artscapeレビュー
2021年08月01日号のレビュー/プレビュー
TRASHMASTERS vol.34『黄色い叫び』
エル・パーク仙台 スタジオホール[宮城県]
同じ作品を東京でも見ることはできたのだが、東日本大震災を受けて、2011年4月に発表された作品の再演ということもあり、せっかくなので、仙台にいるタイミングで観劇した。同市では、チェルフィッチュでさえなかなか満席にならないので、観覧者を増やす意味もある。
さて物語は、台風が近づくなか、地方の公民館において青年団の会議が紛糾したあと、土砂崩れの発生によって事態が激変するという展開だ。当初、TRASHMASTERSでは3.11から10周年として、別の作品の上演も検討していたらしいが、セットが大がかりなため、『黄色い叫び』を選んだ。結果的に2021年の7月の出来事を予見したかのようだ。
まず、前半における青年団の会議では、災害の根本的な対策を主張する一部の意見を顧みず、町長の意向を受けながら、祭りを強行する決議がなされる。これはもともと復興のあり方をめぐる議論を踏まえたものなのだが、2021年という新しい特殊な状況下で、コロナ禍にもかかわらず、オリンピックという巨大な祭りに突進していく日本政府とぴったりと重なりあう。本来、意図しなかったことにもつなげて解釈できることは、演劇を含む表現の醍醐味であり、作品がもつ普遍性の証だろう。また7月は日本各地で集中豪雨が発生し、熱海が土石流災害に襲われたが、『黄色い叫び』の後半の展開を思い出した。なお、今回、長野県でも上演されたのは、2019年の千曲川氾濫という自然災害の地でもあるからだ。
『黄色い叫び』はポスト3.11の演劇だが、人の嫌らしさも込めた通常と違う角度からの視点が新鮮だった。特に後半において重症者が運びこまれたあとの、生と性がせめぎあう一連の展開は見所である。それはアフタートークでも述べていたように、災害のあと、作・演出の中津留章仁が石巻へボランティアにいった経験が大きいのだろう。メディアが切り取って見せたい被災地のステレオタイプのイメージと、それを凌駕する出来事が続出する現場。そこでは欲望が渦巻き、キレイゴトだけではないだろう。本作では、さまざまな矛盾を抱えたわれわれの姿が描き出されている。
TRASHMASTERS vol.34『黄色い叫び』:http://lcp.jp/trash/next.html
2021/06/30(水)(五十嵐太郎)
鷹野隆大 毎日写真1999-2021
会期:2021/06/29~2021/09/23
国立国際美術館[大阪府]
めっぽう面白い展覧会だった。鷹野隆大は、1990年代以降の日本の写真表現を牽引してきたひとりといえる。つねに新たな問題を引き起こす作品を発表し、観客を挑発し、話題を提供してきた。今回国立国際美術館で開催された、彼の初めての回顧展は、単純に代表作を並べたというものではない。むしろ、鷹野隆大というユニークかつ真っ当な写真作家の表現のベース(土壌)に、スポットを当てたものになった。
鷹野は1998年から毎日欠かさず写真を撮影し始め、その行為を「毎日写真」と名付けた。特定のテーマやコンセプトからむしろ距離をとり、それらをもういちど集めてみたときに、何が見えてくるかを確かめようと考えてのことだった。20年以上過ぎて、その数は10万枚に達しているという。スマートフォンとSNSの時代になって、鷹野のように毎日写真を撮っている人も珍しくなくなった。だが、彼らと鷹野の写真行為とのあいだには見かけ以上のギャップがある。撮りっぱなし、流しっぱなしの写真の群れとは違って、鷹野はそれらを見直し、並べ替え、再編成することで「写真とは何か?」「写真に何ができるのか?」を問い返そうとする。
本展には「毎日写真」の活動の成果だけでなく、そこから派生していくさまざまなシリーズも並置されていた。「カスババ」や「Photo-graph」、「日々の影」、「東京タワー」といった作品が、まさに土壌から植物が芽を出し、大きく成長していくように生み出されていったことがよくわかった。
