artscapeレビュー

2020年11月01日号のレビュー/プレビュー

白石ちえこ「鹿渡り」

会期:2020/10/05~2020/10/10

巷房1[東京都]

白石ちえこは、1990年代以来コンスタントに個展を開催し、写真集『サボテンとしっぽ』(冬青社、2008)、『鳥影』(蒼穹舎、2015)を刊行するなど、独自の作風を育て上げてきた。今回、写真集『鹿渡り』(蒼穹舎)の刊行記念写真展として、東京・銀座で開催された同名の個展に展示された作品にも、「間」を活かした画面構成、グレー・トーンを強調したモノクローム・プリントなどに、彼女の繊細な美意識が十分に発揮されていた。

白石はこのところ、大正~昭和初期の「芸術写真」の時期に流行した、印画紙にオイルを引いて絵具や鉛筆で加筆していく、「描き起こし」(雑巾がけ)という技法にこだわって作品を制作してきた。今回の「鹿渡り」では、その技法は用いられていない。だが、画像をソフトフォーカス気味にコントロールしていく仕上げはそのまま踏襲され、16点の写真には古風な石版画を見るような雰囲気が漂っていた。とはいえ、技法だけが一人歩きしているわけではない。冬の北海道のしんと静まり返った大地と、そこに生きる鹿たちの姿を浮かび上がらせるのに、印画紙のトーン・コントロールがとても的確かつ効果的に使われている。

写真集のあとがきに「道東では、今まで感じたことのない大きな自然との一体感の中で、弱い光に包まれながら、私と鹿と自然が一本の道でつながっていくのだった」と記しているが、まさにそんな感慨を覚える写真群といえる。白石にとっても、ひとつの区切りとなるシリーズではないだろうか。

2020/10/07(水)(飯沢耕太郎)

笠木絵津子「私の知らない母」

会期:2020/10/08~2020/10/25

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

笠木絵津子は昨年、作品集『私の知らない母』(クレオ)を刊行して第29回林忠彦賞を受賞した。今年5月にその受賞記念展が周南市美術博物館で開催される予定だったが、コロナ禍で中止になってしまった。今回、コミュニケーションギャラリーふげん社で開催された個展は、それに代わって開催された展覧会である。

3階のギャラリーと2階の工房スペースでの大型プリント13点による展示には、代表作がほとんどすべて含まれている。朝鮮、台湾、旧満州と一家が移動している間に撮られた写真の中に写っている母の位置に、笠木自身が入れ替わるというコンセプトの本作は、デジタル技術を駆使したコラージュ作品という側面が強調されがちだ。だがそれだけではなく、亡き母に時空を超えてもう一度遇いたいという笠木の強い思いが結実したシリーズでもあり、むしろその見方によっては狂気じみたエモーションが、作品を見るわれわれに強い力で伝わってくるところに、その最大の魅力があるのではないだろうか。

もうひとつ、今回気がついたのは、奈良女子大学大学院で理論物理学を学んだという笠木の経歴が、作品制作のプロセスに投影されているのではないかということだ。デジタル・コラージュという手法を用いることで、物理的な時間・距離を歪め、自由に行き来しようという発想には、どこかアインシュタインの特殊相対性理論を思わせるところがある。物理学者の出自を活かした、新たな作品の展開にも期待したいものだ。

関連レビュー

笠木絵津子『私の知らない母』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2020年02月01日号)
笠木絵津子「『私の知らない母』出版記念新作展」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年07月01日号)

2020/10/11(日)(飯沢耕太郎)

東京芸術祭2020 芸劇オータムセレクション『ダークマスターVR』

会期:2020/10/09~2020/10/18

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

私の欲望は本当に私のものだろうか。

『ダークマスターVR』はそのタイトルの通り、もともとは漫画『ダークマスター』(原作:狩撫麻礼、画:泉晴紀)を庭劇団ペニノ名義で舞台化し2003年に初演した作品を、さらにVRゴーグルを使って鑑賞するかたちに翻案したもの。ある定食屋を訪れた青年が、人付き合いが苦手だというその店のマスター(金子清文)から、自分の代わりに店に立って客の相手をしてくれないかと頼まれる。条件は月に50万の報酬と店に住み込むこと。引き受けた青年がイヤフォンを通して聞こえてくるマスターの指示通りに料理を出しているとやがて店は繁盛し始める。しかし上階にいるはずのマスターはあれきり姿を見せない──。

