artscapeレビュー

2020年02月15日号のレビュー/プレビュー

ニューヨークの新しい観光名所

[米国、ニューヨーク]

およそ三年半ぶりのニューヨーク訪問だったので、新しい観光名所を訪れた。まずはハドソン・ヤードの再開発のエリアである。ここでトーマス・ヘザウィックによる《ヴェッセル》と、ディラー・スコフィディオ+レンフロによる《ザ・シェッド》が並ぶ風景は、まるで怪獣対決だ。前者は階段のお化けのような構築物である。ちなみに、まわりのビルよりも低いために、展望台として機能するわけではない。ただ登って降りるだけである。ある意味では無目的な施設だ。にもかかわらず、希有な空間体験そのものが目的になっており、朝から多くの観光客が集まっている。一方、後者は移動する空気膜の覆いであり、どことなくモスラのような相貌だ。



トーマス・ヘザウィック《ヴェッセル》



ディラー・スコフィディオ+レンフロ《ザ・シェッド》


ちなみに、やはりディラー・スコフィディオ+レンフロの設計によって、高架の線路を空中の遊歩道に改造したハイラインも、ハドソン・ヤードまで伸長し、隣接してザハ・ハディドによるマンションが登場している。すなわち、ニューヨークでは、独創的な建築を加えることで、都市に新しい魅力を次々に重ねている。



ディラー・スコフィディオ+レンフロの設計によるハイライン




ザハ・ハディドによるマンション


9.11の跡地における超高層ビルの開発やメモリアルは、すでにほとんど整備されたが、ひときわ目立つのは、ワールド・トレード・センター駅のオキュラス《オキュラス》だろう。ビル群はそこまでアイコン的なデザインではないし、基本的にメモリアルの空間は地下に展開しているのに対し、サンティアゴ・カラトラヴァによる有機体のようなデザインは、先端が尖った無数の骨状の構築物になっているからだ。これも怪獣になぞらえるならば、針に覆われた甲羅をもつアンギラスというべきか。また、大屋根の下に広がる内部空間は、商業施設だが、宗教的な崇高さすら獲得している。これらの新名所が誕生した同時期、東京がつまらなくなった理由を考えさせられた。それはニューヨークがこの街にしかできないプロジェクトを遂行しているのに対し、東京は東京にしかできないことに挑戦していないからではないか。そして日本の地方都市は、おきまりの商業施設を並べる「東京」の真似をしない方がいい。だが、いまの東京は「東京」を真似している大きい地方都市のようだ。



サンティアゴ・カラトラヴァ《オキュラス》



サンティアゴ・カラトラヴァ《オキュラス》

2020/01/16(木)(五十嵐太郎)

リニューアルされたMoMA

ニューヨーク近代美術館(MoMA)[米国、ニューヨーク]

昨年末にリニューアル・オープンしたニューヨーク近代美術館(MoMA)を見学した。これは2004年の谷口吉生による増改築に続くプロジェクトになったが、ディラー・スコフィディオ+レンフロが手がけている。彼らはハイラインや《ザ・シェッド》に続く抜擢であり、今やニューヨークの顔をつくる建築家だ。もっとも、外観のイメージが大きく変わる、派手なリノベーションではない。主に室内の空間構成やシークエンスを設計している。一階は動線の混雑を解消すべく、チケットカウンターのエリアを新設し、道路に面した無料のギャラリーや、階段で半地下に導入するショップがつくられた。



ショップ


展示エリアとしては、西側に大きく面積を増やし(リチャード・セラの巨大作品を置くことができるスペースも登場)、上下のフロアを眺望が良い階段でつなぎ、ここでも動線の改善をはかっている。またパフォーマンスなどに使うスタジオ、クリエイティビティ・ラボなどが導入された。全体に彼ららしい洗練されたデザインが展開している。



西側に新設された階段



西側



西側



無料ギャラリーでの展示《Mine Kafon



リチャード・セラの展示空間


19世紀から21世紀までのアートの動向を紹介する3フロアに及ぶ常設エリアは、美術、建築、デザインを混ぜていることも目を引く。したがって、同時代性において相互の分野を見ることができるのだ。もちろん、ジャンルを超えた膨大なコレクションを持つからこそ可能な複合タイプの展示とも言えるが、日本でもこういうコレクションの展示を見たい(通常は、どうしても美術の流れだけになってしまう)。20世紀の展示スペースを紹介する建築の部屋では、MoMAの建築の歴史を振り返ることに加え、採用されなかった興味深い初期案も知ることができる。



