artscapeレビュー
2022年12月15日号のレビュー/プレビュー
日本のアートディレクション展 2022
会期:2022/11/01~2022/11/30
クリエイションギャラリーG8/ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]
今年も日本のアートディレクション展が二つの会場で開催された。ADC(東京アートディレクターズクラブ)の全会員が審査員として携わるこの年次公募展は、アートディレクションを審査することが目的のため、グラフィックデザインのみならず広告も対象としている。つまり新聞広告やコマーシャルフィルムもあれば、環境空間もあり、ポスターやジェネラルグラフィックだけではわからない時代の空気まで見えてくるところに面白さを感じるのだ。
非会員を対象にしたADC賞でまず私の目についたのは、サントリー「人生には、飲食店がいる。」のポスター、新聞広告、コマーシャルフィルムだ。これは以前からテレビで目にし、コロナ禍を反映した広告として気になっていたものである。今年は行政からの行動制限がほぼ緩和されているが、ご存知のとおり、一昨年や昨年は飲食店の営業時間や酒類提供、客の人数などに制限が掛かっていた。人々はそれにすっかり萎縮してしまい、飲食店(特に酒を伴う店)の利用が減ったというのが現状ではないか。私自身もそうである。これはそんな現状を嘆き、警笛を鳴らす、サントリーならではの飲食店応援広告だ。特にコマーシャルフィルムでは昔の映画で描かれた居酒屋や屋台、バーなどのワンシーンを次々につなぎ、そこに映る役者たちのさまざまな表情を見せていく。それらを眺めるうちに、視聴者は自分自身の居酒屋での思い出などまでふと蘇ってきてしまい、まるで失われた過去に対峙するかのようで、ちょっと泣けてくるのである。
ADC賞でもうひとつ私が注目したのは、新聞広告だ。いまや新聞記事でさえスマホで読む時代となり、紙の新聞の存在感が薄れ始めている。スマホで記事1本1本を選んで見る限り、大きな紙面を駆使した新聞広告なんて目に触れる機会がないため、新聞広告はもはやレア媒体とも言える。だからこそ、ちょっと趣向を凝らした新聞広告を見つけた時の喜びは格別な気持ちになる。長崎新聞社「13865 BLACK DOTS AND 2 RED DOTS.」の新聞広告は、反核を訴えた秀逸なグラフィックデザインだった。特に今年はロシアのウクライナ侵攻の影響で、核兵器への恐怖が高まった年でもあるからなおさらだ。広告は時代を映す鏡である。来年のADC展にはどんな作品が登場するだろうか。
公式サイト:http://rcc.recruit.co.jp/g8/exhibition/2211/2211.html
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2022/11/18(金)(杉江あこ)
小林耕平 テレポーテーション
会期:2022/09/23~2022/12/18
黒部市美術館[富山県]
小林耕平の展覧会を訪ねようと思った理由のひとつに、忘れられない作品がある。現在は豊田市美術館のコレクションになっている、《1-3-1》(1999)という映像作品だ。小さなテレビモニターで上映され、白い背景の中央にシルエットのように黒く抜かれた二人の人物が取っ組み合ってレスリングをしているような光景が小さく映し出され、しばらく見入っていたことを思い出す。この作品は私にメディア越しの視覚経験を強く印象付けた。その後、日常の素材や道具をモチーフとする場に小林自身が出演する作品や、小林と山形育弘(core of bells)が対話を繰り広げながら、そこにある事物の意味や関係性をずらし、読み替えていく映像作品へと作風を展開させてきた。
もう一つの理由は、黒部市美術館の学芸員、尺戸智佳子が手がけるリサーチベースの展覧会に興味を持っていたからだ。「風間サチコ展─コンクリート組曲」(2019)、「風景と食設計室ホー 台所に立つ、灯台から見る」(2020)、「山下麻衣+小林直人 『蜃気楼か。』」(2021)に続く今回、小林との企画で黒部の風景がどのように変貌するのか、楽しみにしていた。