「毎日写真」は単なる作品の下図ではない。鷹野にとっては、「毎日欠かさず写真を撮ること」の方が、作品化することよりもむしろ重要であるようにさえ見える。たとえば、やや時間をおいて撮影したニ枚の写真を一組にして見せる展示があったが、そこでは微妙な時間と空間のズレによって、写真が常に流動的な出来事の束を生み出し続けていることが示されていた。いわゆる本画よりもデッサンや下絵の方にいきいきとした創造性を感じさせる画家がいるが、もしかすると鷹野もそうなのかもしれない。さらに、「毎日写真」は鷹野本人に帰属するだけでなく、多くの写真家たちにとっても、発想の源となるような開かれた構造を備えている。特に若い世代の写真家たちにとっては、多くの示唆を含む展示といえそうだ。
2021/07/01(木)(飯沢耕太郎)
福井裕孝『デスクトップ・シアター』
会期:2021/07/02~2021/07/04
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
「デスクトップ・シアター」というタイトルを聞いて想起されるのは、Zoomや動画配信サービスを利用した「オンライン演劇」の四角い画面だろうか。だが本作は、劇場というフレームを問い直すことなく映像の再生フレームに移植しただけの多くの「オンライン演劇」の凡庸さとは異なり、通常は不可視の基底である「舞台のフレーム」それ自体を複層的に問う、優れてメタ演劇的な思考を提示していた。
会場に入ると、計7台の「テーブル」がコの字型に設置され、文庫本、小さな植物の鉢、動物や人型のフィギュア、マグカップ、ペットボトルなどが置かれている。観客はテーブルの外側に「着席」し、アクティングエリアとなるコの字型の内側の空間およびテーブル上で行なわれる、「もの」と出演者のふるまいとの交差を目撃することになる。ここで「テーブル」は、アクティングエリア/観客の領域を区切る境界であると同時に、両者が共有する界面でもあり、両義的な機能を帯びている。
出演者たちは無言で1人ずつテーブルにつき、日常的な/日常を逸脱した「もの」の使用と再配置に興じはじめる。几帳面に整列されていく「もの」たちは街路の整備や拡張を思わせ、角を揃えて積み上げられる本のタワーもまた、擬似的な街並みを形成し、仮構的な「風景」を出現させる。ペットボトルやマグカップ(=建物)、小さな鉢植え(=街路樹)、ミニカー、人型のフィギュアのあいだを縫って、紙袋をゆっくりと移動させていく、ヘルメットを被った男がいる。「Uber Eatsです」という静寂を破る声は、彼が仮構された街を進む配達員であったことを明かす。「テーブル」=舞台、もの=俳優や舞台美術、ものを動かす人間=黒子や演出家によって、「擬態」としての演劇と、それを支える不可視の基底面の露出がまずは提示される(ただし、テーブルの縁に沿って交互に差し出される人差し指と中指が演じる「フィンガー・シアター」や、出演者に実際の「黒子」が混ざる事態は、この単純な図式を攪乱させる)。加えて、複数のテーブルで同時並行的に「出来事」が進行することは、「視線の一点集中」という劇場機構の支配的力学に対するアンチとして機能する。一方、例えばテーブルの前の椅子に座って本を読む、トランプを並べて神経衰弱のゲームをするなど、「テーブル」それ自体も、「概念としての舞台」と「日常的な使用」とのあいだを曖昧に揺れ動く。
静謐な進行に秘かに亀裂を入れるのは、モノローグの挿入だ。ひとりの出演者が、「壊れた旧式の電気コンロの上に、新しく買ったIHコンロを置いて使用している」と語り出す。一見たわいのない日常的な話だが、「層構造」の示唆を端緒に、物理的な高低差においても「もの」の水平的な移動においても均質な水平レベルを保っていた「テーブル」のあいだに、レベル差が生じ始める。ローテーブルが持ち込まれ、「もの」はテーブル上から床の上へ降ろされ、垂直移動を開始する。ただし、「ものの置かれた秩序」は生真面目に厳密に保たれたままであり、「秩序の再インストール」が可視化される。食器やナイフ、フォークが配置されたテーブル上で語られる「テーブルマナー」についてのモノローグもまた、「テーブル=秩序・ルールが支配する場」であることを示唆する。