ボツになった初期MoMA案


なお、日本人の作家はどれくらい入っているかも確認していたが、気づいたところでは、西沢立衛や草間彌生らの名前を見つけた。ただし、アメリカの近現代美術で知られるホイットニー美術館のコレクションでも、草間を含むことを踏まえると、ニューヨークに在住したアメリカ的な作家としての意味合いも強いかもしれない。逆にMoMAの常設において、中国の存在感は強く、特に天安門事件の前後をめぐるアート表現に関して、一部屋を使い、特集展示も行なっている。

2020/01/16(木)(五十嵐太郎)

金サジ「白の虹 アルの炎」

会期:2020/01/08~2020/01/19

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

写真家の金サジは、朝鮮半島と日本の狭間で生きる自らの生について、自身の記憶や夢、民話や神話の象徴的なイメージを織り交ぜた汎東洋的な「架空の創世記」として構築し、衣装や小道具、ライティングを緻密にセットアップして撮影した「物語」シリーズを継続的に発表している。そこでは、西洋古典絵画の肖像画や宗教画を思わせる図像性のなかに、アジアの諸地域の伝承や神話、生/死、人間/獣、人間/神の境界が溶け合って混ざり合う。強い照明を浴びて漆黒の闇を背景に立つ被写体は、スポットライトを浴びる舞台俳優を思わせもする。そうした舞台との親和性もうかがわせる彼女の個展が、2019年に京都に新しくオープンした民間劇場「THEATRE E9 KYOTO」で開催された。劇場が位置する東九条は在日コリアンが多く住む地域であり、劇場のローカリティという点でもこの場所での開催は意味をもつ。加えて本展は、「劇場の構造やブラックボックス」を最大限に活かした展示構成が秀逸だった。

観客は、通常の劇場正面の入口ではなく、裏手のスタッフ用の入口から中に入り、普段は「舞台」である空間でプロローグを体験する。恐ろしいほどに青く澄んだ空と眩い光に照らされ、白い水蒸気が立ちのぼる水面の映像がループで流れている。舞台の幕は半分ほど開けられ、異界への門のようなそこを通ると、段状の客席に設置された写真作品と観客は一斉に対峙することになる。いや、その「門」は、産道だったのかもしれない。頭上には、子宮の内部かマグマの蠢く噴火口を思わせるイメージが、赤く暗い光を放ちながら掲げられている。血と肉と熱が沸き立つ、まだ形の定まらない、世界を生み出す始原の器。舞台から客席へと空間が反転するように、産道を逆に辿って胎内へ。そこは、女たち、母たち、巫女たちの物語が展開される劇場だ。



[撮影:麥生田兵吾 ]

入口の門あるいは産道の左右の壁には、ヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻像》を連想させる室内の夫婦像《結婚》と、授乳する聖母子像を思わせる《母子》が配される。だが、母の大きくはだけた胸元の下の腹部は、獣のような黒い毛で覆われ、聖性と獣性が入り混じる。そして段状の客席には、さまざまな登場人物たちが、劇場の照明を浴びて墓標のように佇む。観客は、死出の山を一段ずつ登るように、一つひとつのイメージと対峙していく。地中に埋められた、ミイラのように白布で包まれた胎児は、老女のような白髪混じりの髪を生やしており、赤ん坊/老女、埋葬された死骸/生命の萌芽という相反する要素の同居のなかに、植物の種や陰陽のかたちも思わせる。天使と戦うヤコブのように、髪を振り乱して掴み合う双子の姉妹。乱れた髪や表情に暴力を受けた跡をうかがわせる、若い巫女。深い森の中で巨大な男根にまたがって交わる巫女と、木の葉の塊から手足を突き出した精霊的存在。フライヤーのメインイメージである「桃に絡みつく双頭の白蛇」には、幾重もの象徴性がズレながら重なり合う。「蛇と果実」、すなわち原罪を犯したイヴと、その罰として課された「産みの苦しみ」。だが果実は「リンゴ」ではなく、中国で不老不死や豊穣の象徴とされる「桃」に置き換えられ、「蛇」もまた、悪魔の化身から神格化された存在へとシフトする。その蛇が「双頭」であることは、朝鮮半島と日本という二つのアイデンティティの示唆を含む。



[撮影:麥生田兵吾 ]

金は、本展によせた会場テクストにおいて、「ルーツ」「系譜」が伝統社会では男系継承とされてきたことに対する批判と、大文字の歴史に記録されなかった女性たちの記憶について、そして女性たちは柔軟にしたたかに生き抜くために身体に記憶を刻み込んで受け継いでいったのではないかと述べている。彼女の写真作品は、そのように自らの身体の奥に宿る記憶を、闇のなかからひとつずつ手探りで手繰り寄せ、美しくも禍々しい光に変えるのだ。