こうして振り返ると実際、展覧会は黒部市美術館を訪れるはるか前から始まっていたことに気づかされる。まるで時間を巻き戻すかのように、その起点を1999年と捉えるのか、美術館へ向かうために家を出た2022年11月19日の午前9時頃と捉えるのか、宇奈月温泉駅を出て、僧ヶ岳を含む山々を見ながら美術館に近づこうとしていた時間と捉えるのか、複数の解が頭をよぎる。筆者がこのような思考に取り憑かれたのは、間違いなく最後の一室にある映像作品《テレポーテーション》を観たからなのだ。
《テレポーテーション》では、小林と山形が黒部市近辺を舞台に「造形指南」を展開する。黒部川河口で語られる「リンクの解除:作品の設置」では、コップ越しの風景を実例としながら、一枚の絵の中で、ある図像は隣り合う図像と強く結びついていることが語られ、その関係を切り離してみることでほかの物事と再接続する可能性について、二人が熱く語り合う。この再接続の可能性のほか、僧ヶ岳に伝わる雪絵(山肌の残雪やそこから覗く岩肌などの形を、人物や動物などの形に例える風習。農作業や灌漑用水の目安とされた)をモチーフに、図と地の関係から立ち上がる境界について議論されたことが、私の思考を刺激したようだ。
「造形指南」は、パウル・クレーの『造形思考』(1956)を参照しているのだと尺戸が教えてくれた。「指南」はおそらく、小林が過去に引用した古典落語の『あくび指南』からだろう。言葉遊びの妙やアクロバティックとも言える引用の織物が可能なのは、それを受け止める懐の深さが黒部の成り立ちにあることに尽きるだろう。約2000年前の杉の原生林を保存する魚津埋没林博物館や、美しい造形として注目される東山円筒分水槽。黒部という舞台に圧倒されながらも、さまざまな引用に触れ、各々の経験が逆照射されるような鑑賞体験は、与えられたイメージによって構成される観光を相対化し、思考を促しているように思えるのだ。
2022/11/19(土)(伊村靖子)
おいしいボタニカル・アート─食を彩る植物のものがたり
会期:2022/11/05~2023/01/15
SOMPO美術館[東京都]
本展は、貿易大国として世界的に発展した大航海時代のイギリスの歴史や文化にスポットを当てた展覧会である。ご存知のとおり、15〜17世紀にかけ、ヨーロッパ諸国がアフリカやアジア、アメリカ大陸へこぞって進出した大航海時代は、ヨーロッパ帝国主義のきっかけとなり、またグローバル化の始まりにもなった。寒冷で、痩せたヨーロッパの土地に自生する植物は限られていたことから、温暖で、肥沃な“新大陸”の土地で採れる種々様々な珍しい植物は、ヨーロッパ人にはさぞ魅力的に映ったのだろう。プラント・ハンターたちが持ち帰ったこれらの植物により、彼らの食卓は一気に華やぎ、食文化も発展した。
例えばチョコレートはその最たる象徴だ。飲料としてのカカオは、もともと、原産地の中米諸国でも愛飲されていたようだが、固形のチョコレートが生まれたのはカカオがヨーロッパへ渡ってからのことである。しかも寒冷のヨーロッパでなければ生まれ得なかったという二律背反性がある。そんな激動の世界史を背景にして本展を観ると、実に感慨深い。
当然、ヨーロッパ人にとって、初めて見る植物にはどんな花が咲き、どんな実がなり、どの部分を食用にできて、どのように調理や加工をすればいいのか、皆目見当がつかなかったのだろう。味の良さや効能だけでなく、下手したら毒の危険性もあるかもしれない。そのため必須だったのが植物の科学的研究である。研究を目的として緻密に描かれたボタニカル・アートは、植物図鑑を見るようで興味深く、どれも生き生きと描かれているため、いまなお魅了される。それは植物が持つ生命感ゆえの美しさだろう。根から茎、葉、花、実、種の詳細に至るまで描かれているため、子どもの食育にも良いのではないかと思える。例えばジャガイモにはこんな白い花が咲くのかとか、コーヒーの豆はこうして採れるのかとか、リンゴにはこんなにたくさんの種類があったのかとか、恥ずかしながら大人が見ても発見が多々あった。
また本展では野菜や果物だけでなく、穀物や砂糖、お茶やコーヒー、カカオ、お酒、ハーブやスパイスとあらゆる植物を対象にしたボタニカル・アートが展示されていたうえ、ティーセットやレシピ帖など食にまつわる関連資料もあり、大変充実していた。これらボタニカル・アートからヒシと伝わるのは、人間の飽くなき探究心である。先人たちの熱心な研究があったからこそ、いま、我々はこんなにも豊かな食を享受できていることを肝に銘じたい。
