artscapeレビュー
2022年12月15日号のレビュー/プレビュー
マリー・クワント展
会期:2022/11/26~2023/01/29
Bunkamura ザ・ミュージアム[東京都]
マリー・クワントと聞いて思い浮かぶのは、あのデイジーマークだ。本物の花のデイジーは花びらがもっとたくさんあるのだが、デイジーマークは5弁に簡略化され、基本的に黒1色使いで、潔く抽象化されている。それがマークとしてのインパクトやブランドの強さへとつながっている。もしかするとアップルのリンゴマークやナイキのスウッシュマークにも匹敵するほど、全世界に知られたブランドマークではないか。そうしたブランディングの観点から見ても、マリー・クワントは優れたファッションブランドではないかと思える。
そんなマリー・クワントの日本初の回顧展が始まった。日本にマリー・クワントが上陸したのは1971年、コスメラインだったことから、確かに日本では化粧品のイメージが強い。しかし本展で紹介するのは、それ以前のブランドの歩みやマリー本人のキャラクターである。それらを観れば観るほど、マリーに惹かれ、共感し、また感心することが多々あった。まず、マリーがロンドンのチェルシー地区に若者向けのブティック「バザー」を開店したのが1955年。後々に語り種となる、若者たちのストリートカルチャーが花開いた「スウィンギング・ロンドン」時代の到来である。まだ25歳だったマリーが自分と同世代の若者をターゲットにしたこのブティックは、これまでの既成概念にはない形態だったからこそ大人気を得た。
もちろん世界を見渡せば、時代や規模は異なるが、それは東京の原宿などでも見られる現象ではないかと思う。特にファッションや音楽などに関しては、若者がムーブメントを大きく動かす力を持っている。しかしマリーが並外れていたのはその感性だけではなかった。夫となるアレキサンダー・プランケット・グリーンや、友人で実業家のアーチー・マクネアをブレーンに抱え、彼らのサポートによってビジネスとしても大成功を収めたからだ。大量消費時代の波にうまく乗れたことも大きいのだろう。デザインとビジネスを両輪にしてグローバルブランドへと成長する。もちろん、どちらかが欠けても弱くても成り立たない。マリー・クワントはまさに理想的なブランドストーリーを歩んだのだ。本展を観た後、デイジーマークを改めて眺めると、ミニスカートをはじめ、若い女性のために等身大のデザインを発信するというマリーの情熱が確かにそこに表われているように感じた。
公式サイト:https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/22_maryquant/
2022/11/25(金)(杉江あこ)
all is graphics
会期:2022/11/10~2022/11/27
ヒルサイドフォーラム[東京都]
ビニール素材でできた「フラワーベース」、ミラー加工を施したカップにソーサーの柄が映り込む、トリックアートのような「ミラーカップ&ソーサー」など、プロダクトブランドD-BROS/DRAFTには、ちょっとした仕掛けが楽しい商品がそろっている。DRAFTに所属しアートディレクションの仕事をしていた頃から、このD-BROS専属デザイナーとして活躍していた植原亮輔、渡邉良重が立ち上げた会社、KIGIが今年で10周年を迎えた。これはその10年の活動を振り返る展覧会だ。
本展を観て痛感したのは、彼らはデザイナーあるいはアートディレクターとしての職能を十分に発揮する一方で、自身の作家性を非常に大事にするタイプではないかという点だ。特に展覧会の場では、それが引き立って見えた。その作家性とは、強いて言うなら子どもの頃にお絵描きや切り絵、工作、手芸などを経験してワクワクしたときのような純粋さである。大人になってもそんな純粋さを創作の核として持ち続けているからこそ、上記で挙げたようなありそうでなかった楽しい商品が生まれるのではないか。
そのためか、本展では彼らの個人的な作品にとても目が引かれた。例えば「時間の標本 #002」では、壮大な時間をかけて結晶化した色鮮やかな鉱物一つひとつを瓶に閉じ込めるという試みをしていた。地球の創造を担った鉱物に、長い時間の経過を見出したのだ。また植原による写真作品も興味深かった。北海道や沖縄の海辺などを写した風景写真なのだが、画角の真ん中に鏡を置き、自分の背面の視野の外にある景色をあえて写り込ませるという趣向を凝らしていた。何ということはない風景の中に、部分的に異次元ポケットのような違和感をつくり出し、見る者を引きつける。 そうした日々のちょっとした気づきや実験を形にする行為は、彼らのなかで創作の種となり、いつかどこかのタイミングで芽が出て花が開き、仕事に生かされるのだろう。言わば、その種や芽、花を見せてもらったような展覧会でもあった。しかし私も経験上わかるが、どの仕事もスムーズにうまく運ぶわけではない。成功の影にはいくつもの失敗があるし、クライアントワークにはさまざまなストレスやトラブルがある。本展でキラキラと輝く彼らの仕事や作品を眺めながら、同時に目に見えない苦労も感じ取った。
公式サイト:http://ki-gi.com/aig2022/
2022/11/25(金)(杉江あこ)
中谷ミチコ デコボコの舟/すくう、すくう、すくう
会期:2022/11/30~2023/01/22
アートフロントギャラリー[東京都]
壁も床も真っ白い会場の中央が台状に盛り上がり、その上に舟形の白い彫刻が鎮座している。高波に持ち上げられた舟、というより、山に取り残された舟か。その表面には人や鳥や犬や木や小舟や焚き火までが刻まれ、薄く彩色されている。刻まれるといっても浮き彫りではなく、もののかたちを凹ませる陰刻ってやつ。タイトルどおり《デコボコの舟》(2022)なのだ。中谷は以前、実体のない舟の表面にやはり人や木などの浮き彫りを施した作品をつくったことがある。舟の周囲に人や木をへばりつかせ、舟本体を空洞化したものだったが、今回はそれを反転させ、舟本体に負の存在を刻印したかたちだ。
そのたたずまいがノアの方舟を想起させるせいか、表面に彫られた人や木はなにか神話的な物語性を感じさせるが、作者によれば「協働と、拒絶を同時に繰り返しながら何かから逃げている人たち」を思いながらつくったという。協働と拒絶という相反するものを繰り返すこと、それは人間社会そのものであると同時に、正と負、虚と実、凹と凸を巧みに織り込んだ彼女の彫刻の作法を思わせないでもない。しかしそこから逃げる人たちとはなんだろう?
