2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

2021年04月15日号のレビュー/プレビュー

佐藤可士和展

会期:2021/02/03~2021/05/10

国立新美術館 企画展示室1E[東京都]

言うまでもなく、デザインの展覧会は、基本的に一品モノではないため、アートに比べると、どうしても強度が落ちる。だが、そこでしか体験できない何か、すなわち複製できない体験をつくりだせば、必ずしもそうはならない。「佐藤可士和展」は、そうした仕掛けを周到に用意している。例えば、国立新美術館の天井高のある展示室は、アートでもなかなか使いたおすのは難しい。だが、さすがに街中での広告を展開してきただけあって、巨大な壁面にあわせたレイアウトによって展示を行ない、遠くからの視認性も抜群である。縮小・拡大可能なデザインだからこそ、逆に会場の大きさを生かした展示になっていた。また展示が終わった後、関連グッズを販売するショップのエリアも、リアルなインテリア・デザインを試みている。ちなみに、ほぼすべての展示は撮影可となっており、それをうながすような場も計算され、来場者があちこちで記念写真を撮っていた。これらはSNSなどで拡散され、さらに来場者を呼び込むはずだから、アートディレクターとして自分の展覧会をどのように広告するかも考えられている。


「佐藤可士和展」より。企業ロゴのコーナー


佐藤可士和が手掛けたポスターのコーナー


《カップヌードルミュージアム 横浜》のコーナー


セブンイレブンのリブランディングプロジェクトに関する商品展開

SMAPのCD、国立新美術館、T-POINT、楽天などのロゴ、ポスターのグラフィックデザイン、カップヌードルや今治タオルのブランディング、コンビニの商品パッケージのデザイン、ユニクロのショップ展開から、《ふじようちえん》や団地再生のプロジェクトまで、活動は多岐にわたり、改めてわれわれの日常の様々な場面で、佐藤がプロデュースするデザインに出会っていたことを思い知る。したがって、これはデザインが重要であることを社会に認知してもらうことに貢献する展覧会だろう。個人的に興味をもったのは、まとめて見ると、モダニズム、コラージュ、ミニマリズム、ポップアートなど、近現代美術の手法の流用が多いことだ。展示のラストでは、美術館ということで佐藤のアート作品、「LINE」と「FLOW」のシリーズも紹介されていた。これは建築家の展覧会がしばしばそうなるように、セルフ・プロデュースのデザイン展だろう。もっとも、美術館だからこそ、学芸員のキュレーションにより、アートがどのようにデザインに導入されたかを分析するような内容も見たかった。


ショップにもなっている、ユニクロのグラフィックTシャツブランド「UT」の国立新美術館バージョン


リニューアルプロジェクトを佐藤がプロデュースした《ふじようちえん》の模型とAR画面


佐藤可士和のアートワーク「FLOW」シリーズより

公式サイト: https://kashiwasato2020.com/

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佐藤可士和展|杉江あこ:artscapeレビュー(2021年02月15日号)

2021/03/29(月)(五十嵐太郎)

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西條茜「胎内茶会」

会期:2021/03/23~2021/03/31

京都市営地下鉄醍醐車庫[京都府]

元小学校をリノベーションした京都芸術センターでは、建物内にある茶室を活かし、美術作家、舞台芸術や伝統芸能のパフォーマー、研究者、建築家などが席主をつとめてもてなす「明倫茶会」を2000年より継続的に開催している。コロナ禍で開催ができないなか、芸術家支援事業の一環として、オンラインで参加する「光冠茶会(ころなちゃかい)」が2月~3月に開催された。参加者には、席主が選んだお茶とお菓子が事前に届き、各会場からのライブ配信を視聴しながらそれらを味わうというものだ。本評で取り上げるのは、そのうちのひとつ、陶芸家の西條茜による「胎内茶会」。ただし、オンライン茶会ではなく、配信会場である京都市営地下鉄の醍醐車庫で開催された個展のほうを取り上げる。