関連レビュー

金サジ「STORY」|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年07月15日号)
金サジ「STORY」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年06月15日号)

2020/01/18(土)(高嶋慈)

第44回伊奈信男賞 岩根愛「KIPUKA」

会期:2020/01/16~2020/01/22

ニコンプラザ大阪 THE GALLERY[大阪府]

戦前にハワイに渡った日系移民と、そのルーツである福島県民。サトウキビ製糖産業の衰退とともに廃れていく移民墓地と、震災後の福島の帰宅困難区域。ハワイの毎夏の盆祭りでいまも熱狂的に踊られている「ボンダンス」のひとつ「フクシマオンド」と、その元歌である「相馬盆唄」。国家の移民政策によって、あるいは原発事故によって故郷から強制的に隔てられた両者をつなぐ「盆踊り」を基軸に、10年以上に渡る精力的なリサーチと撮影を続けている岩根愛。その成果がまとめられた写真集『KIPUKA』(青幻舎、2018)で昨年、第44回木村伊兵衛写真賞を受賞し、ニコンが運営するギャラリーで個展が開催された。その展示が、年間の最優秀作品に選ばれたため、約半年後に同じ会場にて再び個展が開催された。


個展タイトルは変わらないものの、展示構成は大きく変更を加え、自身の企図をより深く伝える熟考の跡が感じられた。前回の個展では、ハワイ/福島を明確に分け、対置させる意識が強かった(向かい合った展示壁面の片方にハワイを、もう片方に福島を対置。それぞれの盆踊りで「乱舞する手」のクローズアップを360度のパノラマカメラで捉えた超横長の写真が背中合わせで吊られ、両者のあいだを対角線上に区切る。それぞれレンズにカラーフィルタを付けて撮影されたそれらは、ハワイ=熱狂的なエネルギーの奔出を伝える「赤」に、福島=死者への哀悼や深い哀しみを想起させる「青」というように、対照的な色に染められている。対置や背中合わせの構造も相まって、「私たち」と「彼ら」、「日本人」と「日系人」といった分断を強調しかねない展示構成には疑問が残った)。


だが、今回の展示構成では、ハワイと福島が分断ではなく連続性を保ちながら円環状につながり合い、その延長線上に生と死が循環する相さえ感じさせる、充溢した空間が立ち上がっていた。



会場風景

展示はまず、福島の帰宅困難区域をパノラマ撮影したモノクロ写真で始まる。倒壊したまま無人化した家屋やビニールハウス。時間が凍結したかのような光景の上を、繁茂する自然が覆っていく。その様相は、溶岩流に巻き込まれた墓石が傾いたり、自然の力に飲み込まれて荒廃していく日系移民の墓地の光景へとスライドしていく。そして、夜のサトウキビ畑のざわめく葉の上に投影された、かつてそこで働いていた日系移民の家族写真は、亡霊の召喚を告げる。重なり合った葉の合間に見え隠れする、目鼻立ちや輪郭が曖昧に溶け合って個人としての顔貌を失い、自然と同化しつつある亡霊的存在。亡霊の出現は、美しさと熱気と畏れを合わせ持つ盆踊りの光景へとつながっていく。漆黒の闇の中に福島の「青」が浮かび上がり、それは美しい色彩のグラデーションを描きながら、次第にハワイの「赤」が鮮烈さを帯びて立ち現われ、熱狂と命の奔流は壁の終わりで頂点に達する。本展の白眉と言えるこの壁面では、福島とハワイ、「こちら」と「あちら」、彼岸と此岸の境界がなだらかに交じり合って溶け合う。



会場風景

「死」の凍結から始まり、福島からハワイへ、死者の霊の召喚から「生」の祝祭へと、二つの土地を往還しながら円環状に展開する本展は、「生」の高揚が最高潮に達する終盤のハワイから再び冒頭の福島へとつながり、生と死もまた円環状につながり合う。移民の歴史、ディアスポラの悲哀、土地と身体に根づく歌と踊りの生命力を捉え、その果てに壮大な「生と死の循環」を描き出す本展は、「KIPUKA」というタイトルに込められた意味──「溶岩の焼け跡に生えた植物」、再生の源となる「新しい命の場所」を意味するハワイ語の言葉──をより内在的に浮かび上がらせていた。

