artscapeレビュー

2023年06月01日号のレビュー/プレビュー

戸谷成雄 彫刻

会期:2023/02/25~2023/05/14

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

考えてみたら、戸谷さんの仕事はかれこれ40年以上も前から見ているので、作品そのものにはいまさら驚かないが、展覧会の見せ方には感心、いや感服した。これはもう回顧展の鑑、といいたい。まずタイトルが「戸谷成雄 彫刻」のみで、「展」すらつかない。必要にして十分、まさに戸谷成雄の「彫」「刻」を見せるだけ、それ以上でも以下でもない。展示も作品をドン、ドンと置いていくだけで、余計な解説やキャプションはなく、知りたければ入口で配られる作品リスト(必要最小限の文字情報が載っている)を参照すればいい。つべこべいわずに作品を見てくれ、それで判断してくれといわんばかり。よっぽど作品に自信がなければできないことだ。

ぼくが戸谷の作品を見始めた70年代後半は、石膏に鉄の棒をランダムに埋めて固め、それをノミで彫り当てていく「〈彫る〉から」と、角材を直方体に収まるように組んでいく「〈構成〉から」という2つのシリーズを発表していた。それが近代彫刻を成り立たせている「彫る」「構成する」という行為を再確認する仕事であることはわかったが、80年代に入ってひとまわり下のにぎやかなニューウェイブの連中が登場してからも、われ関せずとばかりに相変わらずコツコツと続けている。いったいいつまで続けていくつもりだろうと思っていたら、1983年に浜松の海岸で波打ち際に穴を掘り、石膏を流し込んで「〈構成〉から」のように材木を組み立て、火を放った。埼玉県立近代美術館の建畠館長はこれを「彫刻の火葬ともいうべき儀式」と述べているが、端から見ていたぼくには、これまでのシリーズにひと区切りつけるんだという決意が伝わってきた。

その翌年から始まるのが、現在につながる「森」のシリーズだ。角材の底部をそのまま残し、上部をチェーンソーで無数の切り込みを入れていくもので、それまで抑えていた表現主義的なイメージが立ち現われてきた。そのイメージを戸谷は森に覆われた山に喩えている。山の輪郭は遠くから見れば森の樹冠によってかたちづくられるが、いざ山に入ると地面から樹冠までに大きな空間がある。山に限らず、たとえば肌にもシワがあるように、ものの表面には幅がある。彫刻は立体だが、表面を彫り刻むことで成り立つし、鑑賞者も削られた表面しか見ない。だからチェーンソーで削って凹凸をつけることで表面の幅が表わせるのではないかと。

それからは、石膏を用いた「地下の部屋」シリーズ(1984)を例外として、チェーンソーを使った彫刻のヴァリエーションをさまざま生み出していく。厚めの板に溝を彫って象の肌のようにしたり、反対側まで突き抜けるほど深く切り込みを入れた角材を並べたり、それを小屋のように組み立てて内部に入れるようにしたり、削るときに出たかけらを集めて壁や床に並べたり……。その刺々しく毛羽立つ表面は森のようでも、象の肌のようでも、ゴジラの背中のようでも、水の流れのようでもある。ちょうど無数のイボイボを見たときゾッとするように、あるいはフラクタル図形を見たとき吸い込まれるように、それらは見る者の心をザワつかせる。

出品はドローイングや記録映像なども含めて計40点。学生時代の人体彫刻に始まり、彫刻の原理を問い直した《POMPEII‥79 Part1》(1974/87)を経て、「〈彫る〉から」「〈構成〉から」の連作と続くが、この2シリーズは拍子抜けするほど数が少ない。ていうか、「〈構成〉から」シリーズの《レリーフ》(1982)1点のみ。ぼくにとっては戸谷の原点ともいうべきシリーズだが、実験的な意味合いの強い過渡的作品なので残していないのだろう。

ここまでで11点、彫刻だけだと5点のみ。以後は「森」シリーズ以降の作品に占められている。角材を象の肌のように削って並べた《森の象の窯の死》(1989)、角材の内部をくり抜いて裏側に開いた弾痕のような穴を見せる《地霊Ⅲ-a》(1991)、内面に切り込みを入れた墓室を思わせる小屋状の《《境界》からⅢ》(1995-96)、地下1階のセンター・ホールに置いて内部の凹凸を上から見られるようにした《洞穴体Ⅴ》(2011)など、大作を中心とした展示。出口で「もう終わり?」と思ってしまうほど会場が狭く感じられたのは、1点1点の作品の存在感が大きかったせいか。見終わってこんなに充実した気分になった展覧会は久しぶりだ。