受付で検温や消毒を済ませ、コンクリートに囲まれた薄暗く狭い階段を降りていく。降りた先に広がるのは、地下の広大な空間だ。そこに配された西條の陶芸作品は、多彩な釉薬が重ねられた艶やかな表面と、ラッパ状の口や穴をいくつも持つ有機的な多孔体や管構造をしており、奇妙な金管楽器や原始的生物、人体の臓器のようにも見える。その展示空間に、鈍い金属音の残響が響き、巨大な空洞を満たしていく。この音はオンライン茶会でのパフォーマンスの記録映像から流れており、パフォーマーたちが西條の作品に実際に息を吹き込んで、楽器のように音を鳴らしている。それは、楽器の演奏であると同時に、文字通り呼気を吹き込んで生命を与える行為であり、作品を抱きかかえるように、あるいは作品の中に身を埋めるようにして息を吹き込むパフォーマーたちは、硬いはずの作品と境界が溶け合って一体化しているようにも見えてくる。



[撮影:守屋友樹]



[撮影:守屋友樹]



[撮影:守屋友樹]


都市の地下に穿たれた巨大な空洞である地下車庫の空間、内部が空洞である陶磁器、呼気が音となって排出される管楽器、人体もまた口から始まって肛門へと至る消化器官が体内を貫く一本の管である。そうした何重もの入れ子構造や転換の作用が体験の強度を支える本展において、鑑賞者は自身の身体への反省的な意識へと導かれる。そこに、「オンライン企画の付随物」ではなく、本展がリアルの場において開催・公開されたことの意義がある。

同時に、「生でパフォーマンスを体験したかった」と強く感じられた。たとえば、複数の穴や開口部を持つ作品では、どこから息を吹き込むのか、あるいは1人で息を吹き込む場合と2人以上で行なう場合では、音が違うのか。どのくらい音程的な変化が付けられるのか。作品の配置とポリフォニーの形成は、どのような関係を結びうるのか。造形と聴覚体験を組み合わせた「パフォーマンス作品」としての発展可能性も感じられる個展だった。

西條茜:https://akane-saijo.jimdofree.com

2021/03/30(火)(高嶋慈)

VOCA展2021 現代美術の展望—新しい平面の作家たち—

会期:2021/03/12~2021/03/30

上野の森美術館[東京都]

昨年の「VOCA展」はコロナ騒ぎのまっただなかに開かれ、最後の数日は閉館を余儀なくされ、直後に最初の緊急事態宣言が出された。今年は2度目の緊急事態宣言の最中に始まり、会期中に解除された。10年前は震災直後に初日を迎えたものの、翌日からしばらく閉館したという。弥生は厄月か? 来年はどうなっているやら。

そんな厄災もどこ吹く風、展覧会はおもしろかった。なにがおもしろいかって、まず表現メディアが多彩なこと。いちおう「平面」に限定しているが、油彩、日本画、写真に加え、ヴィデオ映像や壁面インスタレーションも珍しくなくなった。VOCA賞を受賞した尾花賢一の《上野山コスモロジー》も壁面インスタレーションというべき作品。さまざまな大きさのキャンバスの木枠や額縁を組み合わせ、その上に紙にインクで描いたマンガチックな絵を載せている。その絵は、ロダンの《考える人》や高村光雲の《老猿》などの美術品だったり、「モナリザ展」に詰めかける群衆だったり、寝場所を追われたホームレスだったり、落書きだらけの交通標識だったり、路上のゴミを漁るカラスだったり、いずれもいまこの作品が置かれている「上野」に関係する事象ばかり。形式と内容と場所が一致した稀有な例といえるだろう。

ほかに、半透明の布に祖父母や母の画像をプリントして重ねた鄭梨愛や、ブルーシートの下半分に10万3千個のBB弾を縫いつけた長田綾美の作品も目を引いた。作品の意味や内容はさておき、どちらも物理的に柔らかい布なのでタブローのように壁にかけられず、カーテンみたいに吊るしている。カーテンとしての絵画、あるいは絵画としてのカーテン。これは屏風絵や襖絵にも通じる発想で、美術を家具や建材として見直す視点を与えてくれる。襖絵といえば、岡本秀の《複数の真理とその二次的な利用》は、襖と画中画と遠近法を巧みに掛け合わせて位相空間を現出させている。また、支持体に透明アクリル板を使った者が2人いて、武田竜真はパースがついたような変形アクリル板に古典的な花柄を描き、薬師川千晴はアクリル板の両面にやはり花柄のようなタッチの絵具を載せている。透明板は両面使えるため絵画の可能性を広げてくれるかもしれない。でもなんでアクリル板に油彩なのか。アクリル板ならアクリル絵具のほうがふさわしいし、油彩なら不便でもガラス板を使うべきではないか、と思ってしまう。

