artscapeレビュー
2021年08月01日号のレビュー/プレビュー
ほろびて『あるこくはく [extra track]』
会期:2021/06/19~2021/06/22
SCOOL[東京都]
5月の第11回せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリ、劇作家賞(細川洋平)、俳優賞(吉増裕士)を受賞したほろびての短編『あるこくはく』が、新作短編『[extra track]』を加えた二本立て公演『あるこくはく [extra track]』としてSCOOLで上演された。
第11回せんがわ劇場演劇コンクールは新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受け、劇場での一般観覧を中止。私は配信でコンクールの様子を視聴したが、解像度も十分とは言えない引きの固定カメラを通しての映像は大いに物足りないものだった。また、日本では短編演劇作品を上演する機会はきわめて限られており、このようなコンクールで上演された短編はしばしばその後、二度と日の目を見ないままに終わってしまう。グランプリ受賞作の生での観劇の機会を提供するという意味でも、短編作品の上演機会を創出するという意味でも、今回のほろびての公演には大きな意義があったと言えるだろう。
『あるこくはく』は愛海(鈴政ゲン)が恋人(藤代太一)を連れて実家の父(吉増)を訪ねる話。ところがその恋人というのは石で──。家の中に突如として線が出現する『ぼうだあ』、人を操るコントローラーが日常を狂わせていく『コンとロール』と同じく、ひとつの奇妙な設定を起点に物語は極めてシリアスな主題を展開していく。
定石通り、父は娘の結婚を認めようとしない。恋人が石であるということに最初は戸惑う父だったが、やがて怒り出し、「日本の憲法では石に人権は与えられてないし日本国民にもなってない」と言い放ったうえ「石蹴り」と称して石を蹴りつける。
藤代演ずる石は石の被りものをすることで石であることを表現しているが、しかし見た目はもちろん人間である(これはどうやら物語の設定上もそうらしい)。ゆえに、父の行動は暴力を伴なう直球の差別に見える。だが、恋人が石であるというあまりに奇妙な設定は、私にそれを差別だと断じることを僅かにためらわせる。石だったらそれはまあ蹴ってもよいのでは……?
ここに、人間が石を演じるという企みのねらいがあるだろう。「差別をしてはいけない」という当然のことをお題目として反復するだけではそれを演劇としてやる意味はない。実際に差別をしていてもそれを差別と認識していない人、「差別をしてはいけない」と思っている人は多くいるはずだ。むしろ、だからこそ差別はなくならない。おそらく、ただの石を蹴ることに抵抗を覚える人はほとんどいない。だがこれが虫だったら? 人形だったら? あるいは、舞台上で蹴られているのが本物の石だったら私はそこで起きていることを差別だと断じることができただろうか?
結局、父は付き合いを認めず、愛海も一度距離を置こうと言い出す。彼女は「先に進むための考え」として「石が人間になる」ことを提案しもするが、それが石にとってはアイデンティティの放棄を意味することには無頓着だ。ここにも無意識の差別があり、石は深く傷ついてしまう。一方、石が人間になるといういかにも荒唐無稽な提案は、ではどのようなアイデンティティならば自らの意思で変えることができるのかという問いを私に突きつける。
ところで、この物語には登場人物がもうひとりいる。三者の対面の場に同席しながら、しかしその存在を無視され続ける女(橋本つむぎ)は、実は愛海にしか見えていないらしい。終盤になってようやく、四葉と呼ばれるその女が愛海の(あるいは父の?)祖母の妹であること、関東大震災のときに避難した先で石を投げつけられて亡くなっていたことが明らかになる。「わたしはそこで、日本人じゃなかったみたいで」という言葉からは彼女が朝鮮人だと思われて(事実そうだった可能性もある)石を投げられたらしきことが推察される。その意識はなくとも、石もまたかつて差別に「加担」し、愛海の血縁の命を奪っていたのだ。
