artscapeレビュー

2021年08月01日号のレビュー/プレビュー

三野新『クバへ/クバから』

発行所:三野新・いぬのせなか座写真/演劇プロジェクト制作実行委員会

発行日:2021/06/30

三野新(1987-、福岡生まれ)は、演劇と写真を結びつけるというユニークな活動を展開してきた「写真家」である。今回の新作『クバへ/クバから』では、小説、詩歌、デザインなど、多彩な方向性を持つ創作集団「いぬのせなか座」と組んで、「写真集制作」そのものを演劇として上演することを試みた。2018年8月からスタートしたプロジェクトは、途中、何回かの座談会、写真展などの開催を経て、最終的に「いぬのせなか座叢書4」として刊行された写真集『クバへ/クバから』にまとまった。

そのようにして形をとった「写真集」は、錯綜する写真、テキスト、イラストの複合体として編み上げられている。中心的なテーマ(被写体)は、沖縄をはじめとする南方地域に自生する植物クバ(ビロウ)である。クバは、日本の古代においても沖縄の創世神話においても神木=聖なる植物として崇められてきた。三野はそのクバの植生分布の北限が彼の生まれた福岡県であることを知り、自らの記憶や体験と、沖縄(奄美諸島を含む)の歴史文化とを重ね合わせつつ探求する、何度かの旅を企図する。その過程で「沖縄を、いま、東京から撮影する」ことの意味が、写真やテキストを通じて問い返されていくことになる。

「写真集制作」を通じて、沖縄をめぐる使い古された言説、イメージを「新たな配置、名付け、撮影行為のなかで攪拌させていく」という意図は、山本浩貴+h(いぬのせなか座)による装丁・レイアウトを含めてとてもうまく実現していた。ただ、演劇化のプロセスを経ることで、三野の「クバ」に寄せる初発的な動機もまた「攪拌」してしまったことも否定できない。創作行為のテンションとリアリティを保ちつつ、この方法論をさらにさまざまなかたちで展開することはできないのだろうか。『クバへ/クバから』の上演を、これで終わらせるのはややもったいないと思う。


関連記事

カタログ&ブックス | 2021年7月15日号[近刊編]:artscapeレビュー(2021年07月15日号)

2021/07/21(水)(飯沢耕太郎)

オリンピック・ランゲージ:デザインでみるオリンピック

会期:2021/07/20~2021/08/28

ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]

2020年東京オリンピック競技大会が開幕した。1年の延期を経て、コロナ禍のなか開かれた今大会は言うまでもなく苦難の道のりだったが、クリエーションにおいても、正直、お粗末な結果だったと言わざるを得ない。振り返れば6年前、ザハ・ハディドによる国立競技場の設計案が白紙撤回され、佐野研二郎がデザインしたエンブレムが盗用疑惑をかけられ使用中止になった。あのときからつまずきが始まったように思うのだが、本展を観て、その思いは確たるものへと変わった。今大会のクリエーションに圧倒的に足りなかったもの、それはアートディレクションである。

本展では夏冬を合わせた過去の大会を総ざらいし、特にデザイン面で画期的だった五つの大会に焦点を絞り、そのクリエーションを紹介している。具体的にはエンブレムやポスター、ピクトグラム、聖火トーチ、メダルなどで、通常、それらはひとつのVI(ビジュアルアイデンティティー)にまとめ上げなければならない。しかも開催都市や国の文化、精神、歴史に根ざした「大会ルック(大会の個性を表現・演出する特徴的なデザイン装飾)」であるべきなのだ。この五つの大会のなかに1964年東京大会が加わっていたことは誇るべきことだが、なおさら1964年に優れたクリエーションができて、2020年になぜできなかったのかという思いに駆られる。本来なら佐野研二郎は、1964年東京大会で力強いエンブレムとポスターをデザインした亀倉雄策になるべき人物だったのに、そうはならなかった。また同大会でデザイン専門委員会委員長を務めた勝見勝のような人物も、今大会にはいなかった。それゆえひとつのVIにまとまらず、「大会ルック」がまったく見えない大会となってしまったのだ。

