artscapeレビュー

2014年05月01日号のレビュー/プレビュー

馬──その歴史と学習院

会期:2014/04/05~2014/06/07

学習院大学史料館[東京都]

午年にちなみ、学習院との関わりを中心に日本における馬と馬術の歴史をたどる展覧会。学習院は学生に対する正課の授業として馬術教育が最初に行なわれた学校である(明治12年)。華族会館が経営する学校として、学習院の教育には当初から軍事に関する科目が盛り込まれていた。馬術もそのひとつであり、学習院と馬の関わりの歴史は古い。興味深かったのは「騎馬打毬」に関する映像と道具の展示であった。騎馬打毬は馬を操りつつ先端に網が付いた棒を用いて的に球を投げ入れる競技。ペルシャを起源としてシルクロードを通じて世界に広まり、各地で独自の進化を遂げた。ポロもそのひとつである。日本には8世紀に渤海国から伝来し、天皇家や公家のあいだで行われたものの程なく衰退してしまい、徳川八代将軍吉宗の時代に復活。幕末には武家のあいだで盛んに行なわれるようになった。学習院において打毬が行なわれたのは明治18年の天覧試合が最初で、その後昭和の終わり頃まで打毬大会が開催されていたという。さらにひときわ目を惹く展示物は、学習院第10代院長・乃木希典の愛馬「寿(す)号」の仔「乃木号」の骨格標本である。「寿号」は日露戦争での旅順陥落の際に旅順要塞司令官ステッセルが乃木に贈ったアラブ種の馬である。体格が良く従順な名馬であったこの馬の血統を日本に広めるべく、乃木は馬種改良に熱心であった鳥取の牧場主・佐伯友文に寿号を贈った。寿号を親として生まれた約80頭の仔馬のうちの1頭が乃木号で、明治45年に今度は佐伯から乃木に贈られた。乃木が明治天皇に殉死した後、乃木号は昭和12年に亡くなるまで、学習院の馬として馬術教育に資した。このほか、大名家の馬術の免許状の展示や、学習院の馬術教官、学習院出身のオリンピック馬術競技選手の紹介がある。[新川徳彦]

2014/04/23(水)(SYNK)

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ザ・ビューティフル──英国の唯美主義1860-1900

会期:2014/01/30~2014/05/06

三菱一号館美術館[東京都]

産業革命によって世界最初の工業国家となったイギリスでは、19世紀には多くの産業においてものづくりの方法が変わり、人々の暮らしかたも大きく変化した。産業と社会の構造転換によって急速に豊かになった階層もあったが、他方で貧しくなった人たちもたくさんいた。労働者の生活水準を巡って、それが向上したのか、低下したのかという議論も始まる。工業化がもたらした国土の変容に対して否定的な評価をする人たちも多く現われる。新しい産業が創り出す商品に対する評価も同様であった。粗悪なイギリス製品、美的水準の低下という印象を決定づけたのは、1851年の万国博覧会である。イギリス産業の力を見せつけるはずの場で人々が見出したのは、皮肉にも醜悪な自国製品であった。工業化がもたらしたさまざまな問題に対する反応があらゆる分野において噴出したのである(近代デザイン運動の発端もここにある)。そこには新興の産業家層をパトロンに得て、伝統的な絵画とは異なる主題、美のありかたを求める動きも現れた。「芸術のための芸術」を求める唯美主義者たちは、そうした文脈のなかで現われ、評価されてゆく。醜悪なデザインは人々の生活全体を覆っていたから、新しい美がカンバスの上に留まらず、家具や壁紙、タイル、インテリア、装身具へと拡大していったのは当然の帰結である。他方で美は個別のものにおいて完結するのではなく、その組み合わせによって最適な効果をもたらすものである。すなわち、重要なのは生活全体のコーディネートなのである。独自の美の基準を持たない新興市民にとって、唯美主義者たちは、その作品にとどまらず、住まいの装飾、ファッション、生活スタイルそのものもまた恰好のお手本となった。その唯美主義者たちの美の源泉はどこにあったのかといえば、それは日本と古代ギリシアであった。醜悪な同時代のイギリスは批判の対象であっても美の源泉とはなりえない。理想となるのは空間的あるいは時間的に遠く離れた様式になる。そしてそれらはしばしば複数が組み合わされて独自の様式となる。19世紀のイギリスにおいて、どういうわけだか、日本は古代ギリシャとのアナロジーによって語られた例が多く見られるという。唯美主義者たちの作品にはこのふたつの様式が大きく影響しているのはそのような理由からである。文学においてもまた唯美主義があった。オスカー・ワイルドはその作品とともに自身がカリスマとなり、称賛もされればカリカチュアライズもされた。その過程でカリスマの名と固く結びついた唯美主義は、やがてカリスマの凋落と軌を一にすることになる。1895年にワイルドが同性愛の罪で収監されると、唯美主義もまた断罪されるべきものとして、勢いを失ってしまったのである。芸術家たちが求めていたのは「唯、美しくあること」であったとしても、市民が求めていたのは、よりどころとなる規範であったのだろう。
 三菱一号館美術館で開催されている「ザ・ビューティフル──英国の唯美主義1860-1900」展では、絵画にとどまらない多様な分野の作品と、さまざまな芸術家やデザイナーたちの仕事が紹介されており、そのことは唯美主義運動の特徴をよく捉えている。他方でわかりにくい部分もある。なぜならば、個々の画家やデザイナーで、生涯にわたって唯美主義と分類される作品を手がけていた人物は稀で、時期によって別の美術運動や社会運動との関わりの方が強調されることも多いのだ。「芸術のための芸術」という理念が共通していたとしても、じっさいの表現の様式や活躍したジャンルも多様であり、運動であったとしてもそれを様式として捉えることは難しい。しかしそれらの背後にヴィクトリア朝のイギリス社会が抱えていた矛盾、諸問題の存在と、それに対する芸術家や市民の反応を考えれば、唯美主義の盛衰、画家たちの関わりかたが意味するところを透かし見ることができるのではないだろうか。[新川徳彦]