後半では、盤石で不動に見えた「テーブル」自体が分割され、切り離された一部が移動を開始する。それは本土から切り離された島か飛び地の領土のように空間の中に新たな位置を占め、床の上に再構築された「もの」の配置の上にも覆い被さる。一方、床ではなく、「テーブル」の上を歩いたり、「テーブル」の上に椅子を並べる者も現われ、テーブル/床の弁別が等価になり、垂直というレベル差がもつ階層秩序も攪乱・上書きされていく。
きわめて具体的な「もの」(テーブル自体も含む)を用いながら、抽象的なレベルにおいて、不可視の基底面の可視化、再物体化、水平/垂直のレベル移動、複層化とその弁別の攪乱、「秩序」の構築と解体の政治学を示した本作。終盤では、「床/ローテーブル/テーブル/床面として使用されるテーブル」のレベル差の複数性とその混乱は保持したまま、「日常の事物の秩序」が回復されていく。リュックを背負って現われた者に、ホテルの設備について説明するフロント係。飛沫防止のアクリル板が置かれたテーブル。マイムでパソコン作業する者。テーブルを挟んで椅子が並べられた、会議室の光景。
食卓の配膳、食器棚や本棚の並び順、デスク上の書類やパソコンの配置から「デスクトップ」上のアイコンの整列まで、私たちの日常生活は「もの」とその秩序化によって成り立ち、そこに微細な政治性が宿っている。それは微視的なレンズで見れば「日常の事物を構成する秩序」だが、より巨視的なレンズで抽象化すれば、「秩序のインストールや上書きによる、国家や共同体の成立/排除」へと変容する。福井は過去作『インテリア』においても、「部屋」という個人の私的領域における日常的な「もの」とその再配置を通じて、空間の私有化や(再)領土化の政治学を浮かび上がらせていた。興味深いことに『インテリア』では、「部屋の住人」のルーティンを規定する起点=中心が「テーブル」であったが、本作はさらに、この「テーブル」それ自体を入れ子状に「舞台」のメタファーとして扱い、垂直移動や分割といったより複雑な操作を通して、優れてメタ演劇的な省察を内蔵させていた。
関連レビュー
福井裕孝『インテリア』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年04月15日号)
福井裕孝『インテリア』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)
2021/07/04(日)(高嶋慈)
うつゆみこ「い た し か た」
会期:2021/06/26~2021/07/11
手と花[東京都]
うつゆみこの創作エネルギーの凄さには、いつも感動させられる。今回の東京神田司町のギャラリー・スペース「手と花」で開催された個展でも、壁全面に作品が貼り巡らされ、所狭しとZINEが並び、小型の額入りの作品が置かれ、写真をプリントしたTシャツなども販売していた。うつの作品のスタイルは、2006年に第26回写真「ひとつぼ展」でグランプリを受賞した頃から基本的に変わりはない。さまざまなオブジェ、雑誌に掲載された写真図版、自分で撮影した写真プリントなどを寄せ集め、奇想天外な組み合わせのコラージュ作品として提示する。可愛らしさとグロテスクさがせめぎ合う作品の強度は比類がなく、見るたびに脳細胞が攪拌され、別の世界に連れていかれるように感じる。
今回の展示では、オブジェや画像だけでなく人物を撮影した作品が増えてきている。生身のモデルを使った作品は、以前はあまり発表しなかった印象があるが、近年はパフォーマンス的な要素を積極的に取り入れた「ポートレート」が目立ってきた。また、2020年3月に2人の娘とともに台湾の花蓮で1カ月間滞在制作した時の作品も展示していた。異文化的な要素が加わることで、新たな展開が形を取りつつある。
もうひとつ、本展のチラシに寄せた『 い た し か た 』と題するテキストがかなり面白い。写真家になろうと志した時期から現在まで、プライヴェートな出来事を含めて赤裸々に綴った文章と、うつの作品をあわせて見ると、彼女の制作活動のバックグラウンドがありありと浮かび上がってくる。写真作品とテキストとを入れ子状態で構成した、写真エッセイ集の可能性もあるのではないだろうか。
2021/07/06(火)(飯沢耕太郎)
石田智哉『へんしんっ!』
会期:2021/06/27~2021/07/16
第七藝術劇場[大阪府]