さて、五つの大会のなかで、私が特に注目したのは1968年メキシコシティ大会である。組織委員会委員長の功績により、メキシコの先住民ウイチョル族がつくるカラフルな毛糸の民芸品に着想を得て、同心円状の波紋を採用したオプ・アートのようなエンブレムを完成させた。そのビジュアルがポスターにも、聖火トーチにも反映されていた。この国の文化、精神、歴史に根ざしながら、モダンデザインへと見事に洗練させた点が評価に値する。今後もわが国では2025年日本国際博覧会など大きな国際イベントが待ち受ける。どうかクリエーションの失敗を繰り返さないでほしいと願うばかりだ。


1968年メキシコシティ大会、公式ポスター © International Olympic Committee – All rights reserved


1964年東京大会、公式ポスター © International Olympic Committee – All rights reserved



公式サイト:https://www.dnpfcp.jp/CGI/gallery/schedule/detail.cgi?l=1&t=1&seq=00000778

2021/07/21(水)(杉江あこ)

artscapeレビュー /relation/e_00057590.json s 10170422

いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』は東京芸術劇場が「若手の才能を紹介」するショーケースの8年ぶりの第三弾。「演劇にあらわれた時代の潮流をすくい取」ることもねらいだというこの企画で今回取り上げられたのが、企画コーディネーターも務める演劇ジャーナリスト・徳永京子の命名による「弱いい派」である。「弱いい派」という言葉にはかなり微妙なニュアンスが込められており、それをネーミングのそのままに「弱さの肯定」とだけまとめてしまうと誤解を招きかねないのだが、徳永は「諦念や絶望の手前で、冷静に、飄々と、あるいは自覚なき誇りを持って、とりあえず生きていく態度」や「登場人物の言葉を借りた糾弾や啓蒙ではなく、小さいけれども聴くべき当事者の声達」を描くつくり手たちを「弱いい派」と呼んでいる(いずれも当日パンフレットからの引用)。今回は「弱いい派」からいいへんじ、ウンゲツィーファ、コトリ会議の三組がそれぞれ40分程度の短編を上演した。


いいへんじは劇作・演出を担当する中島梓織と俳優の松浦みるを中心に2017年に旗揚げされた演劇団体。『薬をもらいにいく薬(序章)』(作・演出:中島梓織)は今後上演が予定されている長編『薬をもらいにいく薬』の冒頭部分となる。今回上演された3作品のなかでは「弱いい派」というキーワードをもっともストレートに引き受けた作品だと言えるかもしれない。

ある日、ハヤマ(タナカエミ)は出かけようとして薬を切らしてしまっていることに気づく。その日は同居している恋人・マサアキ(小見朋生)の誕生日、かつ出張から帰ってくる日で、ハヤマは空港に向かおうとしたところだった。パニック障害と思われる持病のある彼女が出かけるためにはお守り代わりの薬が必要で、しかし薬をもらいに病院に行くにもそのための薬がない。諦めてタオルケットにくるまっているところに、バイト先の同僚・ワタナベ(遠藤雄斗)が、バイトを長く休んでいるハヤマに店長の指示でシフト用紙を届けに来る。ハヤマはワタナベに事情を説明し、一緒に空港に向かってくれるよう頼む。ワタナベもそれを了解するが、ハヤマはそれでも家を出られない。そんなハヤマにワタナベは、家から空港までの道のりを「一回やってみましょう」とシミュレーションしてみることを提案するのだった。


[撮影:引地信彦]


ハヤマに接するワタナベが持つある種の軽さ、遠藤の飄々とした演技には、「弱さ」に向き合おうとして強ばる心をほぐしてくれるようなしなやかさを感じた。ハヤマと同じ重さや深刻さを引き受けるのでなく、かと言って突き放すのでもなく、仕方ないなと言わんばかりのルーズさで他人の困りごとに付き合うこと。実際のところ、シフト用紙を届けにきたワタナベは当初、「でもこれ、書いたらどうしたらいいんだろう」と言いつつも「まいいや、渡すとこまでなんで、俺の仕事」と帰ろうとしていたのであった。

後半では、ワタナベもまた、同性パートナーのソウタ(マサアキと同じく小見が演じる)と一緒に住む家がなかなか見つからず、ふたりの仲がぎくしゃくしはじめているという自らの悩みを吐露する。ハヤマに対するワタナベの態度は彼の性格に起因するものだと思われるが、一方で、後半の展開を踏まえると、彼がゲイという「社会的弱者」であるがゆえに、あるいはパートナーであるソウタもまた心の病を抱えているがゆえにハヤマにも優しいのだという解釈も成り立つかもしれない。だが、それでは優しさは弱さの共感のなかに閉じてしまう。その意味で、後半の展開は前半で示されるワタナベのようなあり方の可能性を減じているようにも思われた。


