機械的な反復性、そのユニゾンは、これらが「厳密に振付けられた動き」であること、その再現可能性を強調する。一方、巨大な黒板=普段の研究環境に向かう物理学者は、台本として決められた数式をただ反復的に再現するのではなく、今まさにライブで思考中なのであり、再現不可能な、一種の即興的なパフォーマンスに従事しているとも言える。その、目に見えない物理法則や作用についての抽象的思考の痕跡は、情報量が圧縮された数式として可視化され、上書きされては消えていく。一方、ダンサーの身体は、目に見える運動の軌跡を刻一刻と空間のなかに刻んでいく。

「重力」や「引力/斥力」といった力の作用を印象づける小道具も登場する。例えば、暗闇を照らすランプを挟んで相対する2人のダンサーのシンクロした動きは、輝く恒星の周囲を旋回する2つの惑星を思わせる。脚立の上から落とされるボールは、無数の放物線を描いて飛び回る。終盤、湧き上がる雲や波のようにゆっくりと動かされる黒い風船の束は、空気の抵抗や微風のそよぎを伝えるとともに、破局的な終末が訪れた後の静寂のなか、新しい胎動の始まりを告げるようでもある。ライブ演奏の熱気とともに、詩的な連想を誘うイメージが次々と繰り出される舞台だった。



[Photo: SAJIK KIM]

ダンスと物理学という一見異色に思える取り合わせは、小道具を効かせた演出もあり、ダンスが地上の物理法則に抗えないこと、制約のなかにあるからこその自由を浮かび上がらせる。また、単に演出上の目新しさを狙うだけにとどまらず、「振付と即興」をめぐるより根源的な問いへと向かう可能性を秘めているのではないか。本作品は、ダンスにおけるこの問いの追求という点では物足りなさを感じたが、「研究が創造的行為であること」をまさに俎上に上げたという点では成功していた。

2018/09/07(金)(高嶋慈)

Eureka《Dragon Court Village》《Around the Corner Grain》

[埼玉県]

『卒計で考えたこと。そしていま』(彰国者)の第3弾を制作するために、埼玉県の浦和市にあるEurekaの事務所にて、稲垣淳哉のインタビューを行なう。古谷誠章による学部の設計課題ハイパースクールと同じ設定を、もう一度、違うデザインで行なったのが、卒計だったという。それにしても、学部の課題を繰り返すというのは珍しいだろう(筆者の知る限り、ほかには貝島桃代が学部課題を発展させたケースがある)。ちなみに、生徒それぞれの母校に異なる機能を付加するハイパースクールは、早稲田大の名物課題であり、建築新人戦でも毎年ファイナリストを送りだしているものだ。したがって、彼の場合、敷地は、ユニークな集合住宅《Dragon Court Village》を手がけた地元の愛知県、岡崎市である。なお、学部時代には古谷研のメンバーとして、新潟の月影小学校のリノベーションに関わり、卒論では日本各地で廃校になった学校のリノベーションの事例を研究したという。

その後、稲垣は大学院で、アジアの集落調査を行なうが、ほとんどの現場はすでに研究されていたことから、むしろ集落が現代化された状況に興味をもつ。その体験が地方都市の郊外にコミュニティの場をつくる《Dragon Court Village》につながった。インタビューの現場も、EurekaとMARU。architectureによる集合住宅《Around the Corner Grain》である。街の角地に大きなオープン・スペースをもうけ、その上にアクロバティックな構造によってヴォリュームが張り出す。また立体街路のような共有する外部階段が貫入し、外観からは戸数が判別しにくい7戸を凹凸パズルのように構成している。さらに可変な付属構築物を足していく。《Dragon Court Village》とも共通する部分もあるが、駐車スペースをそれほど必要とせず、狭い敷地でより複雑に住戸と階段が絡みあう点において、埼玉ならではの建築になっている。Eurekaは、現代におけるヴァナキュラー建築を追求しているのだ。

《Around the Corner Grain》外観


《Around the Corner Grain》模型


《Around the Corner Grain》外観


《Dragon Court Village》(愛知県)マルシェを開催している日の様子

2018/09/07(金)(五十嵐太郎)

青年団リンク やしゃご『上空に光る』

会期:2018/09/13~2018/09/24

アトリエ春風舎[東京都]

青年団リンク やしゃごは青年団の俳優・伊藤毅が作・演出を務めるユニット。やしゃごとしては今回が初の公演だが、これまでにも伊藤は『きゃんと、すたんどみー、なう。』(2017)などの作品を伊藤企画の名義で発表している。

舞台は東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた岩手県大槌町の民宿。震災後、観光客は減ったが、復興工事業者の利用があるため、経営はなんとか成り立っている。震災で夫が行方不明になり民宿を継いだ女性とその弟妹、彼女たちの義兄、老母の介護をしつつ民宿で働く女性、長期滞在の業者と夫を亡くした海を描き続ける画家、死者と話せるという「風の電話」の話を聞いて東京からやってきた女性二人組、町役場で働く男性、そして被災地を取材する劇作家。立場の異なる人々が交わるうち、それぞれの事情が浮かび上がる。