関連レビュー

岩根愛「KIPUKA」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年11月01日号)
第44回 木村伊兵衛写真賞受賞作品展 岩根愛「KIPUKA」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年07月15日号)

2020/01/22(水)(高嶋慈)

HER/HISTORY

会期:2020/01/17~2020/01/28

岸和田市立自泉会館[大阪府]

アーティストの稲垣智子がキュレーターを務める、「歴史」をテーマとしたグループ展。「HISTORY」の前に付けられた「HER」が示唆するように、「男性」「権力」「単一性」によって語られてきた大文字の歴史/物語を、周縁性や複数性の視点からズラし、いかに語り直すことが可能かという問いが本展の基底にある。

この問いに正面から向き合い、秀逸だったのが、mamoruと長坂有希。mamoruの映像作品《私たちはそれらを溶かし地に注ぐ》は、太平洋戦争末期の1945年1月、空襲下の台湾にて発掘作業を行なった日本人の考古学者の残した記録資料を基軸に、「国家が(他者の)文化を奪うこと」と「戦争という暴力を先住民が別の形へと変容させること」について語る、映像音楽詩とも言える美しい作品である。興味深いのは、リズミカルに編集されたシーンの展開に応じて、異なる「語りの視点や文体」が採られ、複数の「声」「主体」によって織り上げられている点だ。「彼は」という三人称視点のナレーションで始まる映像は、台湾に残る遺跡を撮影したモノクロ写真を入れ子状に映し出し、物語世界としての対象化と隔たった距離感をまずは提示する。だが、語りが「私は」という一人称視点に切り替わるとともに、見る者は、視点の同一化によって語られる物語のなかへと迎え入れられ、「台北帝国大学所属の考古学者である私」が抱える、学問的な探求心と「研究成果が国家の植民地政策に利用される」ジレンマを聞くだろう。

一方で一人称の語り手は、事務的な発掘日誌を淡々と読み上げていく。発掘作業の進展と、度重なる空襲による作業中止の報告。先住民による合唱の挿入。彼らは、米軍機が落とした弾丸を拾い、溶かして地に注ぎ、装身具に作り替えていたこと。それは、戦争という暴力を溶かし、新たな形と力を与える一種の変身であり、度重なる侵略と抑圧を潜り抜けて受け継がれてきた、軽やかな抵抗の作法ではないかとナレーションは語る。当時の記憶を持つ人々のインタビューを挟んで、終盤では、リズミカルなラップに乗せ、国家的暴力に対する抵抗、同調圧力や自己欺瞞の包囲網、その孤絶感のなかで続く自問自答の戦いについて歌い上げられていく。資料のリサーチ、インタビュー、複数のナラティブの形式の並置により、可視化されてこなかった歴史を多面的に語り直す本作はまた、先住民の歌声や爆撃音、ラップのリズムと同期した字幕編集など、音楽的編集が際立つ。



mamoru《私たちはそれらを溶かし地に注ぐ》(2020)[撮影:植松琢麿]

一方、長坂有希の作品では、波打つ海面の映像を背景に、語り手は一貫して「あなた」という親密な呼びかけで語り続ける。呼びかけの相手は、エーゲ海の島から海を渡って大英博物館に運ばれた大理石のライオン像である。前足と口、そして宝石が嵌められていたであろう光輝く目を失い、傷ついたその姿は、故郷から引き離された難民や移民のディアスポラとしての生や、奴隷貿易のメタファーともとれる。「あなたの目になって、あなたが見ていたものを探しに行くことにしたの」と言い終える語り手は、他者の痛みに向き合うことは、「あなた」という親密な関係性のうちでしか成しえないのではないかと告げる。映像の背後の黒板には、地中海の簡略な地図や旅先の風景と思われるドローイング、「序章」と「終章」という単語が断片的に描かれるのみであり、その物語は、私たち自身が「目」となって痛みの共有と親密な関係性を想像的に結び直しながら、投影しなければならないのかもしれない。



長坂有希《手で掴み、形作ったものは、その途中で崩れ始めた。最後に痕跡は残るのだろうか。02_ライオン》(2020) [撮影:植松琢麿]

物語的叙述、内省的主観、業務的な記録、記憶をもつ当事者の語り、抵抗のラップの歌声など多層的な声の(再)配置と、「あなた」への親密な語りかけ。対照的ながら、「負の記憶にどう向き合うか」という問いに対峙し、その向き合い方を開いていく語りの作法の開発が、静かに提示された展示だった。

2020/01/22(水)(高嶋慈)

2020年02月15日号の
artscapeレビュー