[撮影:引地信彦]


今回は長編の冒頭部分のみの上演という事情もあってか、基本的にはタイトルが示す状況とそこからの一歩目が示されるに留まった印象だ。大事なことのほとんどが言葉で説明されてしまっていたという点でも、今回の上演はあまりに素朴だったと言わざるを得ない。ここから長編としてどのように展開していくのだろうか。作中には「Cross Voice Tokyo」というラジオ番組(声:松浦みる、野木青依)がたびたび挟み込まれる。番組のキャッチコピーは「東京に住む人々の、声と声とが交差する場所」。ハヤマとワタナベのパートナーがいずれも小見というひとりの俳優によって演じられていることも合わせて考えると、「交差」というのはこの作品のひとつのポイントになっていくのかもしれない。自分の悩みに溺れてしまうのではなく、他者と言葉を交わしてみること。『薬をもらいにいく薬』完全版は『器』との二本立てでの上演が来年に予定されている。


いいへんじ:https://ii-hen-ji.amebaownd.com/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


関連レビュー

ウンゲツィーファ『Uber Boyz』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
コトリ会議『おみかんの明かり』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
いいへんじ『夏眠』/『過眠』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)

2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

ウンゲツィーファ『Uber Boyz』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』、ショーケース公演でいいへんじに続いて登場したのはウンゲツィーファ。こちらは一見したところ、「弱いい派」という呼称とはあまり関係ないようにも思える作品の上演となった。

ウンゲツィーファは劇作家・本橋龍を中心に活動する「実体のない集まり」。ウンゲツィーファの公演では本橋が脚本・演出を担っているが、今回はそれぞれが活動する劇団で作・演出を担うゆうめいの池田亮、盛夏火の金内健樹、コンプソンズの金子鈴幸、スペースノットブランクの中澤陽にウンゲツィーファ常連で青年団に所属する俳優・黒澤多生を加え、全員が作・演出・出演を担う形で創作した「Uber Boyz」を上演した。音楽にはヌトミック/東京塩麹の額田大志を迎え、差しづめ小劇場アベンジャーズといった趣だ。本橋は『動く物』で平成29年度北海道戯曲賞大賞を受賞するなど、劇作家として高く評価されているが、今回はこれまでのウンゲツィーファ作品と共通する手触りもありつつ、集団創作のエネルギーが全面に出た作品となった。


[撮影:引地信彦]


「多様性の発展の果てに、地球平面説が立証された」「今から少し先の未来」、『マッドマックス』や『北斗の拳』を思わせる荒廃した世界を舞台に、「ポッド」からの指示で荷物を運搬して報酬を得る配達員と「バッドボーイズ」と呼ばれるギャングチーム(?)がときに争いときに協力しながら「生物荷物括弧ライフバゲッジ」を目的地に届ける(?)までの顛末が描かれる。

コロナ禍においてある種の「エッセンシャルワーカー」としてその存在が改めて注目を集めたウーバーイーツの配達員には、ほかの多くの非正規雇用労働と同じく正負の両面が存在している。プラスは働き手の都合で働けるという点。一方で、労働者に十分な権利が保障されていない点はプラスを打ち消してあまりあるマイナスである。資本による搾取のシステムの末端に配達員は置かれている。

『Uber Boyz』で描かれているのはクエストをクリアして報酬を得ることでゲーム的な現実をタフに生きる者たちの姿だ。システムに組み込まれた彼らは「強くなければ生きていけない」。強くあるしかないという「弱さ」には、舞台上に展開される男子校的ホモソーシャルな悪ふざけとも響き合うものがある。


[撮影:引地信彦]


率直に言って、観客としての私はところどころで大いに笑いつつも、上演全体を楽しむことはできなかった。それは舞台上の彼らの、本人たちは至極楽しそうな男子校の文化祭的なノリとネタについていけなかったからである。冒頭から『ONE PIECE』のルフィの格好をした金子が関西弁でコナンを名乗り(『名探偵コナン』には服部平次という関西弁の探偵が登場する)、物語の展開には『新世紀エヴァンゲリオン』のエッセンスが配置されているなど、この作品には有名無名さまざまな「サブカルチャー」からの引用やパロディが無数に盛り込まれている。おそらく、これらの引用・パロディにほとんど意味はない。だが、私にもすべての引用・パロディが理解できたわけではなく、それらを無意味な馬鹿騒ぎだと切って捨てることもできない。そもそも、それが無意味だったとして何が悪いのか。無意味で日々をやり過ごせるならば、そこには十分な価値があるのではないか。