真っ当(?)な絵画にも見るべき作品は多い。薄塗りの今井麗の《SUMMIT》は一見さわやかでじつは不気味な印象を残し、逆に絵具を何センチも盛り上げた水戸部七絵の2点はそれだけでうっとうしいほど存在感を発揮する。設楽陸、永畑智大、弓指寛治の3人はいずれもゴテゴテとにぎやかに画面を埋め、時代や世相を反映させて見応えがある。もう1人、ジンバブウェ生まれの吉國元の《来者たち》は、紙に色鉛筆で描いた33点セットだけど、不思議な求心力を備えていて注目した。

2021/03/30(火)(村田真)

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石松佳『針葉樹林』

発行所:思潮社

発行日:2020/11/30

2019年に第57回現代詩手帖賞を受賞した石松佳(1984-)による第一詩集。2021年3月には本書によって第71回H氏賞を受賞しており、第一詩集としては異例なことに、発売から半年を待たずして初版分は完売している。

じっさい本書を手にとってみると、ここに収められた作品が、多くの読者を魅了するのも大いに頷ける。ひとつひとつの詩が浮かび上がらせる情景は、よくある散文的フィクションの陳腐さからも、不必要に凝った現代詩の晦渋さからも、はるかに遠いものである。ひとことで言えば、ここにある言葉にはいっさい無理がない。本書を評するあれこれのなかに、「軽やかさ」や「まぶしさ」といった形容がしばしば見られる理由も、おそらくそのあたりに見いだされるだろう。

若干ながら、具体的な作品にも立ち入ってみたい。本書の栞で松下育男が書いているように、この詩集ではまず何よりも直喩のめざましさが際立っている。たとえば次のような一節。「ひとつの精神に対して、身体は買い物籠のように見透かされていたかったのだが。今日は茄子が安いよ、と言われて、手に取る」(「梨を四つに、」)。いささか無粋な説明を加えるなら、この一節の驚きは、前半で「身体」の喩えとして登場した「買い物籠」が、後半の買い物の情景でとたんに実体に転じている──ように読める──ことにある。前出の松下が評するように、ここには「喩えるものが喩えられるものと同じ濃さで現れてくる」、あるいは「喩えたものが喩えられたものの現実を、そのまま引き継いでしまう」という奇妙な世界が立ち現われている(松下育男「直喩と透明と小さな差異」本書栞)。

しかし、これらの作品においてもっとも特徴的なのは、むしろ先の一節に典型的に見られるような、ごく小さな接続語(「……のだが」)を介した不意の飛躍ではないだろうか。同じ「梨を四つに、」という作品は次のように始まっている──「梨を四つに、切る。今日、海のように背筋がうつくしいひとから廊下で会釈をされて、こころにも曲がり角があることを知った。そのひとの瞳には何か遠くの譜面を読むようなところがあり、小さな死などを気にしない清々しさを感じたために無数にある窓から射し込む陽光が昏睡を誘ったけど、それはわたしの燃え尽きそうな小説だった」(30頁)。

見てわかるように、後半に進むにつれて、ひとつひとつのセンテンスが長くなっている。ここには「会釈をされて、」「誘ったけど、」といった順接・逆接による情景のスイッチがあるが、その前後はおよそ論理的に繋がっているようには見えない。とはいえこれを一読してみたとき、この前後の流れがまったく連続性を欠いたものであるとも思えない。先に「ここにある言葉にはいっさい無理がない」と言ったのは、つまりそういうことである。これはおそらく、「背筋」「会釈」「曲がり角」、あるいは「死」「陽光」「燃え尽きそうな」といった言葉のふくらみが、論理とは異なるゆるやかな連続性を保っているからだろう。ただしそれは単語の羅列ではなく、あくまでも「……して、」「……けど、」のような接続語をともなった文章のかたちで連鎖するのだ。

いったんそのような目で眺めてみると、本書所収の詩篇のいたるところで「……して、」「……けど、」のような接続表現がやたらと目立つことに気づくだろう。これらは文法的な説明としては接続語ということになるのだろうが、同じく栞で須永紀子が指摘するように、これらの語彙を順接や逆接といった単一の機能に還元することは、実のところむずかしい(須永紀子「喩がひらく詩」本書栞)。この「……して、」「……けど、」のような比喩ならざる比喩、ごくわずかな一、二音節からなる接続語こそが、本書の見事な直喩の数々を、その根底において支えている当のものではないだろうか。

