artscapeレビュー

2023年12月15日号のレビュー/プレビュー

大正の夢 秘密の銘仙ものがたり展

会期:2023/09/30~2023/12/24

弥生美術館[東京都]

もう十数年前になるが、私が着物にハマるきっかけをつくってくれたのが銘仙だった。着物好きの友人らに連れられてたまたま入ったアンティーク着物店で、ひと目惚れしたのである。その艶感のある生地や鮮やかな色柄に、その頃、着物にさほど興味がなかった私でも心惹かれたことを覚えている。本展のチラシにも「アンティーク着物ブームの牽引役」と記されているように、銘仙は平成・令和の“大人女子”にも、大正・昭和初期の女学生にもときめきを与え続ける着物なのだろう。現に会場では銘仙の着物姿で来館する女性たちをたくさん見かけた。


展示風景 弥生美術館


本展では、銘仙蒐集家・研究家の桐生正子が保有するコレクション約600点のなかから厳選された約60点の銘仙を観ることができる。銘仙とは絣の手法を用いた平織りの絹織物の一種のことで、着物のなかでもカジュアルな普段着やお洒落着に当たる。総覧すると、改めて銘仙の色柄の斬新さを思い知った。大きな格子の上に西洋花や蝶、孔雀の羽などが配された文様をはじめ、アメリカン・アールデコ風、ロシア・アバンギャルド風、カンディンスキー風など、当時、貪欲に西洋の文化を取り入れた様子が伝わってくる。驚いたのは、「エリザベス女王戴冠式文様」である。それはウェストミンスター寺院や華やかな王冠が大胆にレイアウトされた着物だった。1953年に遙か遠くの英国で行なわれた出来事さえも文様として取り入れたのだ。


エリザベス女王戴冠式文様女児四つ身(1953-54)


こうした背景には、1904年にセントルイス万国博覧会を見学した図案家や染織業者が西洋花を文様に取り入れるようになったこと、大正末期から化学染料が導入され、より鮮やかな発色が可能になったことなどがあるという。また何より大正デモクラシーが吹き荒れる世の中で、女性解放運動が盛んになり、女学生たちも大いに触発されたことが大きいのではないか。彼女たちは最先端のファッションを積極的に求め、それに応えたのが銘仙だった。同時代には洋装のモガが銀座を闊歩したと言われるが、それはごく一部の女性に限られ、実のところ銀座を歩く大半の女性たちが身にまとっていたのは銘仙だったという。誤解を恐れずに言えば、銘仙は着物におけるパンクファッションやストリートファッションだったのではないか。現代では正月や成人式などハレの場でしか着る機会がなくなり、着物全般が保守的な傾向にあるが、銘仙には普段着だったからこそ花開いた自由で闊達な精神があった。


市松格子に孔雀羽柄の着物+袴[撮影:上林徳寛]


格子にアゲハの着物 帯留には女学校から贈られた校章入り[撮影:上林徳寛]



大正の夢 秘密の銘仙ものがたり展:https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yayoi/exhibition/now.html

2023/12/06(水)(杉江あこ)

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もじ イメージ Graphic 展

会期:2023/11/23~2024/03/10

21_21 DESIGN SIGHT ギャラリー1&2[東京都]

漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、アラビア数字、漢数字と種類が圧倒的に多く、組み方も縦組と横組、さらにルビ振りまであり、日本語の文字は世界でも稀に見るほど複雑だ。かつてデザイン誌で記事を書いていた頃から、私はこの投げかけをずっとしていた。本展ではこうした背景を踏まえつつ、DTPが台頭し始めた1990年代以降のグラフィックデザイン現代史を紐解いていく。


展示風景 21_21 DESIGN SIGHTギャラリー1[撮影:木奥恵三]