公式サイト:https://pref.spec.ed.jp/momas/2022toya-shigeo

2023/04/16(日)(村田真)

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開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会

会期:2023/04/19~2023/09/24

森美術館[東京都]

なんだと? 現代美術を国語、算数、理科、社会などの科目に分けて紹介する? しかも出品作品の約半数が同館のコレクションだと? いよいよ森美術館もネタに尽きて子どもだましの企画に走ったか……と思ったが、実際に見てみたら、確かに取ってつけたようなテーマでまとめたり、総花的に紹介したりするより、このほうが圧倒的におもしろいし、わかりやすい。なんだ、すっかり術中にハマってしまったではないか。

科目は国語算数理科社会に、哲学、音楽、体育、総合を加えた8科目。出品作家は計54組だが、社会だけ19組と飛び抜けて多く、全体の3分の1強を占めている。これは社会的テーマを扱った作品が多いということで、森美術館の志向・嗜好を反映したものだ。興味深いのは、どの作品がどの教科に分類されているかだ。

「国語」は、シャベルを実物、写真、言葉によって表わしたジョセフ・コスースの《1つと3つのシャベル》(1965)や、著名人の原稿を本人の眼鏡越しに撮った米田知子の「見えるものと見えないもののあいだ」シリーズなど、やはり文字や言葉が出てくる作品が多い。でもコスース作品は、ものとイメージと概念について考えさせるという点で「哲学」のほうがふさわしいかも。

「社会」は、社会彫刻を提唱したヨーゼフ・ボイスの《黒板》(1984)から、インドネシアのコレクティブ、ジャカルタ・ウェイステッド・アーティストが集めた商店の看板まで幅広い。そういえば、巨大な黒板にチョークでびっしりメッセージを書き込んだワン・チンソン《フォロー・ミー》(2003)は「国語」なのに、ボイスの《黒板》が「社会」に入っているのは単に文字が少ないからだろうか。おや? と思ったのは、森村泰昌がマネの《オランピア》の登場人物に扮して写真にした《肖像(双子)》(1989)と《モデルヌ・オランピア2018》(2017-2018)の2点があること。前者は白人と黒人の女性をそれぞれ日本人男性が扮することの違和感が焦点だったが、30年近い年月を隔てて制作された後者では、明らかにジェンダー、人種、身分といった社会的な差別問題が強調されているからだと解釈すべきか。

「哲学」も悩ましい。現代美術は基本的に哲学なしに成り立たないから、この科目は入れないほうがよかったかもしれない。豆腐の表面にお経を書いていくツァイ・チャウエイの映像《豆腐にお経》(2005)は、分類するなら「哲学」より「国語」ではないか。1万個のLEDが9から1までカウントする宮島達男の《Innumerable Life/Buddha CCICC-01》(2度目のCCは裏返し)(2018)は、端的にいって「算数」だろう。いちばん首を傾げたのは、目を瞑る少女を描いた奈良美智の《Miss Moonlight》(2020)。確かに少女は沈思黙考しているようだが、「本作の持つ精神性やある種の神聖さはマーク・ロスコの絵画にも通じ、その作品と対峙する体験は、自己の精神との対峙を促すとも言える」との解説は言いすぎだろう。

突っ込んでいけばキリがないが、最後に思ったのは「美術」という科目がないこと。もちろんすべて「美術」だから入れる必要はないだろうけど、でもひょっとしたら、ここには「美術」の名に値する作品がないからだったりして。まさかね。


公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/02/index.html

2023/04/18(火)(村田真)

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隣屋『66度33分』

会期:2023/04/22

都内某所[東京都]

非日常も続けば日常となる。多くの人はただ、そうやって慣れることで、あるいは慣れたふりをすることで日々をやり過ごしている。だが、誰もがそれを日常として受け入れることができるわけでも、慣れることができるわけでもない。