2021/04/05(月)(星野太)

松浦寿輝『わたしが行ったさびしい町』

発行所:新潮社

発行日:2021/02/25

本書のもとになったのは、2019年からおよそ1年半にわたって『新潮』に書き継がれたエセーである。そのタイトルに違わず、著者がこれまでに行った「さびしい町」をめぐって書かれた文章だが、その内容はよくある旅行記のたぐいとは一線を画している。

著者・松浦寿輝(1954-)のこれまでの仕事を多少なりとも知る読者であれば、本書に登場する地名にヨーロッパ以外の町が多数含まれていることに、いささか意外な心持ちがするだろう。パリ十五区、ヴィル=ダヴレー、シャトー=シノンといったフランスの地名も登場しないわけではないものの、むしろ本書の大半は、イポー(マレーシア)、ニャウンシュエ(ミャンマー)、長春(中国)、江華島(韓国)といったアジアの国々の地名で占められている。加えて、上野や中軽井沢といった著者の生活圏と結びついた地名もあれば、過去に作家・研究者として滞在した北米のタクナ、ドーチェスターといった地名もある。本書では、これら数々の「さびしい町」でのエピソードとともに、著者の公私にわたる記憶がさまざまに綴られる。「わたしが行ったさびしい町」というだけあって、ひとつひとつの町に、何か大きな特徴があるわけではない。むしろ本書の読みどころは、そうした町の名前に結びついた、著者その人の個人的な記憶にある。

いささか回りくどい言い方になるが、本書がありふれた旅行記のたぐいと一線を画している理由は、ここに書かれたことが、それぞれの「町」について何か有益なことを教えてくれるわけではないからだろう。先にも書いたように、本書において印象的なのは、それぞれの町を訪れたときの著者の心境や、その時々の人生の濃淡が、ちょっとした昔話のように現われては消えていくことだ。ものによっては半世紀以上前の記憶もあるのだから、それはいつも鮮明なものであるとはかぎらない。いや、たとえ比較的近い時期のものであっても、著者の記憶は全体的にどうも心もとない。

そのようなとき、本書では著者がウィキペディアなどで「調べてみた」事実がしばしば挟み込まれる。わざわざそんなことを書く必要はないではないか、と思うむきもあるかもしれない。だが、むしろ本書の叙述において肝要なのは、そうした「経験」と「情報」の隔たりであると言えるだろう。考えてみれば、ここに登場する「さびしい町」での記憶のほとんどは、iPhoneもGoogleマップもなかった時代のそれである。対して、いまや当地の情報を手繰り寄せようとすれば、さしたる労力もなく、いくらでもそれを手元に呼び出せる時代になった。しかし、往時の経験がGoogleマップの客観的な情報に還元されることはないし、ましてそのとき自分がいかなる心境にあったかという実感は、とうてい復元しえるものではない。のちに著者が詩集のタイトルに掲げるほどに想像力を掻き立てられたというソウルの「秘苑(ビウォン)」が、Googleの検索結果ではあえなく焼き肉屋のサイトに押しのけられてしまうという挿話(185頁)も、ユーモラスでありながらそこはかとない悲哀をさそう。

本書で幾度も吐露される「さびしい町」への偏愛は、この著者の熱心な読者にとってさほど意外なものではないだろう。また、「さびしさ」そのものをめぐる著者その人の考えも、後半にむかうにつれ次第に明らかになっていくにちがいない。とはいえ、そうした堅苦しいあれこれは措くとしても、本書はとにかくめっぽう面白い。これが凡百の旅行記と一線を画すということはすでに述べたとおりだが、「ナイアガラ・フォールズ」と「タクナ」の章で綴られるアメリカ横断旅行のエピソードや、「アガディール」の章での命からがらのモロッコ旅行など、読みどころを挙げていけばきりがない。ここに漂っているのは、やはり個人的な回想を多分に含んだ旧著『方法序説』(講談社、2006)などよりもはるかに優しい雰囲気であり、かつて著者の文体の特徴をなしていた厳しい断言は、ときおり括弧のなかで控えめに呟かれるのみである(14、23頁など)。そうした文体上の変化は、著者がこれをはっきり「余生」や「老境」の認識と結びつけていることと、おそらく無縁ではないだろう。

2021/04/05(月)(星野太)

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