artscapeレビュー

2020年10月01日号のレビュー/プレビュー

末永史尚「ピクチャーフレーム」

会期:2020/08/29~2020/09/27

Maki Fine Arts[東京都]

額縁だけが掛かっている! などと思う素朴な人はいまどきいないだろうが、なかなか得がたい光景ではある。パネルに綿布を貼り、外縁に額縁装飾を描いた絵が9点。額縁の内側は1色でフラットに塗りつぶされているため、絵を外した状態に見えなくもない。じつはこれらの額縁は現在、内外の美術館で実際に使われている額縁なのだそうだ。例えば、MoMAのゴッホ《星月夜》とか、東近の岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》とか。いずれも原寸大で、しかも内部に塗られている色彩はその絵の平均的な色なので、額縁から作品を類推できるかもしれない。

末永はいくつかのシリーズを並行して制作しているが、代表的なシリーズに「日用品をモチーフにした立体絵画(THREE-DIMENSIONAL PAINTING)」がある。例えば本とか箱とか消しゴムとか付箋紙とか、四角くて厚みのある身近な物体を「絵画化」したもので、その物体を描くのではなく、その物体に描くのでもなく、その物体と同じサイズの立体をつくり、同じ色を塗るのだ。制作方法からいえば彫刻ともいえるが、あくまで四角くて厚みのある物体に色を塗ったものだから「絵画」なのだ、と思う。今回はその延長上で、額縁込みの絵画を「絵画化」したものだ。と思ったら、それとは別に、美術館にある名画(の額縁)を描いた「ミュージアム・ピース」というシリーズがあるので、その系列だろう。このシリーズは、2014年に愛知県美術館で初めて発表したそうだが、そういえばぼくも見た覚えがあるわい。

ところで、これらの作品は絵の入っていない額縁と見ることもできるが、見方を変えれば、額縁に入った「モノクローム絵画」と捉えることも可能だ。そもそも額縁とは、絵を保護する役割と同時に、描かれた図像と現実の壁を分け隔てるクッションの役割も果たしていた。ところが、絵画の抽象化が進むにつれて絵画自体が壁に近づき、額縁は必要とされなくなった。だからこれらの「モノクローム絵画」に額縁は似合わず、それゆえ「得がたい光景」になっているのだ。さらに滑稽な事態を想定するとすれば、これらの作品を購入した人が屋上屋を架すがごとく、額縁をつけてしまうことだ。作者はそこまで意図していないだろうけど。

2020/09/03(木)(村田真)

川内倫子『as it is』

発行所:torch press

発行日:2020/09/20

川内倫子が写真集『うたたね』、『花火』、『花子』(いずれもリトルモア、2001)を刊行し、第27回木村伊兵衛写真賞を受賞してから、もう20年近くになる。それ以後の充実した仕事ぶりはいうまでもないことで、国内外で最も注目される写真家の一人になった。このところ、2017年の写真集『Halo』(HeHe)のように、神話的、宇宙的といえそうなスケールの大きな作品世界を展開していたのだが、本作は彼女の原点というべき『うたたね』の写真に戻って、日常の事物に目を向けている。テーマが2017年に生まれた自分の娘なので、身近な場面が多くなるのも当然というべきだろう。

「半分自分で、半分なにか」だった何ものかが、次第にヒトの形をとり、立ち上がり、歩き出し、世界を受け入れ、受け入れられていく。そのプロセスを写真で辿ることは、世間一般でごく当たり前におこなわれていることだ。だが、川内倫子の写真には、何か特別な魔法がかかっているように見えてくる。いうまでもなく、これまでの写真家としての経験がそこに注ぎ込まれていることは間違いないが、それだけではなく、子どもとその周囲の世界に向ける眼差しそのものに、どこか違った角度と深さがあるように思えるのだ。それは川内が、常に生命の輝きとともに、死へのベクトルを感知しているからではないだろうか。身近なものたちに、ふっと消え失せてしまうようなはかなさが備わっているということだ。『as it is』も例外ではなく、死の側から見ているような眺めが、そこかしこに入り込んできている。撮影中に「天草のおじいちゃん」が亡くなったのも、偶然とは思えない。