隣屋『66度33分』(作・演出:三浦雨林)の舞台は「地球が分厚い雲に覆われて、太陽の光が届かなくなってしまった世界」。ツヨシ(永瀬泰生)、やまのり丸(杉山賢)、いりーにゃ(谷陽歩)の三人が結成した「終末料理倶楽部」は夜に閉ざされ食糧事情が悪化した世界で「いつが最期になるかわからないから」と料理番組の配信を続けている。タイトルは北緯66度33分以北が北極圏と呼ばれることに由来するものだろう。極夜と呼ばれる期間、北極圏に太陽が昇ることはない。原型となった短編版の初演は2016年。今回は2020年に、つまりはコロナ禍の最中にInstagramでライブ配信された1話30分、全3話のバージョンをオンサイトで上演した。


[撮影:三浦雨林]


第一話「お別れパーティ」が描くのは朝が来なくなってから3年後。第752夜目の配信となるその日のメニューは餃子だ。いまや貴重なものになってしまった肉を使ったメニューが選ばれたのは、その日がいりーにゃのお別れ壮行会だかららしい。明けない夜と積み重なっていくさよならの多さに耐えられなくなってしまったいりーにゃは「地球上のどこかにはまだ陽の光の射す場所があるんじゃないか」と旅に出ることを決意したのだという。三人で餃子を食べた次の朝、いりーにゃは部屋を出ていく。

第二話「雪」では世界の状況は緩やかに悪化している。都市部だけでなく、やまのり丸たちが住む郊外もだいぶ治安が悪くなってきているらしい。移住の話を持ち出すやまのり丸と、配信中だからとそれをいなそうとするツヨシ。やまのり丸は出て行くいりーにゃを止めようとしなかったツヨシにわだかまりを抱えたままこの2年を過ごしていた。「いまのままの生活続ければいいよ」というツヨシに「続かない。続けられない」と返したやまのり丸はついに出て行ってしまう。第1482夜目につくられた魚のホイル焼きをやまのり丸が食べることはない。


[撮影:三浦雨林]


1話ずつの配信だったという2020年の上演を見た視聴者は、配信として切り取られた時間の外側の、画面に映し出されることのない三人の時間に思いを馳せることになっただろう。画面の向こうで一人二人と減っていく終末料理倶楽部の面々に視聴者ができることはコメントを送ることくらいしかない。画面越しの別れとその悲しみは遠く、視聴者は無力だ。少しずつ減っていく視聴者に終末料理倶楽部の面々ができることもまた、配信を続けることくらいしかない。

第三話「温かいことの悲しさ」。第2554夜目となるその夜を越えるとついに朝がやって来るらしい。ひとり残されたツヨシはそれでも誰かが見てくれると思って毎日配信を続けてきた。しかしもはや誰かからコメントが返ってくることもない。これまでの配信のことを、いりーにゃとやまのり丸のことを思い出すツヨシ。最後の晩餐はピーマンの肉詰め。最初の配信と同じメニューだ。食べ終えたツヨシは、家とそこにある食料やパソコンなどの「生きるために必要なもの」をいつか来るかもしれない誰かに残し、そしてそこを出ていく。

今回はアパートの一室を公演会場に、つまりは配信の収録現場に観客が居合わせるようなかたちで、しかも3話が連続して上演される形式となったため、観客が作品の外側にある時間に思いを馳せるような余白はやや減じてしまったのではないかと思う。今回のオンサイト上演で代わりに観客が思いを馳せることになるのは、アパートの外に広がる、そしてやがて三人が出ていく夜の世界だ。観客は終末料理倶楽部の面々と同じように別離を体験し、そして最後には誰もいなくなった部屋に観客だけが、終末料理倶楽部の残した気配とともに取り残される(それは例えばピーマンの肉詰めの匂いだ)。やがて観客も出ていくことになる外の世界に、果たして光は見つかるだろうか。

3話のそれぞれが描き出すのは、夜に覆われた7年のうちでも特に劇的な出来事が起きた夜と言えるだろう。料理は日々の営みであり、同時に生と死に関わる営みでもある。特に劇的な出来事がなくても、そしてたとえ劇的な出来事が起きてしまっても、日々は、ぼんやりとした不安に覆われた世界は続いていく。


[撮影:三浦雨林]


