artscapeレビュー
2022年12月15日号のレビュー/プレビュー
金サジ「物語」シリーズより「山に歩む舟」
会期:2022/10/27~2022/11/14
PURPLE[京都府]
写真家の金サジが2015年から継続的に発表している「物語」シリーズが、ついに完結した。2022年12月には赤々舎から写真集『物語』の出版が予定されており、本展はその予告編でもある。
「物語」シリーズは、モデルの衣装、メイクアップ、小道具、背景の室内調度を映画や舞台セットのように緻密に構築し、あるいは野外ロケを行なったステージド・フォトであり、汎アジア的な神話世界と西洋美術史の引用が入り混じったイメージの強度が鮮烈な印象を残す。特に、発表を重ねるごとに顕著なのが、キリスト教美術の視覚イメージだ。原罪の象徴である蛇と果実、受胎告知、聖母子、ピエタ、磔刑のイエス、トリプティック(三連祭壇画)……。ただし、原罪の林檎は桃に置き換えられ、授乳する聖母の腹部は獣のような真っ黒な毛で覆われ、磔刑のイエスを思わせる少年のペニスには割れ目が走るように、西洋と東洋、人間と獣、男と女、生と死といった二項対立が重ねられる。日本、韓国、中国といった東アジア諸国の神話の混淆に西洋美術がミックスされ、あらゆる差異や対立の相対化と、「根源的」なものとして回帰する二元論的思考が激しくせめぎ合う。
明確なシーンの連続性や起承転結はなく、謎めいて魅力的なイメージが断片的に提示されるが、ひとつの軸となるのが、「赤い衣」と「青い衣」を身に付けた「双子」の肖像である。金サジ自身が演じるこの「双子」は、「赤と青」の二色が韓国の国旗である太極旗を示唆するように、在日3世として二つの国の狭間で生きる金の複雑なアイデンティティの化身として見ることができる。「赤い衣」の片方が鏡のカバーをめくると片割れの「青い衣」が鏡に映り、逆に「青い衣」の背後の鏡には「赤い衣」の方が映っているように、二人は互いの鏡像であるが、別の一枚ではカインとアベルのように殺し合う。
「物語」シリーズの最終章といえる本展では、金自身の個人的な物語が、神話や民話、西洋美術史の引用を通して、人類史的な記憶への接続の広がりを見せた。例えば、双子のうち、「赤い衣」の方が机に突っ伏して眠っている《夢を見る娘(7匹の鳥と)》は、ゴヤの風刺的な銅版画《理性の眠りは怪物を生む》の引用だ。ゴヤの版画では、眠る男の背後に夢や闇の世界の住人であるフクロウやコウモリが羽ばたき、「無知や迷信に打ち勝つべき啓蒙世界」とその無力さを訴えているように見える。だが、男の隣にいる一羽が「ニードル」を手渡そうとしていることに着目すれば、「芸術家こそ、理性の束縛を逃れて自由な想像力を発揮すべきだ」というメッセージともとれる。金の写真作品では、フクロウやコウモリ(不吉な鳥)が、韓国では吉祥の鳥である「カササギ」に変えられ、眠る娘の足元には書物や巻物=古今東西の知識の源泉が積み上がる。さらに、背景の壁には中国を中心にした古代の東アジアの地図がかかり、机の上には地球儀と船の模型が置かれ、飛行機の模型が宙を飛ぶ。「知識欲」「外界への関心」が、測量技術や乗り物の開発につながると同時に、異なる土地への侵略をもたらしてきたことを示唆し、両義的だ。
人類の文明の象徴であり、何かを切り分ける分断の象徴でもある刃が、文字通り大地に切れ目を入れるさまを描くのが《地面を切り分ける》だ。ナタのような刃物を持つ男が大地を切り開き、地表に傷をつける。背後で燃え盛る火が戦火を思わせる。一方、子宮の中の受精卵を思わせる別の写真が隣に置かれることで、この「大地の裂け目」は、傷として刻印された分断線と同時に、何かを産み出す巨大な女性器のようにも見える。すると、男が手にする刃物は、まさに男根と化す。
また、花火とも砲撃ともつかない光が打ち上がる夜空をバックに、野山をさまよう群像を写した《永遠に歩く人々》は、西洋美術史を引用した写真と並ぶことで、聖書におけるユダヤの民の放浪とも、在日コリアンの歴史に関わる朝鮮戦争の動乱や離散とも重なり合い、繰り返される人類史的な迫害や流浪のイメージとなる。
なお、本展会場では、発行予定の写真集の見本版も手に取ることができた。テキストと写真が、冒頭とラストで円環を描くようにつながり合い、本の構造自体がひとつの「循環」を体現している。刊行を楽しみに待ちたい。
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2022/11/13(日)(高嶋慈)
片岡利恵「あわせ鏡」
会期:2022/11/14~2022/11/20
Place M[東京都]
ありきたりの、美しい花の写真ではない。また、花々の生命力=エロスは充分に感じられるのだが、それを手放しで礼賛しているわけでもない。その儚さもまたしっかりと捉えきっている。何よりも花を通して、まさに「あわせ鏡」のように自分自身の存在を照らし出そうとしている姿勢が、切実感をともなって伝わってきた。