石と四葉が愛海を介して手を伸ばし合い、「はじめまして」と自己紹介を交わすところでこの作品は終わる。父の態度は過去の経緯に起因するものだろうか。だが、死者の姿をきちんと見ているのは父ではなく愛海の方だ。最後に手を伸ばし合う二人とその手探りを仲介する愛海の姿には、そこに未だ困難があるとしても、希望を見たい。
『[extra track]』は『あるこくはく』と同じ4人の俳優が順にモノローグを語っていく構成の作品。マチュピチュ、バンコク、阿佐ヶ谷と異なる場所について語る人物はそれぞれの場所で「石」を拾い、次の語り手となる俳優に手渡していく。語り手となる俳優は代わっていくが、そこで語られているのは連続した「私」であるようにも思われる。
最後のひとりは「残した記録を消すことを命じられ」「もうこのような仕事を続けられないために、命を終える」と語る。だが、それは「語り手とは違う、文字としての『私』」なのだと。2番目の語り手は、自殺した大学時代の同級生の葬式に出向きながら、線香も上げずに帰ってきてしまったと語っていた。3番目に語られる、阿佐ヶ谷で石を拾ったという「私」は「あるこくはく」の愛海のようでもある。世界を構成する無数の「私」は異なっていて、しかしどこかでつながっている。そのそれぞれが無意識に積み重ね手渡したイシが、投擲された石のごとくひとりの「私」の命を奪う。だが同じように、言葉に宿るイシは、俳優を介して観客である私にも届けられてもいる。財務省の決裁文書改竄に関与させられ自殺した近畿財務局の赤木俊夫氏が遺した「赤木ファイル」が開示され遺族のもとに届けられたのはこの公演の最終日、2021年6月22日のことだった。
10月27日(水)からはほろびての新作『ポロポロ、に(仮)』がBUoYで、8月5日からは細川が戯曲を書き下ろしたさいたまネクスト・シアター『雨花のけもの』が彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演される。
ほろびて:https://horobite.com/
第11回せんがわ劇場コンクール:https://www.chofu-culture-community.org/events/archives/456
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2021/06/22(火)(山﨑健太)
連続企画「都築響一の眼」vol.4/「portraits 見出された工藤正市」
会期:2021/06/09~2021/06/26
Kiyoyuki Kuwahara Accounting Gallery[東京都]
工藤正市(1929-2014)は青森市出身の写真家。東奥日報社に勤めながら、1950年代に月刊『カメラ』などの写真雑誌に作品を投稿し、1953年の『カメラ』月例第一部(大型印画)で年度賞を受賞するなどして頭角を現わした。だが、次第に仕事との両立が難しくなり、1960年代以降は写真作品をほとんど発表しなくなる。没後に、遺族が押し入れに眠っていた大量のネガを発見し、スキャンした画像をInstagramにアップしたことをきっかけに、そのクオリティの高い写真群に注目が集まるようになった。今回のKiyoyuki Kuwabara Accounting Galleryでの展示は都築響一の企画構成によるもので、彼の代表作27点が出品されていた。
経歴を見てもわかるように、工藤の写真の仕事は土門拳が1955年から『カメラ』の月例写真欄を舞台に展開した「リアリズム写真運動」の一環と見ることができる。だが、のちに「乞食写真」と揶揄されたような、悲惨な社会的現実を告発する問題意識はあまり感じられない。むしろ、青森の風土に根差した人々の暮らし、日常の情景を、同じ目の高さで淡々と切り取っていく眼差しが印象深い。「リアリズム写真運動」が、全国のアマチュア写真家たちに大きな刺激をもたらし、土門拳が唱えた「絶対非演出の絶対スナップ」というテーゼが、豊かな広がりをもつ写真に結びついていったことを示す雄弁な作例といえるだろう。