なお、写真集刊行に合わせて、東京・恵比寿のPOSTで同名の展覧会が開催された(9月4日~10月11日)。写真作品とともに、同時期に制作した映像作品も上映していたのだが、その画面の右端に黄色い光が映るようにセットされているのに気づいた。それはあたかも、彼岸から射し込む光のようだ。

2020/09/06(日)(飯沢耕太郎)

オノデラユキ FROM Where

会期:2020/09/08~2020/11/29

ザ・ギンザスペース[東京都]

現在パリに住むオノデラの、90年代の「camera」シリーズ3点と「古着のポートレート」シリーズ15点の展示。いずれもモノクローム写真。「camera」シリーズは文字どおりカメラを前面から撮ったもの。カメラ自体のセルフポートレート? といいたいところだが、文字が反転していないので鏡に写して撮ったわけではなく、カメラ2台を相対させて撮影したという。しかも光は写す側ではなく、被写体のほうのカメラのフラッシュを焚いて撮ったというのだ。たとえは悪いが、相手のフンドシで相撲をとったってわけ。コンセプチュアル・フォトともいえるが、予期せぬ光が入り込んでいたり、なにか割り切れない空気感を漂わせる作品だ。

一方「古着のポートレート」は、1993年に渡仏したオノデラが注目を集めるきっかけとなったシリーズ。これは、クリスチャン・ボルタンスキーが個展で使用した古着を袋一杯10フランで購入し、モンマルトルのアパルトマンで空を背景に撮影したもの。誰が着たかわからない古着だが、主人不在の服だけが所在なさげに立ちすくんでいるさまは、まるで亡霊のようだ。あるいは、曇天の空を背景に屋外で撮影しているせいか、建築のような印象も受ける。ただし、シワが寄ったり形が崩れたりしているので、くずおれそうな廃墟か。柔らかい服と固い建築は正反対にも思えるが、いずれも人間を包み込み、守るものという点では似たような存在だ。とりわけ古着と廃墟は、人の不在を強烈に感じさせる点で近い。

しかし古着も廃墟も、安い量販店の進出やたび重なる都市の再開発で絶滅の危機に瀕している。それはマニュアルカメラも、モノクロームプリントも同じ。これらの作品に漂うノスタルジアは、写された対象からだけでなく、写すメディアからも醸し出されているのだ。

2020/09/10(木)(村田真)

ロロ『心置きなく屋上で』

会期:2020/09/09~2020/09/13

KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

高校演劇のフォーマットを用いた連作「いつ高」シリーズの新作が約2年ぶりに上演された。2015年に『いつだって窓際であたしたち』で幕を開けたこのシリーズは当初から全10作となることが予告されており、8作目となる今作の当日パンフレットには「いつ高FINALシーズン開始です」という作・演出の三浦直之の言葉もある。

舞台は新校舎の屋上。屋上の床面に描かれた円を描きかけの魔法陣だと言い張る茉莉(多賀麻美)。瑠璃色(森本華)に手伝わせて魔法陣を描いていると友人・海荷(田中美希恵)の元カレである太郎(篠崎大悟)が来合わせる。気まずい3人。太郎と入れ違うようにして現われた海荷の妹・ビーチ(端田新菜)は偽物のラブレターを使って姉と太郎のよりを戻そうと画策しているらしい。やがて完成した魔法陣に瑠璃色が「望む」となんと魔法が本当に発動してしまう。宙に浮かびどこかへ飛び去る瑠璃色。追いかける茉莉とビーチ。無人になった屋上にやってきた海荷が魔法陣をなぞると再び魔法が発動。海荷の「望み」に呼応してか彼女のことを好きだと言う太郎が出現し──。

[撮影:三上ナツコ]

出現した太郎が自らの願望の産物であることに気づいた海荷は「あたしの願望が、あなたに好きって言わせて、それをあたし振ってんのか……きも」と独りごちる。一方、ビーチが書いた太郎からのラブレターを偽物だと見破った海荷は太郎はそんな文章は書かないと言うが、当の太郎は「おれ、この手紙、書いた気がするよ」と言い出す。自分の理想を他人に押しつけること。他人のすべてを知ったり想像したりすることはできないこと。それでも、他人の書いた言葉が自分の言葉のように響く瞬間が確かにあり得ること。太郎も海荷に未練があるようだが、海荷はよりを戻すことを選ばない。「あんまり物事二択で考えないほうがいいとおもう」とは茉莉の言葉だが、好きか嫌いかの二択では割り切れないこともある。