自身も電動車椅子で生活する映画監督による、「しょうがい者の表現活動を追ったドキュメンタリー」。だが、そうしたわかりやすい枠組みへの固定化をすり抜けるように、本作は「変身」を遂げ続ける。それは、「映画」の主題と監督自身の身体の変容、双方のレベルで遂行される。そこに本作の掛け金と際立った秀逸さがある。
本作は石田智哉の初監督作品。立教大学現代心理学部映像身体学科の卒業制作として撮影され、第42回ぴあフィルムフェスティバル「PFFアワード2020」グランプリを受賞した(なお、本稿では、本作上映中の字幕や広報文での表記を踏まえ、「しょうがい」とひらがなで表記する)。
映画はまず、「しょうがいと表現」にさまざまな立場で関わる表現者に対して、石田がインタビューする「対話のドキュメンタリー」として始まる。手話による絵本の読み聞かせなどパフォーマーとして活動し、聾(ろう)の映画監督が「聾者にとっての音楽」をテーマに撮った『LISTEN リッスン』にも出演した佐沢(野﨑)静枝。バリアフリー演劇の俳優や点字朗読者として活動する美月めぐみ。しょうがい者や高齢者との協働や、震災の被災者との対話に基づくダンス作品を制作する振付家・ダンサーの砂連尾理。砂連尾は「しょうがい者=コンテクストの違う身体」と捉え、美月は「自分がパフォーマンスする側に回ることで、視覚しょうがい者の楽しめるコンテンツを増やしたい」と語る。
対話内容は「コンテクストの異なる相手との対話」へと舵を切る。「視覚しょうがい者には手話が見えないため、コミュニケーションを取るのが難しい。通訳者がいて初めてバリアが消える」と語る佐沢。「『見えないから』と気を遣われるとしんどい。むしろ色について説明してほしいし、聴覚しょうがい者にはどんな困難があるのか知りたい」と話す美月。
ここで、「コンテクストの異なる相手との対話や協働」は、映画の制作自体に対する問い直しへと波及する。「監督の立場だが、一方的に指示する暴君にはなりたくない」と語る石田。録音と撮影を担う裏方スタッフがカメラの前に姿を現わし、映画の制作体制や方向性についての議論に加わる。「ジャッジはあるけど、合議する」という基本方針を確認する石田。
中盤では、大学の保健室にて、マットの上でストレッチの処置を受ける石田が映し出される。それを見た砂連尾は「車椅子を降りた石田くんの動くところを見てみたい」と、カフカの『変身』を着想源とする舞台作品への出演を誘う。石田の指をそっと撫でるように動かす砂連尾。誘われるように反応し、砂連尾の手が指さす方向へ動く石田の手。静謐だがエロティックとさえ言えるような濃密な交歓の瞬間が訪れる。そして舞台本番。即興的な他者との接触が生み出す運動のダイナミズムや、繊細な「手と手のダンス」を紡ぐ石田をカメラは映し出す。
「しょうがいと表現」をめぐる対話のドキュメンタリーから、メタ映画的な議論を経て、ダンス映画へ。主題の「変遷」とともに「撮る/撮られる」の境界線が融解し、石田自身もインタビュアーから、監督の特権性への自己批判を経て、身体表現の担い手=被写体へと変容していく。それは、「異なるコンテクストの相手と向き合うことは、自分自身の考え方や身体に変容をもたらす」ことをまさに体現する。
ただし、本作が最終的に単なるダンス映画の枠に収まらないことは、終盤で明らかになる。インタビュー相手が全員集合し、通訳者も交え、「バリア」を壊すための通訳者の重要性や課題についてディスカッションするうち、重ね合わせた掌を起点に波のような運動が始まり、その「輪」に石田自身も加わっていく。触れあう接触面を起点に波動を手渡し、受け取り、ともに持続させ、変容させていく。それは、「わたしとあなた」の境界線を揺るがす侵犯的な暴力性を秘めつつ、「他者とともに生きること」の根源を「ダンス」として抽出している。換言すれば、「接触と侵犯」が「暴力」に転じない地点に、「ダンス」が生成される時間が存在する。電動車椅子をぐるぐる回転させ、(「視覚しょうがい者の『眼球』だから触ってはいけない」と語られていた)白杖に触れて空へ向ける砂連尾の確信犯的な「介入」は、そのことを物語っていた。
公式サイト:https://henshin-film.jp
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2021/07/08 (木)(高嶋慈)