隣屋は6月23日(金)から25日(日)に東京都荒川区西尾久で開催される芸術祭「NEO表現まつり」で『ぼく』を上演予定。この作品は俳優が実際に過ごしてきた時間を辿るひとり芝居とのこと。「NEO表現まつり」では三浦個人の写真作品の展示も行なわれる。また、6月9日(金)から11日(日)には、11月に公演が予定されている青年団リンク キュイ短編集『非常に様々な健康の事情』の関連企画として、三浦が演出を担当する『不眠普及』のワークインプログレスがBankART stationで予定されている。


隣屋:https://tonaliya.com/
隣屋twitter:https://twitter.com/nextdooor/

2023/04/22(土)(山﨑健太)

マティス展

会期:2023/04/27~2023/08/20

東京都美術館[東京都]

近代絵画のなかで「わかりにくい」画家というのが何人かいる。その代表がセザンヌとマティスだ。このふたりは近代美術史上きわめて重要な地位を占める割に、日本では同時代のモネやピカソほどの人気はない。要するに「通好み」なのだ。

このふたりに共通するのは、ここだけの話だが、絵がヘタなこと。もちろんヘタといっても、マティスの場合ライバルとされるピカソに比べればということで、今回の展覧会冒頭に展示されている《読書する女性》(1895)を見れば、いちおうアカデミックな描写力を備えていることはわかる。でも見るたびに、なんでこんな雑な塗り方をするんだろうとか、なんでこんな不細工なデフォルメをするんだろうとか、いちいち気になるのだ。でもひょっとしたら、マティスはピカソほど画力がなかったからこそ、色彩表現と対象描写という両立しがたいふたつの要素を結びつけることができたのかもしれない。なーんて思ったりもする。

今回の出品作品は、パリのポンピドゥー・センター(国立近代美術館)から借りてきたもの。会場に入ると、おお《豪奢、静寂、逸楽》(1904)があるなあ、《豪奢Ⅰ》(1907)も来ている。でもヘッタクソだなあ、と見ていくと、《金魚鉢のある室内》(1914)《コリウールのフランス窓》(1914)《アトリエの画家》(1916-17)《窓辺のヴァイオリン奏者》(1918)が並ぶ一画で足が止まった。みんな窓を描いている。窓はそれ以前にも《サン・ミシェル橋》、以後も《ニースのシエスタ、室内》などにも登場するので珍しくないが、この4点はいずれも第1次大戦中の制作(1914-18)。



展示風景 左:《アトリエの画家》 右:《金魚鉢のある室内》  [筆者撮影]


《金魚鉢のある室内》と《アトリエの画家》はセーヌ河岸のアトリエ風景で、いずれも右上の窓から外の景色が見えている。前者の金魚鉢はガラス製で水をたたえているので、ガラス窓の向こうのセーヌ川と水色でつながっているように見える。後者は画家と女性モデルとイーゼル上の絵が描かれているが、着衣のモデルは画中画と合わせてダブルで登場し、画家のほうは男性らしいが、なぜか裸のようだ。着衣の男性画家と、ヌードの女性モデルという従来の立場が入れ替わっている。

一方《コリウールのフランス窓》と《窓辺のヴァイオリン奏者》は、どちらも観音開きのフランス窓を正面から描いている点では同じだが、中身はまるで違う。前者は、左右を青白色と緑白色および灰色の帯が縦に走り、開口部に当たる中央が黒く塗り込められ、ほとんど抽象絵画。いわれてみれば確かにフランス窓だが、だとすれば窓の外は真っ暗闇なのか。この絵が制作されたのは1914年。第1次世界大戦が始まった年であり、マティスがパリを逃れて南仏コリウールに一時的に滞在したときの作品だ。そんな暗黒時代に暗い気分で描いたから真っ黒なのだ、といわれて真に受けるほど素直ではないけれど、つい納得したくなる。ちなみに「フランス窓(フレンチ・ウィンドウ)」をもじったマルセル・デュシャンの《フレッシュ・ウィドウ》(なりたての未亡人)も、窓のガラス部分を黒くして向こう側を見えなくしている。デュシャンはマティスを参照したのだろうか。



展示風景 左:《コリウールのフランス窓》 右:《窓辺のヴァイオリン奏者》  [筆者撮影]


もうひとつ、1914年といえば、カンディンスキーとモンドリアンが抽象絵画に至った時期でもある。マティスは最後まで再現描写を捨てなかったので、本作を抽象と見るのは無理があるが、多くの芸術家が抽象に向かっていた時代であることは事実だろう。