一方、瑠璃色は瑠璃色で進路の選択で悩んでいるようだ。どうやら三者面談で親と揉めて泣いていたらしい。空に浮かび上がってしまった瑠璃色が願ったのは、自由になりたい、あるいは、望むところへ行きたいという願いだろうか。「線のまだ安定しきっていない感じが好き」な瑠璃色は「いまもし自分が漫画だったら何巻くらいの絵なんだろう」「まだ1巻であってほしい」と言う。

[撮影:三上ナツコ]

[撮影:三上ナツコ]

[撮影:三上ナツコ]

渦中にいる彼女たちにはそう思えないかもしれないが、未来は可能性に開かれている。進路にせよ恋愛にせよ、あるいはほかの何かにせよ、彼女たちは日々選択をし、ときにそれが選択だと気づかないまま選択をしている。屋上の床面に書かれた円は○×クイズの○で、旧校舎の屋上には×が記されていた。彼女たちが気づかぬうちに○を選んでいたように、気づかないうちに選んだ道が「正解」だということもある。あるいは、正解だと思って選んだ選択肢が後から間違っていたと思えることもあるだろう。○×クイズの○は正解を意味せず、×も間違いを意味しない。いずれにせよ、自らの選択が「正解」かどうかがわかるのはまだ先のことだ。いや、人生にやり直しがきかず、複数の選択肢を比較することが叶わない以上、本当の意味で「正解」を判定することは不可能だろう。

すでに高校生でない私は、彼女たちの選択の本当の結果はずっと先にならなければわからないことを「知って」いる。高校生のときの切実さも、振り返ればひとつの思い出となる。だが、日々選択し続けているという意味では、高校生の私もいまの私も変わらないはずだ。切実な願いは選んだ選択肢を(それが「正解」であれ「不正解」であれ)思い描く未来につなげる力を持つだろう。それこそが本当の魔法だ。いまの私に、魔法を使えるほどの切実さはあるだろうか。

[撮影:三上ナツコ]


公式サイト:http://loloweb.jp/

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ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2020/09/10(木)(山﨑健太)

人が消えた町

会期:2020/09/11~2020/10/09

チェコセンター[東京都]

6月11日~28日に東京・目黒のコミュニケーションギャラリーふげん社で開催された「東京2020 コロナの春」展は、新型コロナ感染症による緊急事態宣言下の日本の状況を、いち早く捉えた写真を展示した企画展だった。コロナ禍がどのような影響を写真の世界に及ぼしていくのかはまだ不透明だが、写真家たちのヴィヴィッドな反応を見ることができたのはとてもよかったと思う。

今回、東京・広尾のチェコセンターで開催された「人が消えた町」は、その余波というべき展覧会である。外出自粛、営業制限といった規制はチェコでも同じように施行され、プラハの街からも人影が消えた。チェコの写真家、カレル・ツドリーンは、「この状況もいつかは終わり、記憶の片隅に追いやられてしまうかもしれない。だからこそ今、作品に残したい」と考えて撮影を開始した。マスクをつけた人々が、空虚感が漂う路上を彷徨っているような写真の眺めは、われわれ日本人にとっても身に覚えのあるものといえるだろう。

今回は、ツドリーンのモノクローム作品10点に加えて、「東京2020 コロナの春」展に出品していた11人の写真家たちの作品も出品されていた。土田ヒロミ、大西みつぐ、港千尋、Area Park、元田敬三、普後均、田口るり子、小林紀晴、藤岡亜弥、オカダキサラ、Ryu Ikaの作品は、ふげん社の展示でも見ているのだが、どこか印象が違う。チェコの写真家の重々しく、物質性の強い人や街の表現と比較して、日本在住の写真家たちの作品が細やかだが、やや希薄に見えてくるのが逆に興味深かった。チェコの写真家たちのグループ展は、以前何度か企画・開催されたことがあるのだが、これを機会に本格的な交流展が実現するといいと思う。

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