公式サイト:https://www.sompo-museum.org/exhibitions/2021/botanical-art/
2022/11/22(火)(杉江あこ)
シュウゾウ・アヅチ・ガリバー「消息の将来」
会期:2022/10/07~2022/11/27
BankART Station、BankART KAIKO[神奈川県]
ガリバー=安土修三というと、10歳も離れていないぼくらの世代から見ても伝説のアーティストだ。1970年代にはすでにアングラ・ヒッピームーブメントのスターとして知る人ぞ知る存在だったが、知名度の割になにをやってるのか、どんな作品をつくっているのか知らなかったし、そもそも本当にアーティストなのかさえわからなかった。ま、その胡散臭さが伝説たるゆえんなのだが。その後、何度かお会いして話す機会があったが、話せば話すほどつかみどころがない。煙に巻くというのではなく、言葉で核心に迫ろうとすればするほど本筋から離れ、それを埋めるためさらに言葉を弄して迷宮入りしてしまうみたいな。それゆえになのか、彼の大規模な個展は2010年に出身地の滋賀県立近代美術館で開かれただけで、国内ではほとんど忘れられた存在だった。
そんなガリバーの首都圏では初の本格的な回顧展「消息の将来」が、BankARTの2会場を使って開かれた。だいたいタイトルからして意味不明だ。消息の将来? 英語のタイトルは「Breath Amorphous」で、直訳すれば「まとまりのない呼吸」。こっちのほうがなんとなくピンとくる。会場に入ると、まあ賑やかなこと。絵画、彫刻から写真、映像、インスタレーション、言葉、身体まであらゆるメディアを駆使した作品が並んでいる。まさに「まとまりのない呼吸」のような制作ぶりだ。
これらをあえてひとつに括れば、「コンセプチュアルアート」に分類できるかもしれない。コンセプチュアルアートとは、乱暴にいってしまえば「アートについて考えるアート」といえるだろう。なにやら理屈っぽくて小難しそうだが、デュシャンの《泉》(1917)をその起源と考えれば、けっこうトンチの利いたミステリアスなアートと捉えることもできる。実際、ガリバーはデュシャンの影響を色濃く受けており、その作品は予想に反してポップでウィットに富み、親しみやすい。
たとえば、肘掛けのあるラウンジチェアみたいなかたちをした木箱。タイトルを見ると《男と女(1つになることができる)》とあり、チェアではなく、女が足を上げて男と交合している姿であることがわかり、思わず笑ってしまう。もちろん単なるエロネタではなく、木箱が棺桶を連想させることから、愛と死(エロスとタナトス)という永遠のテーマを扱っていることが了解される。同じく、直角に折れ曲がった木箱と、それにもたれかかるように曲がった木箱も、《男と女(愛することができる)》というタイトルから、後背位でつながろうとしているカップルの棺桶であることが想像できる。箱ではないが、2台のベッドの下半身部分がV字型につながっている《甘い生活(乙女座)》も、同様のコンセプトによる作品と見ていい。
これらは、今回は資料しか出ていないが、縦長と横長の木箱を3個つなげた《デ・ストーリー》という作品からの発展形と考えられる。3個のかたちはそれぞれ「立つ」「座る」「寝る」という人間の基本姿勢に合わせたもので、ガリバーはこの箱のなかに240時間(10日間)こもったという。意図や形態は異なるとはいえ、箱のなかに数日間滞在した飴屋法水や渡辺篤らによるパフォーマンスの先駆例といっていい。いずれにせよ、これらの発想源が自分のもっとも身近な存在である「身体」にあり、また「生」「愛」「死」という人間の本源的な生態に発していることは疑いない。
身体をモチーフにした作品で忘れてはならないのが、彼の代表作といってもいい《肉体契約》だ。これは自分の死後、みずからの身体を80のパーツに分け、80人の他者に保管を委ねるというもの。1974年に「契約」が始まり(森山大道、萩原朔美、浅葉克己、麿赤兒らがサインした)、1984年には佐賀町エキジビット・スペースで契約者が一堂に会し、その記録を展示した。ここで問題になるのは、いったいなにが「作品」なのかということだ。80人と交わした契約書か? ガリバーの死後腑分けされるであろう80の肉片か? 佐賀町でのパーティーか? そのプロセス全体か? 「肉体契約」というコンセプトそのものか? おそらく、なにが作品なのかを問うこと自体がガリバーの作品であり、この禅問答じみた問いかけこそが彼のアートなのではないか。ガリバーはそれが「アート」として認められるかどうかをいつも探っている。だからコンセプチュアルアートなのだ。