関連レビュー

バーン=ジョーンズ展──装飾と象徴:artscapeレビュー|SYNK・新川徳彦

2014/04/24(木)(SYNK)

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Q『迷迷Q』

会期:2014/04/24~2014/05/01

こまばアゴラ劇場[東京都]

主人公・園子の名は、親が公園でセックスして生まれたから。セックスの最中、母は黒人と日本人のハーフらしき女の子を眺めていた。身につけたかわいい服は女の子の立体的な筋肉質の体に滑稽なほど不似合いだったという。劇作家・市原佐都子がこだわっているのは、こうした設定に象徴されるような、(異種)交配への欲望と恐怖である。園子の母は11人の子どもたちを生み、「飼育室」と呼ぶ部屋に子どもたちを閉じ込めておくと、11人の子どもたちの服が回る洗濯機を覗きながら、後背位でセックスする。園子には友達(ノンちゃん)がいる。ノンちゃんはフランソワという名の犬を飼っている。フランソワはいつか園子の母に誘拐され、「ハワイ」という名で新たに呼ばれ、園子の家で育てられることになる。ハワイは園子の家で無理な交尾を強要され死んでしまうのだが、保健所で有料で処分してもらうくらいならばと、母は唐揚げにしてしまう。その他、母は自分の糞を食らった犬が糞をしているところを目撃したというエピソードなど、繰り返し舞台で展開されるのは、セックスや食事などによって、異物が身体に入ってきて自分が変容してしまうことへの快楽と恐れのオブセッションだ。今作はそこへと不気味なくらいに焦点が絞られていて、なんと言えばいいのか、この徹底性は演劇の枠を超え、現代アートの域に達している。不気味さは音楽の扱いにも及ぶ。確か音楽は同じものが二回流れた。ノンちゃんのハッピーな妄想に同調して、明るい(少し前のクラブでかかってそうな)曲が流れた。それは、曲の明るさを皮肉として受け止めざるをえないといった使い方で、しかも他にはどんな音楽も流れなかった。つまり、市原の描く世界に音楽はない。気分が高揚し、その気分に浮かれている自分を無邪気に肯定するような、登場人物たちにそんな心の余地がないのだ。身体への接触が性と食の問題からのみ取り上げられるように、絶望的に視野が狭い。市原はここを見つめて欲しいと望んでいるような気がする。ただし、観客として(少なくともその一人である筆者)は、若い女性たちがどぎついテーマを扱い、どぎつい台詞を口にしていることに面白がったり、戸惑ったりさせられているうちに舞台が終わってしまった、という印象を受けた。大人になった園子は、過剰な性欲を持て余す「ケンタウロス」と狭いアパートに暮らし、交尾で皮膚がひりひりし、しかし、そんな暮らしも続かず、ケンタウロスはやがてやせ細って死んでしまう。母も死んだ。園子はノンちゃんらしきバックパッカーの女の子と知り合い、彼女の友達と絵に描いたような「充実した夕食会」を過ごし、帰ってノンちゃんのFBをブラウズする。ここではないどこかを「ノンちゃん」を通して知る園子、しかし彼女が「死」を口にすると、唐突に芝居の幕は閉じてしまう。Qの呈示してきたテーマが徹底されていると同時に、Q自身がそこから自由になりたがっている、そんな作品に見えた。これまで作家の想像力に可能性を託してつくられてきたとすれば、少しそこから距離をとって、他人へのリサーチによって掴まえられた素材をもとに創作することがあってもよいのではないか、そんな思いを持った。

2014/04/26(土)(木村覚)

