artscapeレビュー

北アルプス国際芸術祭2017 ~信濃大町 食とアートの回廊~ その1

2017年08月01日号

会期:2017/06/04~2017/07/30

大町市内各所[長野県]

長野県大町市を舞台とした芸術祭の初回。総合ディレクターに北川フラムを迎え、国内外のアーティスト36組による作品を、市街地をはじめ大町ダム、青木湖、温泉街などに展示した。同じディレクターであるため必然的に「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」や「瀬戸内国際芸術祭」と比較しながら鑑賞することを余儀なくされるが、何よりも特徴的なのは、その開催規模である。先行する2つの国際展とは対照的に、本展の会場は比較的小規模なエリアに限定されており、ちょうど1泊2日で十分に回遊できるほどだ。アーティストも少数精鋭に絞られており、その点ではいくぶん物足りない印象を覚えなくもないが、開催エリアが狭い割には、山間部から市街地まで、あるいはダムから湖まで、それぞれ抑揚があるため、決して飽きることはない。
とはいえ、個別の作品についてはある種の限界を痛感させられたのも事実である。美術館のホワイトキューブではない野外や山村集落、あるいは古民家などで発表される作品は、いまやはっきりと類型化されつつあるように感じられたからだ。例えば、無数の木の枝を組み合わせることで台風のような渦巻状の構築物を森の中に出現させたリー・クーチェの作品や、竹林から切り出した竹を地元住民と共に垂直状に組み上げたニコライ・ボリスキーの作品は、いずれも自然の素材を改変することによって自然の風景を美しく異化するもので、これは越後妻有でたびたび眼にしてきた作品と同じ傾向にある。あるいは、神社の境内に向かう橋の上に霧のリングをつくったジェームズ・タップスコットの作品と、森林劇場の舞台に自然と人工が融合したような不思議な音楽装置をつくったマーリア・ヴィルッカラの作品は、いずれもミストを発生させている点で共通している。「水」という風土を過剰に意識したのかもしれないが、これは、規模こそ異なるとは言え、否が応でも中谷芙二子の《霧の彫刻》を彷彿させてやまない。少なくとも素材技法の面で言えば、芸術祭で歓迎される作品はいまや芸術祭という形式に最適化されつつあるのではないか。

芸術祭にふさわしい作品。そのもっとも典型的な事例が、目だ。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2015」をはじめ、「さいたまトリエンナーレ2016」など、近年国際展や芸術祭に精力的に参加しているクリエイティブ・チームである。今回発表した《信濃大町実景舎》は、市街地を見下ろす山腹に建つ古民家の内部を漆喰で塗り固めることでコクーンのような空間に仕立て上げたもの。来場者は狭く、細く、そして緩やかに曲げられた導線を進みながら、非日常的な空間を体験するというわけだ。事実、多くの来場者がまるで遊園地を訪れたかのように歓声を上げながら楽しんでいた。市街地の景観自体は変わらないにせよ、この白い空間から見晴らすと、視線が鮮やかに更新されたように錯覚するという点では、例えばジェームズ・タレルの作品と近しいのかもしれない。だが、それ以上に重要なのは、彼らの作品が来場者の体感を刺激するアトラクションの要素を強く醸し出しており、それが芸術祭にふさわしい作品として類型化しつつあるという点である。
あえて類型化と言い切ることができるのは、例えば栗林隆の作品にも目と同じく体感を刺激するアトラクションの要素を色濃く見出すことができるからだ。商店街の空き店舗の1階に40分の1のスケールで黒部ダムを再現し、2階のダム湖を足湯に浸かりながら鑑賞するという作品だ。ここでも来場者は全身の感覚を刺激されながら狭い通路と階段をくぐりぬけ、その先に現われたドラマチックな光景に目を奪われる。そのようにして来場者の視線と身体を誘導する展開の仕組みが優れている点は否定しない。しかし、その一方で、そのような「文法」が目と著しく通底していることは決して無視しえない。そこには明らかに類型化の問題がひそんでいるからだ。

2017/07/09(日)(福住廉)

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