《コリウールのフランス窓》が開戦の年なら、《窓辺のヴァイオリン奏者》は終戦の年の作品。前者の中央の黒い部分が明るくなり、そこにヴァイオリンを弾く人物の立ち姿が描かれている。この一夜明けたような明るさを、未曾有の戦いが終わったことと関連づけるのは単純すぎるだろうか。それにしてもこの奏者は《アトリエの画家》の画家と同じく斜め後ろ向きで、なんでここまでヘタに描く必要があるのかと訝るほどデフォルメされている。

この4点の前で足が止まったと述べたのは、窓が描かれているからというだけでなく、実はこれらの額縁がほかに比べて装飾のないシンプルなものだったからでもある。シンプルな額はほかにもあるが、この連続する4点の額がまとまってシンプルだったのは偶然とは思えない。西洋ではしばしば絵画は窓にたとえられるが、それは世界を四角く切り取って(フレーミング)向こうを見通す装置だからだろう。だとすれば、窓を描いた絵に額縁(フレーム)をつけるのは屋上屋を架すようなものではないか。そう考えてこれらの作品はシンプルなフレームに抑えたのではないかと想像するのだ。ポンピドゥー・センターの見識というものだろう。


公式サイト:https://matisse2023.exhibit.jp/

2023/04/26(水)(村田真)

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桜を見る会

会期:2023/04/08~2023/04/29

eitoeiko[東京都]

新宿御苑での集会が中止になった2020年から、会場を同じ新宿区内のeitoeikoに移して(?)開催されている「桜を見る会」も、早4回目。ただ桜の開花が年々早まっているため、開催時にはもう花は散っているが、花見をしそこなった人には絶好のチャンス(なわけないか)。今年はメキシコからの2人を含めて7人の展示。

初登場のMESは、国会議事堂の外壁に強力なレーザーポインターを使って巨大な中指を立ててみせた。中指を立てるのはアイ・ウェイウェイやマウリツィオ・カテランらが作品化しているし、建物に批判的プロジェクションをする試みもウディチコやゼウスがやっているので珍しくないが、さすがに国会議事堂に中指というのは初の快挙といっていいだろう。なぜこんなことができたのかというと、中指を立てたかたちをそのまま映し出すのではなく、あらかじめ中指の輪郭線をプログラミングしたレーザーポインターで数秒かけて描き出したからだ。それを数秒間の露光で撮影すれば中指が浮かび上がるって仕掛け。もちろん何度も試し描きできるわけではないので、周到な準備を重ねたうえでの行動だったことがわかる。

「桜を見る会」常連の(というとアレだが)岡本光博の作品は、相変わらず冴えている。今回は「表現の不自由展」をテーマにした2点で、ひとつは「表現の不自由展 中止に」という朝日新聞の記事をプリントしたボックスの上に、3台のミニチュア街宣車を置いたもの。街宣車の車体には旭日旗や日本地図が(北方四島だけでなく千島列島も)描かれ、ナンバープレートには実際に会場に押しかけた街宣車のナンバーが極小数字で記されている。その隣には「有罪確定 ろくでなし子不屈」の新聞コピーをプリントしたピンク色のボックスを並べており、ろくでなし子が「表現の不自由展」から外されたことへの不満の表明と見ることもできる。



展示風景 岡本光博作品 [筆者撮影]


藤井建仁による安倍元首相夫妻の鉄面皮彫刻は、第8回岡本太郎現代芸術賞展(2004)で準大賞を獲得した作品の一部。どうりで髪型は若いが、人相は相変わらずよろしくない。併せて、コロナ禍のひきこもり生活で安倍氏が星野源の曲に合わせて撫でていた愛犬も彫刻化。今回はメキシコからも、日本の招き猫とメキシコの心臓を合体させて桜色に染めたイレアナ・モレノ、手彩色のエロマンガを陶器に焼きつけたアレハンドロ・ガルシア・コントレーラスが出品。ふたりとも展覧会の意図をよくわかっているようだ。


公式サイト:http://eitoeiko.com/exhibition.html

関連レビュー

桜を見る会|村田真:artscapeレビュー(2022年06月01日号)

2023/04/28(金)(村田真)

2023年06月01日号の
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