Instagramをきっかけに、彼の写真の存在が広く知られるようになり、9月に写真集『青森 AOMORI 1950-1962 工藤正市写真集』(みすず書房)も刊行予定というのは、とても喜ばしいことだ。工藤だけではなく、まだ埋れたままになっている写真家たちの仕事も多いのではないだろうか。「押し入れ」の中には、宝物が眠っているかもしれない。
2021/06/23(水)(飯沢耕太郎)
原啓義「まちのねにすむ」
会期:2021/06/22~2021/07/05
ニコンサロン[東京都]
原啓義は銀座ニコンサロンで2017年、2019年と個展を開催している。当初は「都会のネズミ」というテーマの面白さ、ネズミたちの意外な可愛らしさが目立っていたのだが、次第に彼らを取り巻く環境とのかかわりあいが大きくクローズアップされてきた。今回の3回目の展示では、さらに視点が深まり、単純に「動物写真」の範疇にはおさまらない写真が増えてきている。シルエットで捉えられた走るネズミ、彼らの天敵のカラスやトビ、店のシャッターに貼られた「毒エサ設置」のポスターなどネズミが写っていない光景もある。また、街を行く人々(特に女性)との絡みの場面を撮影した写真を見ると、スナップショットとしての精度が上がってきていることがわかる。もはやこのテーマに関しては、他の追随を許さないレベルに達しているのではないだろうか。
「まちのねにすむ」という今回の展覧会のタイトルも、含蓄が深い。原のステートメントによると、「ネズミ」というのは、元々「根の国に栖むもの」という意味で名づけられたのだそうだ。「根の国」とは、いうまでもなく「死者たちの国」のことだ。つまり、ネズミたちは死者たちの世界からこちら側に越境してきた生きものということになる。特に近代以降の都市において、「根の国」の出入り口はあまり人目につかないように隔離、隠蔽されていることが多い。原は、ネズミたちの存在を通して、都市空間における生と死の境界の領域に探りを入れようとしているのだ。
原は2020年に、福音館書店の「たくさんのふしぎ」シリーズの一冊として『街のネズミ』を刊行した。だが、彼の仕事の厚みを考えると、そろそろより大きな枠組みで写真集をまとめる時期が来ていると思う。間違いなく、都市/自然、生/死を視野におさめた、奥行きのあるいい写真集になるはずだ。
2021/06/29(火)(飯沢耕太郎)
三菱創業150周年記念 三菱の至宝展
会期:2021/06/30~2021/09/12
三菱一号館美術館[東京都]
三菱創業150年、一号館美術館開館10年を記念した展覧会。三菱初代社長の岩崎彌太郎、その弟の彌之助、彌太郎の息子の久彌、彌之助の息子の小彌太と、兄弟で社長リレーを繰り返していた岩崎家4代にわたるコレクションを披露している。出品は主に、彌之助の創設した静嘉堂と久彌が設立した東洋文庫からで、そのコレクションは美術に特化することなく文化・学術全般におよび、フィランソロピー精神に貫かれていることがわかる。だからまあ、美術館で鑑賞してもあまり楽しいものではない。茶道具、刀剣、漢籍などは興味ないし。
もちろん、そそられるコレクションもいくつかある。まずなんといっても、黒田清輝の《裸体婦人像》だ。黒田がちょうど120年前の1900-01年に再渡仏したときに描かれたヌード画で、帰国後、白馬会に出品したところワイセツと見なされ、警察の指示により下半身を布で覆われてしまった。いわゆる「腰巻事件」ですね。しかし下半身にはワレメはおろか毛の1本さえ描かれていない、いわば空白地帯。これならふっくら隆起したオッパイのほうがそそるだろうに、なんでなにもない部分を隠さなければならなかったのか、いまとなっては理解に苦しむ。でもなんでそんな問題作が岩崎家に入ったんだろうね。そそられたのかな。