私が観た2016−17年版の『ダークマスター』では客席に置かれたイヤフォンを通じて観客も青年と同じようにマスターの声を聞くという趣向が用意されていた。今回の『ダークマスターVR』では、観客はマジックミラーのようなもので仕切られたブースへとひとりずつ案内され、そこでVRゴーグルを装着しフィクションの世界へと入っていく。VRゴーグルを装着した観客はひとまず主人公の青年と視点を共有しているようなのだが、観客自身の意思で視線をどこにでも向けられるVRゴーグルを通じての鑑賞では、青年が見ているものを観客もそのまま見ているとは限らない。実際、私がキョロキョロと店の内装を見回しているうちに、青年はマスターに出されたコロッケを食べ始めていた。自分のものではない身体に閉じ込められているような、そんな奇妙な乖離の感覚がそこにはあった。

この感覚は『ダークマスター』の物語とも呼応している。上階に閉じこもったきり出てこなくなってしまったマスターは、料理のみならずさまざまな欲求の解消を青年に「代行」させはじめる。トイレに行きたい。酒が飲みたい。女が抱きたい。青年は自らのものではないそれらの欲求に従い、観客は自らのものではない身体がそれらの欲求を解消する様子をその内側から眺める。このとき、観客は青年よりもむしろ青年に憑依したマスターと近い立ち位置にいるのかもしれない。バーチャルな身体を介して解消される欲求。

だがもちろん、その欲求は観客である私のものではない。だからこそ、他人の生々しい欲求をぶつけられたような不快感が残る。ヘッドフォンから聞こえてくるさまざまな音(咀嚼音、排泄音、性行為の音)がその生々しさと不快感を助長し、ときおり漂ってくる匂い(ステーキ、ナポリタン、化粧品)はバーチャルなはずの体験を観客自身の身体へと結びつける。マスターも、おそらくは青年も男性異性愛者であり、観客が男性異性愛者であった場合はそこで生じる違和感は相対的に小さいかもしれない。だがそうでない場合、自分では抱くはずのない欲求を解消するさまを「身体の内側」から見させられることになり、乖離はより一層大きなものとなる。

一方、この作品には男性異性愛者にこそショッキングなラストシーンも用意されている。店に呼び出したデリヘル嬢(日高ボブ美)との性行為の最中、一瞬だけ真っ暗になったかと思うと次の瞬間、目の前のデリヘル嬢の顔がマスターのそれへとすげ変わっているのだ。仮想現実の性行為に自らの欲望を重ね合わせていればいるほど、これには驚かされるのではないだろうか。そこにあるのが青年の欲望でもましてや観客の欲望でもなく、マスターの欲望だということを強烈に思い出させるラストシーンだ。

映像が終わると私は仕切られたブースの中に再び独りだ。だが、マジックミラーの向こう側にはほかの観客たちの姿が透けて見え、その姿は私にあまりに似ている。無数の部屋、無数の画面、無数の人。ステイホームしていてさえも、私は画面を通じて欲望を刺激され続けている。私の行動は私の欲望に基づくものだが、その欲望は果たしてどこまでが私のものか。私の欲望は他人のそれとあまりに似通ってはいまいか。劇場を出ると池袋の街には無数のネオンサインが瞬いている。それは私の欲望をコントロールしようとする誰かの欲望の光だ。


公式サイト:https://www.geigeki.jp/performance/theater249/

2020/10/13(火)(山﨑健太)

江戸の土木

会期:2020/10/10~2020/11/08

太田記念美術館[東京都]

浮世絵に限らないが、日本の絵画には「空間構造」が欠けている、とかねがね思っていた。例えば家屋を描くとき、西洋ならその建物がどのような土台の上に建ち、どんな構造をしているかを遠近法の下に描き出していく。つまり絵画を、あたかも建物を建てるように構築的に組み立てていくのだが、日本の絵は建物が地面に接しているかさえ怪しいほど曖昧で、辻褄が合いそうになければ霞でごまかしてきた。つまり日本の画家は伝統的に構造設計をサボってきたのだ。と思っていたら、「江戸の土木」なる浮世絵展が開かれているのを知り、興味深く見ることができた。