引用やパロディの内容に意味はないかもしれないが、その対象が権威ある古典や文学作品でないことは重要だ。「哲学はマジゲロだからやめろ」という彼らの哲学の教科書は少年ジャンプやコミックガンガンで、それさえも「クソ分厚い難解な書物」と呼ばれてしまう。そのようにして構成されている彼らの世界は同じ「教養」を共有するものにしか理解し得ない。ギリシャ悲劇やシェイクスピアとジャンプやガンガンのどちらが「高尚」であるかという問題ではない。だが、ギリシャ悲劇やシェイクスピアを「教養」とする層のほとんどは、生活に一定以上の余裕があるという厳然たる事実もある。冒頭で示される「地球平面説」が示唆するように、私たちに見えているのはそれぞれ異なる世界であり、そこには無数の断絶がある。

2800円のチケット代を払って客席に座る私と、ウーバーイーツで生計を立てながら舞台に立つ彼ら。小劇場演劇の舞台と客席のあいだにも搾取の構造は存在している。だがそれでも、「安全」のためにウーバーイーツを利用する人々も、演劇を観るためには劇場に足を運ぶしかない。「絶対に踏み込んではいけない2m」の「不可侵領域」、「アースの狭間」をあいだに挟みながら、私たちは同じ劇場にいる。

憐れみや同情を誘い感動で観客を気持ちよくする見せかけの断絶ではなく、舞台と客席の、そして客席と客席のあいだにある本物の断絶を、見えている世界の違いをあらわにすること。スカムでジャンクでドイヒーな世界を東京芸術劇場という公の劇場の企画で上演すること。それは紛れもなく「弱いい派」という呼称への批評的応答と言えるだろう。


ウンゲツィーファ:https://ungeziefer.site/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


関連レビュー

いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
コトリ会議『おみかんの明かり』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
ウンゲツィーファ『一角の角(すみ)』| 山﨑健太:artscapeレビュー(2020年08月01日号)
ウンゲツィーファ『ハウスダストピア』| 山﨑健太:artscapeレビュー(2020年07月15日号)
映画美学校アクターズ・コース『シティキラー』| 山﨑健太:artscapeレビュー(2020年04月15日号)
ウンゲツィーファ『転職生』| 山﨑健太:artscapeレビュー(2018年04月01日号)

2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

コトリ会議『おみかんの明かり』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』、ショーケースのラストを飾ったのはコトリ会議。2007年に結成され関西で活動してきたコトリ会議は2016年にこまばアゴラ劇場で上演されたショーケース公演『対ゲキだヨ!全員集合』をきっかけに関東でも注目を集めて以降、毎年のように東京公演も実施している。作・演出の山本正典は2018年に第9回せんがわ劇場演劇コンクールで上演された『チラ美のスカート』で劇作家賞を受賞し、2020年には『セミの空の空』で第27回OMS戯曲賞大賞を受賞した。

『おみかんの明かり』は「ざくざく」と足を踏みしめる音(を口に出す女の声)ではじまる。懐中電灯を手に歩くその人物の姿は舞台奥の暗がりにあってよく見えない。故障のせいか電池切れか、ふいに懐中電灯の光は消えてしまい、それでも彼女は暗闇の中を必死に進む。やがて水辺に小さなオレンジの明かりを見つけた彼女は手を伸ばし「これが おみかんの明かり」とつぶやくのだった。


[撮影:引地信彦]


どうやら「おみかんの明かり」には死者を呼び出す力があるらしい。三途の川にも見える湖の向こう側に人影が浮かび上がる。水面を挟んで「こういっちゃん」「かなえさん」と呼び合うふたり。かなえ(花屋敷鴨)は「こっちへ来て」と呼びかけるが孝一(原竹志)は「ごめんだけれどそっちへ行けないんだ」と答えるばかり。泳げないかなえが覚悟を決めて湖に一歩足を踏み入れた瞬間、ホイッスルの音とともに銀河警察官・はさみ(三ヶ日晩)が現われる。はさみは「この湖に入るのは宇宙条例に反する」「死んだ人の顔を見るだなんて」「そんな破廉恥は禁止されてるよ」「生きてる人と死んでる人が触れてしまうと 地球が削れるかもしれないくらい 爆発するんだよ」と二人を諌めるが、かなえははさみの光線銃を奪い孝一とともに逃亡してしまう。