かもめマシーン『ニューオーダー』

会期:2014/04/25~2014/04/29

北品川フリースペース楽間[東京都]

劇作家・萩原雄太が突然舞台で正座すると、役者たちは萩原に土を振りかけた。最後の場面がこれだった。「ああ、なるほど」と安堵のような気持ちに満たされた。本作の主題は「土地」。震災以後、これまで住んでいた土地を離れる者が少なからずいるなか、ここに生きていてよいのか、あるいはこの土地は本当に自分の生まれ死ぬ土地としてふさわしいのかと問わずにはいられない。そうした悶々とした思いが自分の内にあると、芝居が始まる前に萩原は舞台から客席に語りかけた。そして一言「これは僕のために上演する物語です」。つまり、最後の場面は、この最初の言葉にループしたわけだ。こうやって円環するまでの時間、要するに、芝居の中身はどんなだったかというと、暗澹たる話が続いた。アヤメとカホという姉妹がいて、カホは震災以後、住み慣れた土地を離れることにした一方、アヤメは離れなかった。しかし、アヤメは逡巡しており、バスターミナルで高速バスがあれこれの町へ旅立つのを眺めながら、時間を過ごしている。そこで猫がバスに轢かれてしまう。この猫はアヤメとカホがかつて二人の名にちなんで「アヤカ」と名づけた猫だ(時間がずいぶん経過しての再会だったから、野良猫を「アヤカ」と錯覚しただけかもしれない)。アヤメは猫を埋める場所を探す。町の公園にそんな土地はない。いや、奥の目立たぬところに丘があって、そこにアヤメは石で穴を掘りアヤカを埋めた。さて、最後の場面で萩原がかぶるのは、この猫を埋めるのに用いた土だった。彼は土だらけになったまま、「とてもよい土なので、とてもよい気持ちがします」みたいなことを口にした。この一言で、なんだか救われたような、妙だが「爽快な」気持ちにさえなった。暗澹たる話が語られてそのまま終わってしまったら、作家の不安や失望の念を観客はそこから読み取り、持ち帰るだけだっただろう。この上演が最後の場面を加えたことでさらに一層作家個人のために、ただただ彼の救済のために遂行された格好になったわけだが、そのことはかえって、見る者に納得する気持ちを与えていたように思う。演劇は何のためにあるのか? その答えは多様だ。萩原が「僕のためにある」と言い切ったことで、この上演は、とても独特なまとまりを宿した。土地を自分の土地と思うこと。この今日的難しさは、演劇を自分の演劇と思うことの今日的難しさともつながる。おそらくは、ぼくたちが共同体というものをどう獲得し、どう継続するかにかかっているのだろう。萩原が今回踏み出した一歩は、こうした大きな課題への一歩とも映る。

2014/04/28(月)(木村覚)

プレビュー:クリウィムバアニー『ニューーーューーューー』

会期:2014/05/17~2014/05/18

シアタートラム[東京都]

もう3年前になるのか、2011年に上演された『がムだムどムどム』は衝撃的だった。菅尾なぎさが主宰するクリウィムバアニーは、その前から、女性がとらえた女性的かわいさをむせかえるほど充満させた舞台で定評があったのだが、『がムだムどムどム』は「女の子たち」をいわばひとつの生物種として突き放しその生態を観察するといった作品で仰天させられた。日本のコンテンポラリーダンスには、ひとつの傾向として、エキセントリックな女の子=「不思議ちゃん」の生き様を見せるという特徴があった。ぼくはかつてから、その傾向には、踊り子と男性観客の疑似恋愛的関係が透けて見えるようで、その伝統的で保守的なところに問題を感じていた。菅尾のアプローチは、この傾向をなぞっているようで、それが徹底されることによって内破する不気味な力に満ちていた。なによりその「生態」を「観察」するといったつくりが凄かった。観客は、シアタートラムの会場につくられた公園のような、学校のような空間を遊歩する。あちこちで白い肌の女の子たちが生息していて、その肌を間近で眺めるともなく眺めながら、観客は音楽とともに突然始まるダンスタイムを待つのだ。いや、ダンスタイムはどこかこの上演のための口実みたいなもので、観客の喜びは「女の子たち」と一緒に時間を過ごすことそれ自体に向けられるのだ。新作『ニューーーューーューー』の会場は前作と同じくシアタートラム。それより気になるのはなんと上演時間が5時間(300分)ということ! こういうふざけた(=既成概念を無視する)上演を待ってました! これはきっと、上記したような徹底的な「生態」「観察」の作品となるに違いない。ぜひ、5時間チケットを購入して、「女の子たち」が生息する環境のなか、森林浴するみたいな気持ちで過ごしてみたいところだ。いっそそこで寝てしまいたい。寝ても覚めてもやっぱり「女の子たち」がいるって事態を体験してみたい。

2014/04/30(水)(木村覚)

2014年05月01日号の
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