ちなみに、黒田の師であるラファエル・コランの《弾手》も所蔵していたようだが、モノクロ写真しか残っていないところを見ると震災か戦災で焼失したのだろうか。また、パリで黒田に画家になることを勧めた山本芳翠の怪作《十二支》は、彌之助の依頼で制作され、三菱重工が所蔵しているはずだが、残念ながら今回は出ていない。この連作は見る機会がきわめて少なく、10年前の三菱一号館美術館の開館記念第2弾「三菱が夢見た美術館」展に一部が出たそうだが、ぼくは見逃してしまった。ともあれ、油絵は今回《裸体婦人像》と、原撫松の《岩崎彌之助像》しか出ていない。
もうひとつ興味をそそられたのは西洋の古書だ。特に15世紀後半のインキュナブラ(初期印刷本)であるマルコ・ポーロの『東方見聞録』や、14世紀のコーランの写本、17世紀の重厚な金具付きの聖書などは落涙ものだし、シーボルトの『日本動物誌』やグールドの『アジアの鳥類』といった博物誌は垂涎もの。いずれもアジアに関係しており、東洋文庫の所蔵だ。印刷関連でいうと、日本最古の印刷物である《陀羅尼》(仏教の呪文が書かれている)と、それを収めるカプセルの《百万塔》も興味深い。これは静嘉堂の所蔵。
そして最後に、これひとつだけで一部屋とっていた《曜変天目》にも触れなければならない。これはつい先日、静嘉堂文庫美術館最後の展覧会「旅立ちの美術」で初めてお目にかかったばかり。地味な作品の多いコレクションのなかでは見た目にも異彩を放つ、人気ナンバーワンの国宝だ。おもしろいのは展示形態。ふつう茶碗は側面を見せるものだが、これは内側を見せるため、四方から見下ろせるように低い位置に置かれている。確かに見るべきものは内側のグロテスクな模様だけで、外側は黒っぽくてなんの変哲もない。周囲をめぐりながら思ったのは、鑑賞するのに最適な角度というのはあるのか、ということ。器内の模様さえ見られればどこから見ても大して変わらないように思うのだが、カタログに載っている4点の写真を見るとすべて同じ角度というか、同じ部分が写っている。うち1点は茶碗を横倒しにして内部を撮っているが、肝心の部分が天に来るように置かれているのだ。これが《曜変天目》をもっとも美しく見るための角度ということだろう。どうでもいいけど、気になるのだった。
2021/06/29(火)(村田真)
春日昌昭作品展「東京・1964年」
会期:2021/06/29~2021/08/01
JCIIフォトサロン[東京都]
東京オリンピック開催の直前にもかかわらず、新型コロナウィルス感染症の影に覆われていて、まったく盛り上がりを欠いていることは否定できない。それにつけても、前回の1964年の東京オリンピックが、戦後の日本においていかに大きな意味をもつイベントだったかがあらためて浮かび上がってくる。子供の頃の記憶を辿っても、日本中が期待感にあふれ、祝祭ムードに沸き立っていた。今回、JCIIフォトサロンで開催された春日昌昭展には、まさにその1964年に撮影された東京の街と人のスナップ写真が展示されていた。
春日は当時、東京綜合写真専門学校に在学中で、卒業制作のための写真を撮りためていた。彼がどんな姿勢で撮影にあたっていたかは、本展にも掲げられていた「写真と自分」(1966)と題するテキストによくあらわれている。
「ある対象にカメラを向けること自体、自分の総合された眼であると同時に、その写し取られたものは、自分の考えを越えてそのもの自体としての事実でもある。」
「僕の写したということ以上に、写っている事実が大切である写真を作りたいと考えている。」
このような、「自分」をいったん括弧に入れ、やや引き気味に「写っている事実」を浮かび上がらせようとする態度は、この時期に真剣に写真に向き合っていた若い写真家たちに共通する傾向でもあった。それはやがて「コンポラ写真」と呼ばれるようになっていく。
だが、春日は「時代の子」であっただけでなく、街や人に向けた独特の眼差しを育て上げようとしていた。今回の出品作を見ると、オリンピックを迎えて大きく変貌しようという街並みの細部を、クールに、几帳面にコレクションしつつ、それらに愛情のこもった視線を向けている彼の姿が浮かび上がってくる。批評性と肯定性とが絡み合う写真群は、いま見てもとても魅力的だ。もしコロナ禍がなければ、もっと話題を集めたはずなのが残念だが、逆に春日の写真に内在する力を再考するよい機会にもなった。
2021/06/30(水)(飯沢耕太郎)