ナチュラルな口語と多くの人が行き交うセミパブリックな空間での会話を通して登場人物の背景を明らかにしていく劇作は青年団を主宰する平田オリザの手法を正当に受け継いで巧みだ。終盤、彼女たちが抱える「問題」が次から次へドミノ倒しのようにと明らかになっていく。新たなパートナーとの時間を始めようとする長女の葛藤とそれに対する義兄の憤り、飼っていたフェレットを亡くした女性の悲しみ、介護する老母を虐待してしまう女性の苦しみ。わかりあえなさゆえに彼女たちはときに衝突するが、もともとそれらは比較できるものでも、正解があるようなものでもない。

作中に登場する劇作家はときに無神経とも思える態度で彼女たちを取材する一方、彼の抱える事情や思いだけは一切描かれることがない。つくり手の思いがどこにあったとしても他者を代弁することはできないし、観客(そこには取材先の人々も含まれるかもしれない)が何を思うかは観客次第だ。劇作家の描き方は、そのことを受け入れるという作者のささやかな、しかし確固たる決意表明のように思えた。

[撮影:bozzo]

青年団リンク やしゃご:https://itokikaku.jimdo.com/

2018/09/13(山﨑健太)

『カメラを止めるな!』

[全国]

話題になっている映画『カメラを止めるな!』をようやく鑑賞した。なるほど、低予算でも撮影できるジャンルはゾンビものだが、これもそのセオリーを正しく継承した傑作である。謎解きのストーリーではなく、ネタばれという類の作品ではないので、映画の構成を説明しておく。まず第一パートでは、C級と言ってもよいであろう下手なゾンビ映画を見せられる。その内容は、ゾンビ映画の撮影中に本物のゾンビが登場するというプロットだが、あきらかに不自然なシーンがところどころで発生し、なんとなく記憶に引っかかる。エンディングが流れたあと、第二パートが始まるのだが、それは第一パートのメイキングであり、不自然と思われたシーンが起きた原因が、じつは撮影現場のハプニングの連続であることが判明し、伏線がすべて回収され、笑いに転化してく。またカメラが上昇する俯瞰のショットだったエンディングは、ある種の感動的な場面として再定義される。

もっとも、この映画の最大のポイントは、「カメラを止めるな!」というタイトルが示すように、ゾンビ専門チャンネルのテレビで生中継されるワンカットの撮影であるという設定だ。それゆえ、現場で不具合が発生しても、絶対に撮影を中断できない。映画の映画である第一パートは、たとえ出来は悪くても、ワンカットゆえの独特の緊張感が持続する一方で、さらにメタ視点に立つ映画の映画の映画である第二パートでは、それがドタバタのコメディになっていく。何が起きてもカメラが執拗に追いかけること、そして全員の努力と協力によって作品を終了させることを通じて、映画的なカタルシスが醸成される。もとは舞台用の作品を翻案したという話だが、少なくとも「カメラを止めるな!」は映画というジャンルの本質に迫る面白さをもっている。なお、映画が終わったあと、エンドロールでは、第三パートというべき「本当の」メイキングが流れるのも楽しい。第二パートが偽のメイキングであり、もう一度、シーンの背景を異なる視点から再解釈できるからだ。

2018/09/15(土)(五十嵐太郎)

TalkingKidsHi5『BABY BABY, THIS UNBELIEVABLE LOVE!』

会期:2018/09/14~2018/09/16

The CAVE[神奈川県]

TalkingKidsHi5はダンサー・aokidと彼の呼びかけで集まった俳優・福原冠、ミュージシャン・よだまりえ、タップダンサー・米澤一平、演出家・額田大志のチーム。ひとまずそれぞれにひとつずつ肩書きを付してみたものの、aokidはグラフィック「1_wall」でグランプリを受賞、福原はBlondeLongHair名義でDJとしての活動もしていて、額田はそもそも演出家となる以前からミュージシャンとして人力ミニマルミュージック楽団・東京塩麹を主宰し注目されてきた。よだと米澤もそれぞれ他ジャンルのアーティストとの交流に積極的な活動を展開している。今回のイベントもそんな彼らのオープンさを反映し、複数のジャンルがゆるやかに交流するようなものとなった。

同じくaokidが開催するクロスジャンルなイベントに「どうぶつえん」がある。TalkingKidsHi5がどうぶつえんと大きく異なるのは、パフォーマンスのなかでチーム全員が自らの専門はもちろん、専門外のこともやる点だ。ギターを弾いたりタップを踊ったりするにはそれなりの技術が必要だが、技術はなくとも人は言葉を発し、歌い、手を打ち鳴らし、踊ることができ、その根っこには共通する悦びがある。

ときに失笑を招きつつも全体が(楽しもうと思えば?)楽しめるものになっているのはもちろんチームに各ジャンルのプロフェッショナルがいるおかげだが、専門外のパフォーマンスが含まれているがゆえに必ずしも全体の完成度は高いとは言えない。内輪向けのイベントと受け取られかねない危うさもある。だが、音楽もダンスも同じように楽しむ彼らの姿は、ときにはにかみつつも軽やかで力みがない。ジャンルの間の、演者と観客との間の(あるいはもっとさまざまな?)壁がない世界がありえることのリアライズ。自然であることこそが自然となることを誘いやがて未来を変える。先日発売された東京塩麹の2ndアルバムのタイトルは『You Can Dance』というのだった。

[撮影:ShinichiroIshihara]

TalkingKidsHi5:https://talkingkidshifive.tumblr.com/
どうぶつえん:https://doubutsuenzoo.tumblr.com/

2018/09/16(山﨑健太)

2018年10月15日号の
artscapeレビュー