artscapeレビュー

2021年08月01日号のレビュー/プレビュー

脇坂真弥『人間の生のありえなさ──〈私〉という偶然をめぐる哲学』

発行所:青土社

発行日:2021/04/30

「こんなことはありえない」──おそらく誰もが、大なり小なりそうした感覚に襲われたことがあるはずだ。それは、いま目の前にある現実がにわかには受け入れがたい、こんなことはとうてい信じられない、という「非現実の感覚」(229頁)である。もちろん「こんなことはありえない」という言葉は、思いもよらぬ幸運に恵まれた人の口から放たれることもあろう。しかし概して言えば、この「ありえない」という感覚、すなわち「なぜ──ほかの誰でもなく──それは〈私〉に到来しなければならなかったのか」という問いをもっとも強く誘発するのは、いわゆる「不幸」の経験をおいてほかにない。

本書が問題とするのは、この何とも言葉にしがたい感覚である。「人間の生は ありえない ・・・・・ 。これを感じさせるのは不幸だけだ」──本書のタイトルは、直接的にはこのシモーヌ・ヴェイユの言葉に由来する。1935年、当時25歳だったヴェイユは、それまで勤めていた高校での哲学教師の仕事を休職し、未熟練工として8ヶ月間、金属加工の仕事に従事した。この経験がヴェイユにもたらした衝撃の大きさは、のちの書簡やテクストからも存分にうかがい知ることができる。なかでも、工場での経験を通じて「人間が物になる」という「不幸」ないし「奴隷状態」に打ちひしがれたヴェイユが残したのが、この「人間の生はありえない」という言葉であった(229頁)。

ヴェイユのこうした言葉を、たんなる個人の感傷として片づけるのはたやすい。事実、ヴェイユに対して周囲から寄せられた反応は、おおよそこの類いのものであったようだ。しかし本書の著者は、これをたんなるナイーヴな感慨として切り捨てることも、そこから人間の「不幸」一般をめぐる理論を打ち立てることもしない。田中美津やシモーヌ・ヴェイユ、あるいはエンハンスメントの倫理やアルコール依存症からの回復を導きとして本書が執拗に問いかけるのは、ある極限的な経験のなかで到来する「なぜ〈私〉なのか」という問いである。

巻末の「初出一覧」を見るとわかるように、本書は著者の過去20年以上におよぶ息の長い思索がもとになっている(284-285頁)。そこで論じられるテーマは、時代ごとに一見ばらばらなようでいて、「なぜ〈私〉なのか」という問いにおいて驚くべき一貫性をみせている。くわえて強調しておきたいのが、ごく整然とした理路のもとに書かれているにもかかわらず、本書が問題をただ抽象的な次元で論じる哲学的「偶然」論とはまったく異なる手触りをもっていることだ。そもそも、この「なぜ〈私〉なのか」という──すぐれて実存的な──問いは、それを説得的な「理論」に仕立てあげようとすればするほど、それぞれに固有の現実から乖離していくことをまぬがれない。本書はそのことにきわめて自覚的であり、各章の端々では、ある個別的な生の苦闘をどこまで普遍的な理論へと開くことが可能か、という逡巡自体が問題とされている。ここには、どうあっても別様ではありえなかった「生」の光輝と汚辱がたしかに書き留められている。これだけでも十分に驚くべきことである。しかしなおかつ著者は、その特殊性をいたずらに神秘化して押し黙らせるのではなく、その繊細な思索によって、個々の特殊な生を救済するための努力をやめない。特殊性と普遍性の架橋の不可能性を自覚しつつ、なおもそれを記述すること──わたしはこれが、哲学になしうる最大の仕事のひとつだと思う。そして本書は、それに成功したごく例外的な作品たりえている。

2021/07/22(木)(星野太)

没後20年 まるごと馬場のぼる展 描いた つくった 楽しんだ ニャゴ!

会期:2021/07/25~2021/09/12

練馬区立美術館[東京都]

『11ぴきのねこ』と『11ぴきのねことあほうどり』は私にとって大変懐かしい絵本だ。子どもの頃に何度も繰り返し読んだ。食いしん坊でちょっと間抜けな11匹の猫たちが、大きな魚を捕らえたり、コロッケ店を開いたりと、いずれもユーモラスな物語が展開される。11匹の猫たちはとても人間臭く、喜怒哀楽がはっきりしていて、子ども心に親しみが持てた。本展を観て、この絵本シリーズの著者、馬場のぼるが実は漫画家でもあったことを知り、なるほどと合点がいった。