そもそも西洋諸国が母国語を書き表わす欧文体は、文字の種類や数が限られているうえ、文字自体が意味をもたない表音文字である。代わりに彼らは書体の種類を豊富にもち、書体を使い分けることで、文字自体に意味をもたせようとする。一方で日本語の仮名に意味はないが、漢字に意味はある。つまり日本は表音文字と表意文字の両方を母国語にもつ国なのだ。漢字の国、中国には表意文字しかない。我々日本人はこうした状況に何の違和感も感じていないが、日本のグラフィックデザイナーは、程度の差こそあれ、つねに複雑さと格闘しながら文字をコントロールし表現してきたに違いない。


展示風景 21_21 DESIGN SIGHTギャラリー2[撮影:木奥恵三]


DTPの登場により、印刷入稿までの作業は楽になったのかもしれないが、果たして表現の幅は広がったのだろうか。本展のギャラリー1に展示された、1990年代以前のポスターなどのグラフィックデザイン作品を眺めて改めて思案する。コンピューターがない頃はないのが当たり前で、グラフィックデザイナーは自らの手でいくらでも工夫してはさまざまな表現に挑んでいた。1990年代以降、グラフィックデザイン表現が過渡期を迎え、さらにデジタルメディアやグローバル化への対応が課せられて、技術は進んだが、むしろ彼らにとっては困難な状況となったのかもしれない。ギャラリー2から展開される約50組のクリエイターによる作品を眺めながらそう感じてしまった。新たな表現を楽しんでいるとも言えるが、もがいているようにも映る。文字とビジュアルとを一体化させた表現や、フォントから脱した手書き風文字、一種のノスタルジーを誘う看板文字など、日本語の文字表現が混迷をきわめているように思えるのだ。そんな見方をするのは私だけだろうか。もちろん複雑であればこそ、豊かで面白い表現が可能にもなる。混迷する道を通り抜けた後、21世紀の日本でもしかすると世界が見惚れるグラフィックデザイン表現が開花するのかもしれない。


展示風景 21_21 DESIGN SIGHTギャラリー2[撮影:木奥恵三]



もじ イメージ Graphic 展:https://www.2121designsight.jp/program/graphic

2023/12/06(水)(杉江あこ)

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「現代ストレート写真」の系譜

会期:第一部:2023/12/06〜2023/12/24~ 第二部:2024/01/06〜2024/01/28

MEM[東京都]

「現代ストレート写真」という本展のタイトルに、やや違和感を感じる人もおられるのではないだろうか。今回の出品者は、潮田登久子、牛腸茂雄、佐治嘉隆、関口正夫、三浦和人の5名である。1960年代に桑沢デザイン研究所で学んだ彼らの作品については、「コンポラ写真」という枠組みで論じられることが多い。だが、1966年にアメリカ・ニューヨーク州ロチェスターで開催された「Contemporary Photographers: Toward a Social Landscape」展に起源を持つとされる「コンポラ写真」については温度差があったようだ。自分たちの写真を「コンポラ写真」としてひとつに括られたくないという思いが「現代ストレート写真」という言い方につながっていった。

桑沢デザイン研究所で彼らを指導していた大辻清司は、口絵ページの構成を担当した「写真 ●いま、ここに─」(『美術手帖』臨時増刊、1968年12月)で、「ストレート・フォトグラフィー」という言葉を用いている。報道写真や戦争写真を含むかなり広い意味で使われてはいるが、その章には「初心の写真」「記念と思い出」という項目もあり、大辻が「コンポラ写真」を定義した「カメラの機能を最も単純素朴な形」で使い、「写真の手練手管」を拒否して「日常ありふれた何げない事象」に向かうという写真のあり方を見ることができる。「現代ストレート写真」という言い方は、「コンポラ写真」のもっとも本質的な部分を体現したものともいえるだろう。