別の展示室には、両手のひらで水をすくう所作を陰刻した《すくう、すくう、すくう》(2021)が展示されている。これは昨年の「奥能登国際芸術祭」に出品するためにつくったもので、コロナ禍のため移動もままならず、地元の人たちの手のひらを写真に撮ってもらい、それを見ながら制作したという。水をすくう手だから器状になっていて、そこに透明樹脂を満たして固めている。底をのぞくと、しわの寄った手の甲が見える。手のひらをのぞいたら、なぜか裏側が見えるのだ。これは手が反転しているというより、手の陰刻であり、実体が失われた負の彫刻というべきだろう。ちなみにタイトルの3回繰り返される「すくう」には、それぞれ「掬う」「救う」「巣食う」の字が当てられている。これも意味深。
公式サイト:https://www.artfrontgallery.com/exhibition/archive/2022_10/4709.html
2022/11/26(土)(村田真)
高木由利子「カオスコスモス 壱 –氷結過程–」
会期:2022/10/07~2022/11/28
GYRE GALLERY[東京都]
1990年代に、人の身体(ヌード)をテーマに、力強い、スケールの大きな作品を発表し注目を集めた高木由利子の、久方ぶりの大規模展示を見ることができた。寒冷地の軽井沢に移住したのをきっかけにして、「氷結過程」を撮影するようになったのだという。氷点下で水が結晶していくプロセスを、クローズアップで撮影した写真群は、以前とは違う無機的で鋭角的な美しさを湛えており、自然界における「カオスとコスモスは同時多発的に共存しているのではないか」という彼女の問いかけに充分に応えうる出来栄えだった。ギャラリーの外の吹き抜けの空間を含む会場インスタレーションも、よく練り上げられていた。
展示は「始まり」「地上絵」「標本箱」「脳内過程」の4部で構成されている。そのうち、奥まった部屋に展示されていた「脳内過程」の作品群が特に興味深かった。今回のシリーズはデジタルカメラで撮影されているのだが、このパートでは、それらをリトグラフで6回刷り重ねることで最終的な作品としている。制作が進行していく段階を、それぞれの版を6枚並べることで示していた。作品制作時における高木自身、およびプリンターの思考の流れが、そのまま見えてくるように思えるのが興味深い。「氷結過程」の画像化という、今回のテーマにもふさわしい展示だったと思う。
「カオスコスモス 壱」というタイトルを見ると、このシリーズはこれで完結したわけではなく、新作(続編)の構想もありそうだ。これから先も、自然界のさまざまな事象から、「カオスコスモス」を抽出していく作品をまとめていってほしい。
公式サイト:https://gyre-omotesando.com/artandgallery/yurikotakagi-chaoscosmos-vol1/
2022/11/26(土)(飯沢耕太郎)
祈り・藤原新也
会期:2022/11/26~2023/01/29
世田谷美術館[東京都]
藤原新也の50年以上にわたる表現者としての歩み、そこに産み落とされてきた写真、書、絵画、そして言葉を一堂に会した大展覧会である。初期作から最新作まで、200点以上の作品が並ぶ会場を行きつ戻りつしながら考えていたのは、この人は果たして写真家なのだろうかということだった。
むろん、木村伊兵衛写真賞や毎日芸術賞など数々の賞を受賞してきた彼の写真家としての実績は、誰にも否定できないだろう。だが一方で、ごく初期から、藤原は言葉を綴って自らの思考や認識を表明し続けてきた。『全東洋街道』(集英社、1981)、『メメント・モリ』(情報センター出版局、1983)など、写真と言葉が一体化し、驚くべき強度で迫ってくる著作は、比類のない高みに達している。だが、『アメリカ』『アメリカン・ルーレット』(どちらも情報センター出版局、1990)あたりからだろうか。どちらかといえば、言葉を綴る人=思想家としての藤原新也のイメージが、増幅していったのではないかと思う。写真家としても精力的に仕事を続けていたが、どこか観念が先行しているように見えていた。
ところが、今回の展示を見て、そうでもないのではないかと思い始めた。会場の最後の部屋に「藤原新也の私的世界」と題されたパートがあり、そこに彼の99歳の父親の臨終の場面を、連続的に撮影した5枚の写真が展示されていた。藤原が、「はい! チーズ!」と声をかけると、死に際の父親は口を開けて微笑みを返したのだという。それらの写真を見ると、藤原はあらかじめ何らかの予断をもって撮影の現場に臨んでいるのではなく、まずはその光景を「見る」ということに徹してシャッターを切っているのがよくわかる。藤原は「カメラを持つ思想家」ではなく、「撮り、そして考える写真家」であることが、厚みのある展示作品から伝わってきた。
公式サイト:hhttps://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00211
2022/11/26(日)(飯沢耕太郎)