もうひとつガリバー作品の特徴として挙げられるのが、還元主義だ。人間とはなにか? 時間とはなにか? 死とはどういうことか? だれでも物事を突き詰めて考えようとしたことがあるはずだが、たいていの人は考えても仕方がないから止めてしまう。でもガリバーはヒマなせいかどうかは知らないけれど、そんなことばかりを考えて、とことん突き詰めていく。これもまた自分の身体に即したものだが、身長、座高、胸囲、頭囲などあらゆる部位を測定し数値に置き換えてグラフ化したり(《長さを持つ金属》)、みずからの体重と同じ重量の鉄や大理石で球体をつくったり(《重量(人間ボール)》1978)、さらに、遺伝子を構成する核酸塩基(AGCT)の巨大なスタンプをつくったりする(《甘い生活》)。これらはいずれも自分=人間という存在を究極の要素にまで還元して作品化したものだといっていい。
身体だけでなく、漢字や記号を要素ごとに分解して組み合わせた「文字」「漢字」「図記」などのシリーズも還元主義の発想に基づいている。漢字に限らず世界中で使われる文字は、分解すればL、T、Xなどいくつかのパターン(字画)に還元できるが、これらは自然界で物事を見分けるために必要最小限の形態素であり、それゆえ人間にとってはどんな文字でも目になじみやすく、一瞥しただけで文章を読み取れるのはそのおかげだという説がある(マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』[早川書房、2020])。「文字」「漢字」「図記」などのシリーズは、こうした文字以前の形態素を書き連ねたものだが、これらを見ていると、われわれの脳は意味と無意味のあいだを往還し、ついにはゲシュタルト崩壊を起こす。文字とはなにか、意味とはなにか、と。翻って、「アートとはなにか」を問いかけるガリバーの制作は、アートにおけるゲシュタルト崩壊の目論みであるといえないだろうか。
2022/11/24(木)(村田真)
宛超凡「河はすべてを知っている──荒川」
会期:2022/11/15~2022/11/28
ニコンサロン[東京都]
宛超凡は1991年、中国河北省出身の写真家。2013年に来日して明治大学、東京藝術大学の大学院で学び、いくつかの公募展でも入賞を重ねている。ここ数年、あちこちで台頭しつつある中国出身の若手写真家のひとりである。
今回の展示では、埼玉県と東京都を流れる荒川をテーマにしている。流路延長173キロメートル、流域面積294平方キロメートルという荒川は、巨大都市・東京を貫いて東京湾に注ぐ。ということは、荒川を撮影することによって「東京という都市の、様々な側面」を浮かび上がらせることができるということだ。宛は、6×18センチ判のパノラマサイズのカメラを使うことで、次々に目の前にあらわれてくる荒川流域の両岸の風景を、客観性に徹した姿勢で記録していく。展示では、大きく引き伸ばした作品とフィルムをそのまま密着露光してフレームにおさめたプリントとを並置することで、源流から河口へと川を辿っていく視覚的経験をより細やかに提示していた。なお、本展の開催に合わせて同名の写真集も刊行されている。横長の判型に、紙をつなぎ合わせた経師本形式で写真図版をおさめており、とてもよく考えられた造本だった(デザイン=唐雅怡)。
宛は次のプランとして、中国の上海を流れる黄浦江を撮影する予定だという。もしそれが実現すれば、東京と上海という二つの都市と河川との関係をとらえたシリーズになるだろう。中国と日本の都市の歴史、環境、文化の違いもまた、そこからくっきりと浮かび上がってくるはずだ。
公式サイト:https://www.nikon-image.com/activity/exhibition/thegallery/events/2022/20221115_ns.html
2022/11/25(金)(飯沢耕太郎)