2018年12月01日号
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artscapeレビュー

山口小夜子 未来を着る人

2015年06月01日号

会期:2015/04/11~2015/06/28

東京都現代美術館[東京都]

むかし、一龍斎貞水の講談を演芸場で見たとき、不思議な体験をした。演目は「徂徠豆腐」で、貞水が御用学者の徂徠と彼の貧しい時代の恩人である豆腐屋の男を演じ分けていたところ、ふと貞水の口元を見やると、どういうわけか歯が欠けているように見えたのだ。先ほどまではしっかりとした歯並びだったのに、いつのまにか上の歯が一本抜けている。あるいは、単なる眼の錯覚だったのかもしれない。けれども、豆腐屋の男が貞水を乗っ取ってしまったのではないかと勘ぐるほど、その日の貞水の講談は確かに熱を帯びていた。あれはいったい何だったのか、いまだに解決しがたい謎として、いまも心の奥底に残されている。
本展とまったく関係のない講談の話から始めたのは、ほかでもない。本展で発表された山川冬樹の映像作品が、まさしくそのような謎を喚起する作品だったからだ。映像に映されているのは、被災地である福島。そこを、白い仮面を被って小夜子に扮した山川がさまよい歩く。むろん、仮面であるから、じっさいの顔の輪郭と正確に重なっているわけではなく、不自然な印象は禁じえない。にもかかわらず、人影の見当たらない海岸や森のなかを彷徨するその姿を見ていると、山口小夜子本人なのではないかと直感する瞬間が幾度となくあった。
鑑賞者の心を撃つ、その瞬間はいったい何なのか。仮面は緻密な再現性を追究して造形化されているわけではないので、外形的な印象に由来しているわけではあるまい。山口小夜子本人を知っているわけでもないので、記憶の重力がイメージを引きつけたわけでもなかろう。あるいは貞水の豆腐屋のように、物語という明確な輪郭のなかに挟まれていれば、その一貫性のある前後関係が鑑賞者の視覚を偏らせることもあるのかもしれない。だが山川の作品は、全編にわたってモノローグが映像に重ねられていたように、定型をもたない散文詩のような構成である。物語の構造がイメージを実体のように見せたとは到底考えられない。
むろん、降霊現象のようなオカルトめいた話に落ち着かせたいわけではない。しかし、山川のパフォーマンスは、少なくとも、あの一龍斎貞水と同じ水準まで熱が入っていたことは間違いない。その熱の入れ方は異なるはずだが、鑑賞者の視線をさらうほどの熱量を投入することは、おそらく芸能であれ芸術であれ、優れた芸の基本的な条件だったはずだ。視線のアブダクションを体験できるパフォーマンスである。

2015/05/17(日)(福住廉)

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