artscapeレビュー
群馬の美術2017─地域社会における現代美術の居場所
2017年06月01日号
会期:2017/04/22~2017/06/25
群馬県立近代美術館[群馬県]
群馬県における現代美術の状況を検証した展覧会。同県内で活動している15人のアーティストによる作品が展示された。
いま「展示された」と書いたが、厳密に言えば、この言い方は正しくない。なぜなら出品作家のひとりである白川昌生の作品が県の指導により撤去されたからだ。基本的には「展示された」が、部分的には「撤去された作品もある」ことを補足しておかなければ、事実を歪曲して伝えかねない。
撤去されたのは、同館と同じく「群馬の森」にある「朝鮮人犠牲者追悼碑」をモチーフに、その外形を布と支持体で再現した立体作品。以前、東京の表参道画廊で発表されたとき実見したが、《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》というタイトルや関連映像がなければ、モチーフを連想することができないほど、ミニマルな作品である。白川はかつて《敗者の記念碑》という作品を制作したことがあったように、この作品はモニュメントの歴史性や権力性を再考させるシリーズの一環として位置づけられよう。
それが撤去された正確な理由はわからない。県が「朝鮮人犠牲者追悼碑」の廃止を求めて裁判で係争中であることが大きいことが推察されるが、重要なのは鑑賞者の批評を待つより先に、行政が作品批評の機会を独占してしまったという事実である。もとより美術作品の解釈は多様であり、その多様性は行政や、あまつさえ作者でさえ管理することはできない。だからこそ美術作品は私たちの知性や感性を大いに育むのである。にもかかわらず、この件で県は作品鑑賞の機会を独占したばかりか、その解釈を一義的に押しつけることによって、作品の評価を不当に貶めた。私たち鑑賞者は、こうした横暴を到底容認してはならない。美術館は作品を公平に鑑賞させる責任を放棄したばかりか、私たち鑑賞者の「見る権利」を阻害したからだ。これは、アーティストの言い分や美術館の事情、行政の思惑とは一切無関係に、自律的に主張しなければならない。
白川は件の作品が撤去された後、別の場所に展示されていた幟の作品を、当該箇所に移設した。そこに書かれていた言葉は「わたしはわすれない」。むろん撤去を直接的に指しているわけではないが、状況的にそのような文脈に接続されて解釈されることを白川は熟知しているのだろう。撤去を柔軟に受け入れつつ、返す刀で斬りつけるアーティストの挟持を見た気がしたが、それに満足してはならないだろう。このような事態が続けば、私たちはますます「現代美術の居場所」を失うことになりかねないからだ。
2017/05/07(日)(福住廉)