本展の出品作家たちの作品をあらためて見直すと、それぞれの個人的な問題意識を踏まえつつ、同時代の社会状況に「ストレート」に向き合っていこうという意欲を強く感じることができる。もともとデザインを学んでいたこともあり、被写体を切り取り配置する技術レベルも一様に高い。いわゆる「コンポラ写真」を、現時点でもう一度再構築していく第一歩にふさわしい展示になっていた。なお、本展の第一部では主に彼らの1960年代後半から70年代の写真が、第二部ではそれ以後の仕事がフォローされる。


「現代ストレート写真」の系譜:https://mem-inc.jp/2023/11/12/jsp_j/

2023/12/07(木)(飯沢耕太郎)

フランソワーズ・ダステュール『死──有限性についての試論』

翻訳:平野徹

発行所:人文書院

発行日:2023/10/30

哲学にとって「死」は最大のテーマのひとつである。というのも、あらゆる人間に等しく訪れるものでありながら、けっして一人称的には経験しえないただひとつのものが、自分の死であるからだ。死を経験するとき、そこにおのれの意識はすでにない。わたしたちが死について知っているすべてのことは、ほかの人間、ほかの生物を通じて得られた二次的なものでしかない。このような対象を前にして、哲学が語りうることは何だろうか。宗教的な語りとも、生物学的な語りとも異なる、いかなる語りがそこでは可能だろうか。

むろん、古来より死についてはさまざまなことが書かれてきた。そうした過去の言説もふまえながら、この問題に正面から取り組んだのが本書『死──有限性についての試論』である。著者フランソワーズ・ダステュールは1942年生まれのフランスの哲学者であり、独仏の現象学をおもな専門としている。まず強調しておきたいのだが、彼女にとって死をめぐる省察はけっして余技に属するものではない。ダステュールの著作一覧には、本書のほかに死をテーマとする専門書が数冊、および子どもを対象とする、同じテーマについての平易な入門書がある(邦訳『死ってなんだろう。死はすべての終わりなの?』伏見操訳、岩崎書店、2016)。ここからわかるのは、ハイデガー、フッサール、メルロ゠ポンティらについて数多くの書物を著してきたこの哲学者にとって、死が一貫して問われるべきテーマでありつづけてきたということだ。

あらかじめ注意をうながしておくと、本書は死をめぐる包括的な哲学史ではない。ダステュールがこのテーマに取り組むにあたってもっとも頻繁に依拠するのが、著者が一番の専門とするマルティン・ハイデガーである。より積極的に言えば、死をめぐる本書の立場は、ハイデガーの思想を展開するかたちで練り上げられたものだと言ってよい。その核心をもっとも端的な言葉で言い表わすなら、おおよそ次のようになる──すなわち、死という乗り越え不可能な出来事に臨むことでのみ、われわれの生の可能性は開かれるのだ、と。

このような考えには、実のところ、まったく意外性はないだろう。あらゆる人間が、ただひとりの例外もなく固有の生をもつのは、われわれがみな死すべき存在であるからだ。人間は、理念としての永遠性や不変性とは無縁な存在であるからこそ、逆説的におのれの生を唯一無二のものとすることができる。ハイデガーこそは、こうした「死すべき存在」としての人間に、もっとも積極的な意味を与えた哲学者にほかならなかった。

ダステュールにおいても、死はけっして否定的なものとはみなされていない。むしろ、死はわれわれが世界へと開かれることを可能にする、唯一無二の地平である。とはいえ、こうした結論だけならば、前掲の子どもむけの本を読んでもそう変わりはないことになる。むしろ本書の読みどころは、そうしたありきたりの結論ではなく、その過程で示される著者の繊細な筆運びにあると言ってよい。例えば、通常「死にむかう存在(être pour la mort)」と訳されるハイデガーのSein zum Todeは、「死にかかわる存在(être relatif à la mort)」とすべきだと著者はいう(151頁、註25)。なぜなら、人間を前者のように──死に「むかう」存在として──捉えることは、死が悪しきものであるという一面的な見かたを暗黙のうちに前提してしまうからだ。こうしたケースに見られるように、本書は、古今のさまざまなテクストを誠実に読みなおすことで、死をめぐるわれわれの思索をより深いところにいざなってくれる。