水辺に取り残されたはさみ。と、湖の向こうに人影が。それは帝国軍の任務で命を落としたカレンダー(まえかつと)だった。やがてはさみも堪えきれず、湖に足を踏み入れる。制止しようとするカレンダーと触れようとするはさみ。二人がまさに触れ合おうとしたその瞬間、遠く響く爆発音と降ってくる女の頭部。やがてひとり戻ってきた孝一にはさみは「ねえ死んだ地球人 この山を下りた方がいいわよ 私たちもうすぐ爆発するから」と告げるのだった。はさみとカレンダーは手を伸ばし合い、そして暗闇が訪れる。やがて再び「ざくざく」と足音が響き、「おみかんの明かり」へと手を伸ばす者の姿が──。


[撮影:引地信彦]


舞台いっぱいに広がる青い水面と周囲に広がる暗がり、そしてぽつんと灯る「おみかんの明かり」は、広い宇宙で生きている/死んでいる者たちの寄る辺なさを効果的に表わしていた。一方で、私が見た初日には空間に対する声の大きさ、あるいは出し方が十分にチューニングしきれておらず、コトリ会議の魅力が十分に発揮されていないと感じる場面もあった。

コトリ会議の作品ではしばしば、何気ない呼びかけや問いかけ、特に大きな意味を持つとは思えない単語が複数の人物のあいだで、あるいはひとりの人物によって繰り返し発せられる。繰り返しのなかで言葉がその響きを微妙に変えていく繊細さはコトリ会議の持ち味のひとつだが、その響きが聴き取られるためには発する側にも聴く側にもそれなりのチューニングが必要となってくる。悪ふざけめいたウンゲツィーファ『Uber Boyz』を観た後だったこともあり、私の側のチューニングも十分ではなかったのだろうとは思われるものの、コトリ会議の作品としては珍しく、繰り返しの声がうるさく感じられる瞬間があったのは残念だった。

今回の作品では言葉だけでなく劇中の出来事も繰り返され、そのことが人の弱さを際立たせる。地球人の犯した過ちを繰り返してしまう銀河警察のふたり。取り締まる側にも取り締まられる側と同じ弱さがある。だが、それは果たして本当に弱さだろうか。爆発してしまうとわかっていても手を伸ばしてしまうのは、むしろ思いの強さだろう。それを「弱さ」として取り締まらなければならないなら、不条理なのは世界の方ではないだろうか。


掲げられたタイトルゆえにショーケースを見ながら、そして見たあとも「弱さ」について色々なことを考えた。率直に言えば、私自身は「弱いい派」という括り、あるいはそう名指すことが引き起こす効果にはやや懐疑的である。「弱さの肯定」はその当事者が自分の存在を肯定するための、あるいは、弱さを否定する社会を変えていくための第一段階の処方としては必要であり有効なものだろう。だが、そうして肯定された弱さは容易に固定されてしまう。

徳永は「“その後”に出現した『弱いい派』について」(『現代日本演劇のダイナミズム』所収)で「『弱いい派』の特徴は、弱い立場の人々を当事者性で描くのではなく、当事者から見た社会、世界が描かれること」だと述べている。ここで「当事者性」は「被災者、被害者、弱者の置かれた状況や心情を想像する」ことを指す言葉として使われており、「当事者は、当事者性を取る人より、笑うのも泣くのも自由だ」と続く。だがこれは、当事者であるということが簡単に最強のカード、無敵の切り札へと裏返ってしまうということでもある。

そもそも、弱さというのは本当にその「当事者」に固定された性質なのだろうか。ある性質があったとき、それを「弱さ」と規定するのは周囲の環境であり社会のあり方である。もう一度言おう。弱さを肯定することはたしかに必要かもしれない。だが、自分が「弱さ」の側にいないとき(いやもちろんそのようなジャッジにこそ罠が潜んではいるのだが)、すでに「弱いい派」に出会ってしまった私が考えるべきことは、言うまでもなくその先なのだ。


コトリ会議:http://kotorikaigi.com/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 —かそけき声を聴くために—』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


関連レビュー

いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
ウンゲツィーファ『Uber Boyz』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
コトリ会議『しずかミラクル』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年07月01日号)

2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

2021年08月01日号の
artscapeレビュー