artscapeレビュー
小泉明郎展 帝国は今日も歌う
2017年06月01日号
会期:2017/05/03~2017/05/11
VACANT[東京都]
小泉明郎の真骨頂は自己言及的に演出された映像によって現実と虚構の境界線を撹乱する点にある。小泉自身が役者に演出するシーンが含まれていることが多いから、鑑賞者はそれが決して事実そのものを映し出した映像ではないことをあらかじめ知らされる。ところが、そうであるにもかかわらず、エモーショナルな音楽とともに役者の演技が過剰にエスカレートしてある沸点を超えた瞬間、私たちの感情は大きく揺さぶられることになるのだ。そして、そのように翻弄される自分自身を顧みたとき、私たちは自分自身に問い直さずにはいられない。おのれの感動が現実に由来しているのか、あるいは虚構に起因しているのか。それとも……。
本展は、新作の映像インスタレーション《夢の儀礼─帝国は今日も歌う》を見せた個展。父親が警察に連行されるという幼少期に見た怖しい夢をモチーフにしながら、反天皇制運動のデモとそれらに対するヘイトスピーチを映し出した。父親役の役者は両手に手錠をかけられたままデモの最後尾を歩いているため、デモを管理する機動隊に背中を押されながら歩くことになるが、それが警察に連行される夢の情景と重なって見えるという仕掛けだ。しかも、その父親の映像は、横に並べられた3面のスクリーンのうち、真ん中の画面に映し出されていたが、両サイドの画面にはヘイトスピーチの映像を、いずれか一方を反転させたうえで、ほぼ同時に投影していたため、まるで父親がヘイトの罵声を両側から浴びながら警官に連行されているように見えるというわけだ。むろん映像を見る私たち自身も、その下劣な言葉を浴びることを余儀なくされる。
父親は言う。「誰かが犠牲にならなければならない…」。つまり彼は自らが生け贄であることを十分に知っていた。その瞬間、私たちの脳裏をよぎるのは、天皇である。まさしく天皇は、最も尊ばれる存在であると同時に、最も蔑まれる存在であるからだ。いまも皇族は大衆的な人気の的でありながら、一切の人権が保証されていないという事実が、その恐るべき二重性を如実に物語っている。かつての戦争でもそうしていたように、天皇を声高に崇拝する者が、天皇を最も露骨に利用しているのだ。日本国憲法において天皇は主権者である私たち自身の象徴とされているが、この作品においては父親が天皇の象徴なのだろう。
虚構と現実の境界線を溶け合わせる小泉の演出は、確かな批評性に基づいている。反天皇制のデモに対してヘイトスピーチを繰り広げる者たちの卑しい言葉は、父親=天皇に投げかけているようにも見えてしまうからだ。小泉自身が皇居に向かって射撃の身ぶりを見せる最後のシーンにしても、それは文字どおり「無鉄砲」という点でナンセンスな笑いを醸し出す一方、天皇の暗殺を象徴するメタファーであると同時に、天皇を祝福する祝砲であるようにも見えた。呪いの言葉と祝いの言葉が表裏一体であることを、これほど明快に表現した映像はほかにないのではないか。
このような両義的な天皇のイメージは、しかし、イデオロギー的に断罪も賞賛もしがたいという点で、あるいは批判の対象になるのかもしれない。だが、左右のイデオロギーがすでに失墜して久しいばかりか、平成天皇こそがいまや最もリベラルであるという現状を正確に診断することができれば、天皇制を一方的に肯定ないしは否定することがどれほど単純にすぎるかは想像するに余る。小泉にしても、かつて天皇を不可視のイメージとして表現したことがあったが、それは完全な時代錯誤とは言い難いにせよ、現在の政治状況のなかでアクチュアリティーをもつとは到底考えられなかった。天皇はいまや見えつつあるからだ。
だが目元を隠しながら唄う人々が暗示していたように、見ていないのは私たち自身である。ヘイトスピーチの現場を見ていないだけではない。天皇の両義性を直視せず、特定の誰かを生け贄としながら共同体が再生産されている現状にも眼を向けず、ひいては現実と虚構の境界線を確かに問い直すことからも眼を背けている。あの映像を見たときの身体がこわばる感覚は、私たちが世界そのものに眼を向ける第一歩なのではなかったか。
2017/05/03(水)(福住廉)