作品は計70点で、「橋」「水路」「埋立地」「大建築」「再開発エリア」「土木に関わる人々」「災害と普請―安政の大地震」の7章に分けられている。うち「橋」がいちばん多く、27点と4割近くを占める。これは江戸の町が、現在の東京の東側が栄え、隅田川を中心に運河を張り巡らせた「水都」であったことの証だ。ちなみに出品作品は、時代的には江戸後期から明治初期までのほぼ19世紀全体に及ぶので、維新後に架けられた西洋風の方丈型木橋や錬鉄製桁橋も登場する。いずれにせよ、これだけ橋が多く、見慣れ(描き慣れ)ているせいもあって、複雑な木の組み方など予想以上に正確に描写されている。とはいってもやはり浮世絵、色彩がフラットなせいで立体感には乏しい。例えば広重の「名所江戸百景」のうち《大はしあたけの夕立》。これはゴッホが模写したことで知られているが、そのゴッホの模写は、橋桁に原画にはない陰影をつけて立体感を強調している。原画より模写のほうがよっぽど空間構造を明確に再現できているのだ。

「水路」では、御茶ノ水の山を掘って通した神田上水や、玉川兄弟が羽村から取水した玉川上水、日比谷入江から江戸湾につなげた日本橋川、外堀の一環として貯水した溜池など、「埋立地」では、湿地帯を埋め立てた八丁堀や佃島、築地など、「大建築」では江戸城をはじめ、寛永寺、増上寺、浅草寺、新しいところでは凌雲閣など、江戸幕府が造成した場所を紹介している。20世紀以降も東京は目まぐるしく変わったけど、それも江戸時代の土木工事があってこそだとわかる。絵師は歌川広重を中心に、三代目広重、渓斎英泉、歌川国芳、小林清親、井上安治らが名を連ねるが、絵を見てハッとするのは葛飾北斎だ。広重も確かにうまいけど、北斎の「諸国瀧廻」の《東都葵ヶ岡の滝》や、「冨嶽三十六景」の《遠江山中》などの前では凡庸に見えてしまう。明治以前に空間構造を描き出すことができたのはただひとり、北斎だけかもしれない。

2020/10/14(水)(村田真)

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西洋の木版画 500年の物語

会期:2020/09/26~2020/11/23

町田市立国際版画美術館[東京都]

木版画なんて原理は簡単だから紀元前からあるのかと思ったら、意外と歴史は浅く、中国では7-8世紀の唐の時代から、西洋ではもっと遅くて14世紀末から始まったという。でも同じ印をいくつもつけられるハンコみたいなものは、それこそ文字が発明される以前からあったらしい。印にしろ版画にしろ、問題はどこに「かたち」を移す(写す)かだ。その最良の答えが「紙」だった。中国で蔡倫が紙を発明したのは2世紀だが(それ以前から紙みたいなものはあったらしく、それを実用的に改良したのが蔡倫といわれている)、それが西洋に伝わったのは千年以上あとの12-13世紀。その紙のあとを追うように木版画も伝わったってわけ。ついでにいうと、15世紀には活版印刷が始まるから、紙が視覚メディアの発展を大きく促したことは間違いない。

同展では、初期のころの素朴な木版画から、現代のミンモ・パラディーノやアンゼルム・キーファーらによるタブロー並みの巨大木版画まで、コレクションを中心に計83点の出品。なかでも興味深いのは、最初に展示されていた『貧者の聖書』の1ページで、1枚の版木に絵と文字を一緒に彫り込んで刷った木版本。文字も絵も稚拙だが、手で彩色されるなど労力が込められている。制作年代は1440年以降なので、グーテンベルクが活版印刷を発明する直前だろう。シェーデルの『年代記』は、600ページを超す活版印刷に木版画の挿絵1809図がついた、いわゆるクロニクル。現代の写真入りのクロニクルよりよっぽど豪勢だ。木版画と活字はどちらも凸版なので相性がよく、初期のころの活版印刷には木版画の挿絵が使われたが、やがてより細密な銅版画や、より簡便なリトグラフの登場で木版画は廃れていく。

だがその前に、木版画の頂点をきわめたデューラーの前で立ち止まってみたい。「黙示録」と「小受難伝」シリーズから4点ずつの出品だが、その精緻な線描は人間ワザとは思えない。だからといってコンピュータなら描けるかといえば、機械では絶対に出せない力と味をひしひしと感じるのだ。この時代、画家は下絵を描くだけで彫るのは職人に任せることが多かったが、デューラーは「黙示録」については企画・制作・版元のすべてを担い、彫りにも関わった可能性があるという。レオナルドやミケランジェロと同世代だが、同じ天才でも時空を飛ばして北斎と比較してみたい誘惑に駆られる。

2020/10/14(水)(村田真)

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2020年11月01日号の
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