なお、昨今では死をめぐる思索が「後景に退いている」(9頁)という指摘に、評者もまた同意するものである。もちろん、死が人間にとって縁遠いものになったわけではまったくない。だがその一方、「終活」にまつわるさまざまなビジネスの存在が雄弁に物語るように、われわれの社会生活においては、個々の実存的な死もまたすでに産業的なサイクルのなかに取り込まれている。そのような現代にあって、死が「忘却のなかに落ちこんでいる」(284頁)という著者の実感は広く共有されているにちがいない。全体を通じてきわめて専門的な議論からなる本書が、現代の生のありようをめぐる身近な問題意識に支えられていることは、やはり特筆しておきたい。

2023/12/11(月)(星野太)

カール・ジンマー『「生きている」とはどういうことか──生命の境界領域に挑む科学者たち』

翻訳:斉藤隆央

発行所:白揚社

発行日:2023/07/12

生命をめぐる学問の歴史は古い。とりわけ自然科学が大きく発展したこの数世紀のあいだ、生命の起源や発生をめぐる問題は、科学者たちの大きな関心事でありつづけてきた。本書は、そんな科学者たちの苦闘を、精力的な取材と魅力的な筆致によって描き出した労作である。著者カール・ジンマー(1966-)は、進化や寄生といったトピックを得意とする高名なサイエンスライターであり、本書でもその手腕は遺憾なく発揮されている。

本書には、さまざまな方法で生命にアプローチする古今の科学者たちが登場する。そのなかには、チャールズ・ダーウィン、トマス・ハクスリー、エルンスト・ヘッケルといった誰もが知る人々に加えて、かつて生命の謎を明らかにしたという名誉に浴しながら、今では歴史の闇に埋もれてしまった科学者たちも含まれる。例えば、本書のはじめに登場する物理学者ジョン・バトラー・バークは、20世紀はじめに生命を生み出す元素を発見したと公表し、一時は英国でもっとも知られる科学者となった。その論文は『ネイチャー』にも発表され大きな話題をよんだが、バークが発見したと称する「レディオーブ」なる元素が存在しないとわかると、その後の人生は転落の一途をたどった。著者によれば、晩年にバークが著した「怪しげな大著」(17頁)である『生命の発生』(1931)には、ほとんど悲痛にも感じられる次のような定義が見られるという──「生命とは生きているものだ」(18頁、傍点省略)。

本書が類書とくらべて際立っていると思われるポイントのひとつは、生命とそうでないものを隔てる基準が、しばしばそれが要請される社会的場面に応じて決定されることを抜かりなく指摘していることだろう。本書第1部「胎動」において、脳死や中絶をめぐる論争が取り上げられることの意義はそこにある。こうしたケースは、「生命とは何か」という問いが、かならずしもその起源や発生を問うこととイコールではないことを明瞭に伝えてくれる。

加えて、本書では歴史にたずねるだけでなく、生命をめぐる同時代の研究成果を紹介することも怠っていない。本書に登場する「生命」のかたちは、ヒト、ヘビ、コウモリ、さらには粘菌、ヒドラ、クマムシにいたるまで、きわめて多岐にわたる。本書は最終的に、生命の定義可能性をめぐる哲学的な議論によって締めくくられる(とりわけ、物理学者から哲学者に転じたキャロル・クリーランドの議論は示唆に富む)。だが、そのパートが説得的に見えるとしたら、数学から宇宙生物学にいたるさまざまな分野の研究者に取材した、それまでの長い道のりがあるからだろう。全体にわたり読者を飽きさせない工夫に満ちた本書は、「生命とは何か」という広大な問いをあくまで具体的な事象に即して考えるにあたり、豊かな材料を提供してくれる。

2023/12/11(月)(星野太)

2023年12月15日号の
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