片岡利恵は7年ほど前から写真を本格的に撮影するようになり、その時点で花をテーマに定めた。花を選んだのは、彼女の本業が看護師であることから来ているのではないだろうか。いうまでもなく、生と死の境目の状況に常に直面しなければならない職業であり、そのなかで花々に接することに特別な思いを抱くようになっていったのではないかと想像できる。花の勁さ、脆さ、美しさ、猛々しさ、さらに生から死へそして再生へと移り動いていくあり方に、共感と感動を覚えつつシャッターを切っていることが、展示された写真群から伝わってきた。
会場構成にも工夫が凝らされていた。部屋の真ん中には、さまざまな古書が積み上がっており、そのページの合間に花の写真のプリントが挟み込まれている。小高い山のような本の群れは、花たちにとっての「腐葉土」を表現したかったのだという。壁面に並ぶ写真にも、3面のマルチ画面になっていたり、16枚の写真がモザイク状に組み合わされていたりと、写真の視覚的な情報を増幅しようとする試みがみられた。それらのすべてがうまくいっていたわけではない。だが、写真展のインスタレーションからも、やはり、ありきたりの花の写真で終わりたくないという思いを、強く感じとることができた。
公式サイト:https://www.placem.com/schedule/2022/main/20221114/exhibition.php
2022/11/15(火)(飯沢耕太郎)
吉野英理香「WINDOWS OF THE WORLD」
会期:2022/11/12~2022/12/10
amanaTIGP[東京都]
吉野英理香がamanaTIGPの前身であるタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで個展「MARBLE」を開催したのは2018年だから、ひさびさの展覧会ということになる。だが、五官を柔らかに刺激しつつ、現実と幻影の間に像を結ぶような彼女の作品世界のあり方は健在で、しかもその洗練の度を増しているように感じられた。
吉野は1990年代半ばにモノクロームの路上スナップ写真の撮り手として登場した。だが、2010年代にカラー写真の制作を開始してからは、むしろ身近な日常の断片にじっと目を凝らし、その微かな身じろぎを画面に刻みつけていくような作風を育てあげていった。被写体に過度の感情移入をすることを注意深く避け、むしろ吉野自身の眼差しに収束することのない、普遍的とさえいえるような視覚世界を探求し続けてきたのだ。今回の「WINDOWS OF THE WORLD」でも、水面の反映、ガラス窓の映り込み、階段の表面の反射、鳥の影など、純粋な視覚的表象へと関心が集中しているように見える。
ただ、バート・バカラックの曲名をタイトルにしていることからもわかるように、その視覚世界は単純に純粋化、抽象化されているのではなく、聴覚、触覚、嗅覚などとも連動するように組み上げられている。一見、外国で撮影されているように見えて、すべて彼女の住む北関東の街の周辺にカメラを向けていることも含めて、現実世界の様相を、そのリアリティを保ちつつ、微妙にずらしていく手際はより鮮やかなものになりつつある。なお展覧会に合わせて、図版51点をおさめた同名の写真集がPAISLEYから刊行されている。
公式サイト:https://www.takaishiigallery.com/jp/archives/27841/
2022/11/16(水)(飯沢耕太郎)
DOMANI・明日展 2022-23
会期:2022/10/07~2022/11/27
国立新美術館[東京都]
文化庁の推進する「新進芸術家海外研修制度(在研)」の成果発表の場として、1998年から続いてきた「DOMANI」展も25回目となる。4半世紀は区切りがいいのか、次年度以降は新たなかたちに再編されるらしい。ちなみにここ2年、コロナの影響とはいえ在研の採択者が減少しており、このまま尻すぼみになっていくのではないかと危惧する声もある。どうやら大きな曲がり角に来ているようだ。
今回の出品は10人で、女性は珍しくひとりだけ。それがトップを飾る近藤聡乃だ。在研でニューヨークに行ったまま住みついて14年になる彼女の、同地での体験を描いた漫画が並ぶ。美術館で漫画展が開かれるようになって久しいが、天井の高い展示室に漫画(原画)が展示されているのを見ると、つくづく空間がもったいないなあと貧乏人は思ってしまう。しかもつい読んでしまうので滞在時間も長くなる。たぶん今回いちばん鑑賞時間の長い作品だったのではないか。なんかズルイような気がしないでもない。次が石塚元太良の氷河を撮った写真。なぜ氷河なのかというと、本人いわく「『氷河はなぜ蒼く見えるのか?』という問いが象徴するように、存在そのものが光学的要素と、形成の時間との掛け算で成り立つどこか『写真的なもの』」を感じるからだという。これには納得。
