artscapeレビュー
2014年05月01日号のレビュー/プレビュー
田中紗樹 作品展「ソロ・オーケストラ」
会期:2014/04/02~2014/04/13
iTohen[大阪府]
ドローイングと木版画とコラージュを併用した平面作品を制作する田中紗樹。彼女の作品の魅力は、小気味よい筆さばきと鮮やかな色彩が、一種音楽的とも言うべき交響を奏でる点にある。また、ただ作品を見せるだけではなく、現場での制作を重視しているのも彼女の特徴だ。iTohenでは2010年以来の個展となる今回も、本人が会場に詰めて公開制作やライブペイントを実施。日を追うごとに作品の配置が変化する生き物のような展覧会をつくり上げた。また、公開制作を見て気づいたのは、彼女が2点ずつ作品を制作すること。2点は対の関係を持っており、交互に筆が入れられる。彼女の作品に顕著な音楽的感興は、この制作方法に由来するのかもしれない。
2014/04/02(水)(小吹隆文)
黒部と槍 冠松次郎と穂苅三寿雄
会期:2014/03/04~2014/05/06
東京都写真美術館[東京都]
日本山岳写真のパイオニアである冠松次郎と穂苅三寿雄の展覧会。写真を中心に自筆文献などの資料もあわせて130点あまりが展示された。
両者がいくども足を踏み入れていたのが、現在の北アルプス。大正時代、冠松次郎は黒部渓谷を踏破し、穂苅三寿雄は槍ヶ岳の麓に槍沢小屋を開設した。現在はいずれも登山道が整備され、多くの登山客で賑わっているが、彼らの写真を見ると、当時の登山が文字どおり秘境探検に近かったことがわかる。それは彼らが道なき道を歩んでいたからというより、むしろ彼らが歩いた黒部と槍に人間の気配がまったく感じられないからだ。現在の登山道で他人とすれ違うことは珍しくないが、この時代の場合、そうした交差は皆無であったことは想像に難くない。写真には、人間不在の世界を突き進む胸騒ぎと昂揚感があぶり出されていたのである。
そのような心情は、類稀な文章家でもあった冠の次の一文に凝縮されている。「黒部のような原始的な渓は、ひとたびその奥へ入ると、それからそれへと魔術の紐でたぐられるように、日を忘れてその神秘の奥を探りたくなる。黒部川がその懐に私たちを抱きしめて、はなさいのだ」。
いま、日本の山岳に未開の地を切り開くフロンティアを望むことは難しい。だが、冠が言う「魔術の紐」は、山岳に限らずとも、あらゆる領域で出会うことができるだろう。芸術の神秘もまた、この見えない紐にたぐられるような経験の先にあるに違いない。
2014/04/02(水)(福住廉)
岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜
会期:2014/02/08~2014/04/06
世田谷美術館[東京都]
岸田劉生と、その父吟香および娘麗子、3代をまとめて紹介した展覧会。緻密な研究に基づいた非常に充実した展観で、幕末から明治にかけて文明開化の一翼を担った吟香と、画家そして演劇人としても活躍した麗子の軌跡を、劉生の画業にそれぞれ接続した意義も大きい。
とりわけ注目したのが、吟香。尊皇攘夷の志士にはじまり、左官や泥工の助手、八百屋の荷担、湯屋の三助、芸者の箱丁、妓楼の主人、茶飯屋の主人から、初の和英辞書『和英語林集成』の編纂、液体目薬「精 水」の製造販売および「楽善堂」の開設、『東京日日新聞』の主筆、台湾への従軍記者、訓盲院の設立、中国と朝鮮の地図編集まで、その活動は町人文化とジャーナリズム、そして社会福祉事業を貫くほど多岐にわたる。美作国から江戸、そして上海まで闊歩した行動範囲の広さも考え合わせれば、吟香に明治の文明開化を体現する近代人の典型を見出すことは決して難しくない。
美術との関わりで言えば、書画を嗜み、新聞の挿図も自ら手がけた。また落合芳幾や下岡蓮杖らによって自身が描写されてもいる。さらに高橋由一や五姓田一家と親交を深めたほか、新聞記者としては第一回内国勧業博覧会の記事を29回にわたって連載し、これは本邦初の展覧会批評とされている。また浅草寺で催された下岡蓮杖の興行を「油絵茶屋」と紹介したのも吟香である。美術の近代化に一役も二役も買っていた吟香のバイタリティが伝わってくるのだ。