馬場は1950年に少年誌で漫画連載を始め、手塚治虫らとともに「児童漫画界の三羽ガラス」と呼ばれるほど人気を博したという。実際に彼らは仲良しだったようで、手塚の漫画のなかに馬場がキャラクターとして何度も登場したり、「鉄腕アトム」と「11ぴきのねこ」が夢の共演をした作品が残っていたりと、本展でもその交友録が紹介されていた。その後、馬場は大人向けの漫画雑誌にも活躍の場を広げ、さらに絵本も手がけるようになった。『11ぴきのねこ』シリーズが世代を超えて愛されるロングセラーとなっても、馬場自身はあくまで漫画家であることを軸としていたようだ。漫画家ゆえの豊かな発想力や自由奔放さが、『11ぴきのねこ』シリーズを生き生きと輝かせたのかもしれない。


『11ぴきのねことぶた』(こぐま社、1976)印刷原稿 特色刷り校正用リトグラフ・紙 こぐま社蔵


そんな物語の魅力もさることながら、改めて感心したのは絵の完成度の高さだ。本展で初めて知ったのだが、『11ぴきのねこ』シリーズはリトグラフを応用した特殊な製作工程で印刷されたものだという。CMYKのプロセスインキではなく、すべて特色インキを使い、それらを何版も重ねて1枚の絵を完成させていたのである。しかも作家自身が(1色ごとに)版にする原画を描き分けたというのだから驚く。なぜなら色と色とを重ねた際にどのような色に仕上がるのかを綿密に計算しなければならないし、原画を描く手間も何倍も掛かるからだ。それでも発行元のこぐま社が「画家の手の温もりが感じられる美しい色の絵本を届けたいと願い」、この手法を採用してきた。まさか製作にこんなに手が込んでいたとは、子どもの時分には知る由もない。私はずいぶん贅沢な絵本を楽しんできたわけだ。さて、馬場の漫画家としての実力は風刺画にも発揮されていた。1980年代の中曽根政権時代と思われる風刺画も展示されており、思わずニヤリとする。これも子どもの時分には味わえなかったウイットのひとつだ。大人になって馬場作品の魅力に改めて触れられて幸せに思う。


『11ぴきのねことあほうどり』(こぐま社、1972)印刷原稿 特色刷り校正用リトグラフ・紙 こぐま社蔵


展示風景 練馬区立美術館



公式サイト:https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202104211619004534

2021/07/24(土)(杉江あこ)

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カタログ&ブックス | 2021年8月1日号[近刊編]

展覧会カタログ、アートやデザインにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
※hontoサイトで販売中の書籍は、紹介文末尾の[hontoウェブサイト]からhontoへリンクされます





アナザーエナジー展:挑戦しつづける力──世界の女性アーティスト16人

執筆者:片岡真実、マーティン・ゲルマン
デザイン:加藤賢策(LABORATORIES)
発行:フィルムアート社
発行日:2021年7月9日
サイズ:A4判変型、364ページ

森美術館「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力 ─世界の女性アーティスト16人」公式図録。
1950年代から1970年代にかけて活動を始め、2021年の現在に至るまで世界各地で制作活動を続ける女性アーティスト16人に光を当てます。絵画、映像、彫刻、大規模インスタレーションにパフォーマンスなど、それぞれ初期作品から代表作、本展のための新作までを収録。 ジェンダー、人種、民族など、近年、世界各地で広がっている多様なアイデンティティに対する理解にもつながる1冊です。

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アナザーエナジー展:挑戦しつづける力 ─世界の女性アーティスト16人|村田真:artscapeレビュー(2021年08月01日号)

Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる展公式図録

出展作家:東勝吉、増山たづ子、シルヴィア・ミニオ=パルウエルロ・保田、ズビニェク・セカル、ジョナス・メカス
発行:東京都美術館
発行日:2021年7月
サイズ:19.7×15.4cm、271ページ

2021年7月から東京都美術館にて開催されている「Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる」展の公式図録。






リボーンアート・フェスティバル2019 公式記録集─いのちのてざわり

デザイン:groovisions
発行:ART DIVER
発行日:2021年6月30日
サイズ:B5判変形、224ページ

東日本大震災からの復興を願って開催される芸術祭「Reborn-Art Festival」。延べ44万人以上が来場した、第2回「Reborn-Art Festival 2019」を完全収録した公式カタログ決定版!「ART」「MUSIC」「FOOD」の3つの柱で構成されるフェスティバルを200ページにわたるカラーページで鮮やかに再現。

テアトロン 社会と演劇をつなぐもの

著者:高山明
発行:河出書房新社
発行日:2021年7月27日
サイズ:四六判変形、268ページ

さまざまな分野と交差することで演劇を拡張し、社会と芸術表現との接続を追求する高山明=Port B。いま最も過激な演劇を手がけ世界的に評価される演出家による、現代社会=演劇論。