続いて、手紙や宅配の包装紙に描いたドローイングを青い壁に展示した池崎拓也、自分の描いた絵を水に浸して絵具が溶けていく様子を映像化した大﨑のぶゆき、水を張ったキャンバスに絵具を塗って滲ませる絵画の丸山直文と続く。このへんは作品がシリトリのように連鎖していて、展示の妙を感じさせる。ここまでは比較的穏やかな平面作品が多かったが、後半はベテランの伊藤誠をはじめ彫刻から出発したアーティストが多く、作品も彫刻、インスタレーション、映像と変化に富んでいる。
なかでも見入ってしまったのが黒田大スケの映像作品。2面スクリーンに朱色と灰色の背景に描かれたカモとアヒルが映し出され、戦前の思い出話を訥々と語る。それはある美術家の前半生の物語で、彫刻から出発して前衛運動に身を投じ、演劇や人形づくりに打ち込み、やがて国策の戦争映画「ハワイ・マレー沖海戦」に関わることになって、戦争プロパガンダに協力してしまうというものだ。前衛芸術家がいつのまにか国家に取り込まれてしまう話はよくあるが、ユニークなのはそれをアヒルの口から関西弁で、のらりくらりと歯切れ悪く語る点だ。話の内容のやるせなさと、すっとぼけた語りとのギャップに、逆に真実味が宿る。手前にはその彫刻家が映画の舞台セットのために制作したという設定のジオラマ模型が置かれている。
最後は小金沢健人の映像とドローイング。壁3面に、紙を2枚ずらして重ねた上にドローイングし、指で擦り、また紙をずらして描き続けていく映像が映し出される。《2の上で1をつくり、1が分かれて2ができる》というタイトルどおりの動きで、線と色彩がめくるめく展開していく。こうしてできあがった2枚1組のドローイングも何組か展示されているが、これがまたすばらしい。ドローイング制作の副産物としての映像か、はたまた映像制作の副産物としてのドローイングか。どちらも主産物ですね。
公式サイト:https://domani-ten.com
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[PR]24年目の「DOMANI・明日展」──これからの文化庁新進芸術家海外制度のあり方を探る|柘植響:トピックス(2022年03月15日号)
2022/11/18(金)(村田真)
藤野一友と岡上淑子
会期:2022/11/01~2023/01/09
福岡市美術館 特別展示室[福岡県]
岡上淑子の展覧会に掲げられた年譜などで、「1957年、画家・藤野一友と結婚」「1967年、藤野一友と離婚」といった記述を目にするたびに、どこか奇妙なズレを感じていた。藤野一友の画業について、それほど詳しいわけではないが、理想化された女性の裸体を前面に押し出した、緻密な幻想絵画の描き手であることは承知していたので、その作風と、岡上の繊細だが凛としたたたずまいを持つ写真コラージュ作品とがうまく結びつかなかったのだ。今回、初めて開催されたという岡上と藤野の作品が同時に並ぶ展覧会を見て、長年の疑問が氷解するように感じた。この異質な二人のアーティストたちの出会いと別れがもたらしたものが、それぞれの作品に宿っているように思えたからだ。
ともに1928年生まれの岡上と藤野は、1951年ごろに、二人が在籍していた文化学院で出会う。藤野は読売新聞社主催の日本アンデパンダン展などに出品し、1957年の二科展で特待となって、新進画家として認められていく。一方、岡上も瀧口修造に見出されて1953年にタケミヤ画廊で個展を開催し、その清新なコラージュ作品で注目を集めた。だが、1957年の結婚後、岡上は家事に追われ、コラージュや写真作品の発表は滞りがちになる。1959年に長男が誕生するが、1965年には藤野が脳卒中で倒れ、右半身が不自由になった。諸事情があって、二人は1967年に離婚し、岡上は息子とともに出身地の高知に移った。
このように二人の経歴を辿ると、すれ違いが目立つ邂逅だったといえそうだ。だが、彼らが互いに影響を及ぼしつつ、作品を制作していたことも確かだろう。岡上のコラージュ作品も、藤野の絵画と同様に女性の身体(ヌードも含む)が重要なモチーフになっているし、藤野の作品制作にあたって、岡上が助言することもあったようだ。確かに「藤野作品では、家父長的な戦後日本社会における男性優位のまなざしを、岡上作品では戦後の日本で女性が抱いた夢と苦悩を読み取ることも可能」(本展リーフレット)であることはその通りだと思う。だが同時に、二人のアーティストたちの世界が、互いを触媒としたきわめて独特な化学反応によって生じたことも事実だろう。それは、同じ時代に同じ空間を共有することがもたらした奇跡といえるのではないだろうか。
公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/
2022/11/18(金)(飯沢耕太郎)