artscapeレビュー
壷井明 無主物
2013年05月01日号
会期:2013/02/01~2013/04/14
原爆の図丸木美術館[埼玉県]
「無主物」とは、所有者のない物。福島第一原発事故に由来する除染作業の責任を問われた東京電力が、原発から飛散した放射性物質は誰のものでもない無主物であるから、よって自らに除染の責任はないと強弁したことで知られるようになった。これに激しい怒りを覚えた壷井明は、原発事故をめぐる人間模様を主題とした同名の絵画を制作して、それを裁判闘争や脱原発デモの現場に持参して多くの人びとに鑑賞してもらうという活動を繰り広げている。
本展は、壷井による《無主物》を、絵のなかの図像を言葉で解説しながら展示したもの。解説文を読めば、一つひとつの図像が何を象徴しているのか、正確に理解することができる。しかも、パネルによって加筆の前後も見せているので、絵画の画面構築がどのように変遷したのかも把握できる。
興味深いのは、こうした壷井の表現活動が、50年代のルポルタージュ絵画を前進させているように考えられることだ。政治的社会的な闘争の現場に介入し、その見聞をもとに絵画の主題を決定するという点で、それはかつての池田龍雄や桂川寛、中村宏、山下菊二らの絵画と通底していることは疑いない。けれどもその一方で、壷井の絵画にあってルポルタージュ絵画にないのは、描いた絵画を再び現場に持ち込んで鑑賞してもらうばかりか、そこで得た知見をもとに、再び絵画に手を入れるという点である。だから今後も加筆されるかもしれないし、その意味で言えば本展で発表された絵画は決して完成品ではないのである。
壷井の絵画は、画廊や美術館を終着点として想定していない。それらは文字どおり通過点であり、状況の成り行きに応じて描き直した絵画が立ち寄る場所でしかない。おそらく壷井にとって絵画とは、個性や内面の吐露といった自己表現の現われなどではなく、現場と非現場をつなぐメディアなのではないだろうか。絵画を創作するアーティストが絵画にとっての「主」であるとすれば、媒介者に徹底している壷井はある意味で「無主」である。つまり壷井は、無主物としての絵画によって「無主物」と対抗しているのだ。
2013/04/10(水)(福住廉)