本展が美術史に果たした功績は大きい。だが、それを踏まえたうえで指摘したいのは、美術史を同時代に解き放つ視点の必要性である。美術に限らずどんな歴史学も自らの研究対象を限定しがちだが、とりわけ美術史はその傾向が強い。けれども、そうした分野の壁を自明視していては、その時代を解き明かすことにはならないし、そもそもいかなる時代にあっても、美術という特定の分野だけに人びとのリアリティが収まるはずもない。
たとえば吟香の活動は美術を含みながらも、大衆文化や政治、地政学、社会福祉、ジャーナリズム、衛生学など広範囲に及んでいた。あるいは吟香という名前にしても、これはもともと深川界隈で名乗っていた銀次が銀公に転じ、さらに吟香と改めた経緯がある。吟香というとなにやら知的な雰囲気があるが、本来的にはいかにも庶民的な名前だったのだ。だとすれば吟香の輪郭が上流社会に属する美術という概念を大きくはみ出すことは明らかだ。
吟香や劉生が歩いていた銀座や築地の街並みを、美術だけではなく、他の文化論や都市論、あるいは庶民のまなざしによってとらえ返すこと。具体的に言えば、それらの街並みを牛耳っていた博徒や侠客などの活動を浮き彫りにすることで、これまでにはない角度から吟香や劉生の身体を照らし出すことができるのではないか。重箱の隅を突くような美術史研究に飽き足らない者は、ぜひこうした視点からの研究を深めてほしい。
2014/04/03(木)(福住廉)
瀧弘子 展「後ろ髪引かれる」
会期:2014/04/05~2014/04/26
YOD Gallery[大阪府]
写真、映像、パフォーマンス(一種の人間彫刻)など、身体を張った作品で一躍注目作家となった瀧弘子。自身の内面的葛藤と身体性が共存した作品は、強烈なインパクトを持つ反面、いつまでネタが続くのかと危惧を抱かせる面もあった。しかし、本展を見て考えを改めた。彼女は予想以上に多くの引き出しを持つ作家だった。本展では、伸縮性のある布地に自身の顔を印刷し、クリップ付きのゴムで布地(顔)の一部を引っ張った作品と、自身の顔をプリントした折り紙でさまざまな髪形を造形した作品、髪をテーマにした写真作品などを展覧。また初日と最終日には、三つ編みの髪を壁面に固定して約7時間も椅子に座り続けるパフォーマンスが行なわれた。そのどれもが秀逸だったが、特に折り紙作品は作家の豊かな創造力を証明していたと言えよう。彼女の今後の展開に一層興味が湧いてきた。
2014/04/05(土)(小吹隆文)
神村恵カンパニー『腹悶(ふくもん:Gut Pathos)』
会期:2014/04/03~2014/04/08
STスポット[神奈川県]
今作は「老い」がテーマだという。確かに、前半のある瞬間から、若い女性ダンサーは、腰をぐうっと屈めはじめて、歩みは1歩3センチくらい、老婆に変貌した。けれども、それ以上に、ぼくにはテーマが「介護」に見えた。後半から男性ダンサーがはいってきて、彼と女性は対話(「対話」というよりは介護者と被介護者とが交わす「問診」に見えた)をした後で、2人でデュオを踊ったからだ。この踊りは、不意に、互いが互いの感情を剥き出しにするところがあって、その暴力性が特徴的だった。「介護」といえば、村川拓也『ツァイトゲーバー』(2011)を連想させた。ただし『ツァイトゲーバー』が最初から、パフォーマーが観客に語りかけ、これから始まる実演内容について、丁寧な説明を用意していたのとは対照的に、「腹悶」は、2人がなぜこのようなデュオを踊るのかについての説明がなかった。説明があると、観客は冷静にこれから始まる実演がどう遂行されるのかに意識が集中するけれども、説明がないと、いまここで起きていることを観客は自分なりに推測してゆくほかなく、ゆえに、作り手との関係に緊張が保たれる。多くのダンス上演は「説明なし」なので、ことさらいうことでもないかもしれないが、こう比較すると、その緊張自体に意味があるのか、ないのかが気になってくる。神村の今作は、介護者と被介護者とが互いに内面を隠しながら、互いの立場を生きつつ、時々、その隠しごとに耐えられなくなる瞬間をフォーカスしているように見えた。その意味では、この作品の「説明なし」は、その内容と一致していた。
2014/04/05(土)(木村覚)