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高山明/Port B『光のない。─エピローグ?』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年04月15日号)
Port B「サンシャイン63」──地肌と声の行路|阿部一直(山口情報芸術センター):キュレーターズノート(2009年04月15日号)

村上慧 移住を生活する

著者:村上慧
執筆者:川瀬慈、辻󠄀琢磨、野中祐美子
編集:野中祐美子
編集補助:大場さやか
写真:木奥恵三、村上慧
発行:金沢21世紀美術館
発行日:2021年3月31日
サイズ:22.0×15.0cm、803ページ

発泡スチロール製の家を背負って移住生活をするアーティスト村上慧によるプロジェクト「移住を生活する」の約6年間の記録を収めたアーティストブック。家はあるが土地のない村上は、毎日家を置くための敷地を交渉し獲得する。日々の出来事や思考の断片を日記に綴り、土地のある家を「攻撃するつもりで」ドローイングを描く。敷地写真やドローイングのキャプションにはその土地の住所が充てられる。北は青森、南は熊本。社会の矛盾や公共に対する疑問、あらゆる事故や災害を目の当たりにし、自分たちの生き方そのものを見直す必然性を「移住を生活する」で表現してみせる。ページをひとたび開けると、日記、ドローイング、地図、写真によってあっという間に読者も「移住を生活する」の当事者になれるだろう。

プレスリリースより
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個と公の狭間での実践と、終わらない問い──展示と本を通して見せる「村上慧 移住を生活する」|野中祐美子(金沢21世紀美術館):キュレーターズノート(2021年06月15日号)
村上慧 移住を生活する|村田真:artscapeレビュー(2021年04月01日号)
「ミヒャエル・ボレマンス マーク・マンダース|ダブル・サイレンス」、「村上慧 移住を生活する」、「アペルト13 高橋治希 園林」|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2021年03月15日号)

日常のあわい

出展作家:青木陵子+伊藤存、岩崎貴宏、小森はるか+瀬尾夏美、小山田徹+小山田香月、下道基行、髙田安規子・政子、竹村京
寄稿:益田ミリ
デザイン:大原大次郎
発行:青幻舎
発行日:2021年6月30日
サイズ:B5判、120ページ

金沢21世紀美術館で開催中の特別展「日常のあわい」公式図録。
7組11名の作家が、私たちが意識せざるをえなくなった「日常」について今一度見つめ直す。意識しないと見過ごしてしまう生活のなかのささやかな創造行為に着目した作品や、突然の喪失や災害に向き合う心の機微を捉えた作品、そして形を変えて続いていく日常をあらわにする作品を紹介。これらを通して、日常と非日常のあわいにある「現在(いま)」が浮かびあがる。

つくる理由 暮らしからはじまる、ファッションとアート

著者:林央子
デザイン:小池アイ子
発行:DU BOOKS
発行日:2021年6月1日
サイズ:四六判、312ページ

インディペンデントな創作によって独自の境地を切り開いていった1990〜2000年代の作家たちを再検証し、刊行後の反響から美術展へと発展した『拡張するファッション』。本書はその著者・林央子による待望の書下ろし新作。現在を生きる同時代の表現者たちの声を拾う。

思考する芸術──非美学への手引き

著者:アラン・バディウ
翻訳:坂口周輔
発行:水声社
発行日:2021年6月30日
サイズ:四六判、296ページ

芸術と哲学の関係はいかなるものなのか?
芸術を真理との関係から問い直し、ダンス、映画、演劇、散文、詩を例に作品でも作者でもなく出来事的な切断によって先導される《芸術的布置》の次元を見定める渾身の芸術論。

光学のエスノグラフィ フィールドワーク/映画批評

著者:金子遊
発行:森話社
発行日:2021年6月22日
サイズ:四六判、288ページ

撮ること、観ること、考えること──。これらの営みの総体として、映画は形成されている。
ロバート・フラハティからジャン・ルーシュへと連なる映像人類学をはじめ、アピチャッポン・ウィーラセタクン、王兵、ツァイ・ミンリャン、エドワード・ヤンといったアジアの映画作家まで、人類学的フィールドワークと映画批評を横断し、映像のなかに個を超えた人類の歴史、習俗、営みを見出す。

丹下健三建築論集(岩波文庫)

編著:豊川斎赫
発行:岩波書店
発行日:2021年7月15日
サイズ:文庫判、288ページ

世界のTANGE──。国際的建築家として丹下健三の名を知らしめたのは、その作品のみならず、彼の論説と思想であった。人間と建築にたいする深い洞察と志。「美しきもののみ機能的である」との言葉に象徴される独自の美意識。建築の化身と呼ばれた不世出の建築家による重要論考を集成する。二巻構成のうちの建築論篇。





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2021/07/31(土)(artscape編集部)

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