artscapeレビュー

2017年11月01日号のレビュー/プレビュー

福留麻里『抽象的に目を閉じる』

会期:2017/10/27~2017/10/28

cumono gallery[京都府]

ダンスを踊る体は、踊りの祝祭性に熱くなって、非日常へと飛んでしまい、我を忘れがちだ。けれども福留麻里の体は、舞台に立っていながら、目を瞑り、耳をすまし、目をすます。彼女の体につられて、観客のぼくも耳をすまし、目をすましてしまう。踊る体は現実を生きている。その体は、踊っている時間以外にも生きている。福留は観客に、録音した言葉で囁きかける。自分はどこに暮らしているのか、住まいから5分ほどで着く川までの道がどんなであるか、そこから3時間かけて首くくり栲象の庭劇場まで自転車で訪ねたこと、首を吊るパフォーマンスの後、首くくり氏から食事を振舞ってもらったことなどを、福留は声にする。声はいまここにないものを舞台に召喚する。その声と踊る身体とが二つ、舞台に並び立っていて、決して重なることはないけれども、反り返ったままでもなく、響き合う。踊りはそうして現実から乖離せずに、でも、ダンスの独特な抽象性を保ったまま、舞台を満たす。福留のダンスは相変わらずとびきりで、素早く時間をちぎってはすぐに貼り付ける。それは、剣術の使いが、刀を抜いたかと思ったら、もう既に仕事は終わっていた、みたいなことだ。カワサギがいると思ったら消え、消えたと思ったら魚を仕留め飛び去ってしまった、みたいなことだ。具体的には、ある運動のベクトルが推し進められている最中で、別の運動が唐突に差し込まれるといったもので、その目くらましが引き起こす眩暈に、ぼくは何よりダンスを感じる。環境に高感度で応答しながら、ダンサーの身体は内的な対話にも忙しい。けれども、それが濁っていなくて、澄んでいて、美しい。そんなダンスなのだった。

2017/09/23(土)(木村覚)

Expect The Unexpected 田中真吾

会期:2017/09/01~2017/09/30

eN arts[京都府]

田中真吾は炎を駆使した作品で知られる作家だ。これまでに、紙、木の角材や板、ビニール袋などを燃やして、その痕跡を造形化した作品を発表してきた。本展では薄い鉄板をバーナーで焼く行為を繰り返し、熱の影響で不規則に歪んだ表情を見せる平面作品や、ビニール袋をバーナーで溶かして積み上げた立体作品、バーナーで溶かしたビニール袋を鉄板に溶着させた平面作品を発表した。それらの作品が持つ起伏に富んだ表情は、炎あるいは燃焼という自然現象がもたらしたものだ。そこには作家がコントロールしている部分と人智を超えた部分が混在しており、田中はその絶妙な配合を探りながら、綱渡りのようなバランスで表現を物にしていく。筆者は彼の個展をほぼ皆勤賞で見ており、作品を見慣れているつもりだが、それでも毎回予想を超えて来るのは大したものだと思う。

2017/09/23(土)(小吹隆文)

大駱駝艦・天賦典式 創立45周年『擬人』

会期:2017/09/28~2017/10/01

世田谷パブリックシアター[東京都]

大駱駝艦の舞台には、文明論を語るという特徴がある。現代社会のありさまとは何か、そこで人間はどう変容しているのか、そうした問いを大づかみで捉え、客席に投げかける。日本のコンテンポラリーダンスが「日常」に自分の座を据えてきたのと比べると、文明論的な視点はダイナミックに映る。文明を語ることで、まるでハリウッドあるいはネット配信のSF映画のようなエンターテインメントへと接近するのも面白い。舞台の冒頭、2列で横並びになった踊り手たち10人ほどが、顔を観客に向けてしゃがむ。すると、「カクッ、カクッ、カクッ」と小刻みに首を傾ける。時計の秒針のような規則性は、その身体が「作り物(人造人間)」つまり「擬人」であることを示唆する。その規則性が全身におよび、歩く姿もカクカクしている。そこで生じるシンプルな動作の反復は、GIFが作るループのような独特のグルーヴを生み出す。大駱駝艦が得意とする群舞は、こうした「人間に似たロボットの跋扈する世界」を描くのに効果的だ。舞台中央には、KUMA(篠原勝之)制作の樹木が一本立っている。幹はときどき青く光る。生命が機械化した世界の象徴だ。「擬人」たちはガラスケースに陳列されている。両腕に長い金属の義手を着けた女が彼らに合図を送る。すると、彼ら擬人は上半身をむき出しにして回転しながら動き出す。その動作も繰り返されることで、奇妙なグルーヴ感が生まれてくる。麿赤兒は、打ち捨てられたはずのダッチワイフ型の人形に紛れて、樽に入った状態で現れる。怯えたような表情が、麿独特のテンションを引き出す。その後、両手両足を鎖で繋がれたフランケンシュタインみたいな男(村松卓矢)も現れると、ゴジラを彷彿とさせるような大声で吠える。男は、サーカスの支配人?らしき人間(KUMA)に操られている。麿扮する人物もこの人物に囚われるが、最後に、自分の鎖を巻きつけ、形勢が逆転したところで、スクリーンに「つづく」と文字が出て本作は終了。最近映画の世界では二部作形式のものがあるけれど、まさにそうした作りで、翌週上演の後編『超人』に続く。

2017/09/28(木)(木村覚)

藤飯千尋展「轍の行く先」

会期:2017/09/30~2017/10/05

ギャラリー島田[兵庫県]

青、赤、白、黒、黄などの色彩が奔流のように渦を巻く藤飯千尋の作品。しかし、驚くほどダイナミックな画面にはストロークの気配がない。本人に訊ねたところ、やはりと言うべきか、ゆるく溶いた絵具を床置きの画面に流しかけているらしい。それ上の詳細は教えてもらえなかったが、絵具の粘度やキャンバスの置き方(高低差の利用)などの自然現象を味方につけているのは間違いない。同様の手法で描く画家はけっして珍しくないが、彼女の作品が放つ臨場感はほかより一頭抜きん出ているように感じられた。出品作のうち大作は1点だけだったが、彼女は一人で制作しているので、作品のサイズには限界があるのかもしれない。しかし、この画風は大作と馴染みが良いはずだ。150号や200号のキャンバスを何枚もつなげるぐらいの超大作を披露してくれたら嬉しいのだけど。

2017/10/01(日)(小吹隆文)

小松浩子

会期:2017/09/09~2017/10/14

gallery αM[東京都]

写真家の小松浩子の個展。工事現場の資材置き場を写したおびただしい数のモノクロ写真を会場の床や壁を埋め尽くすほど展示する作風で知られる写真家である。なかでも2012年に目黒区美術館の区民ギャラリーで開催した「ブロイラースペース時代の彼女の名前」は、広い会場にプリントされた印画紙のロールを張り巡らせた圧巻の展示だった。
今回の個展でも、その才覚はいかんなく発揮されていた。壁という壁がモノクロ写真で埋め尽くされ、それは床にも及んでいるため、来場者はそれらを踏みつけながら鑑賞することを余儀なくされる。文字どおり四方八方にイメージが拡散しているため、正面や中心を設定することは不可能に近い。それゆえ、私たちは特定の写真に視線の焦点を絞ることすらできないまま、まるで宇宙空間を漂うかのように、写真空間の中をあてどなく彷徨うほかないのである。
興味深いのは、そうであるにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、その夢遊病的な彷徨は結果として「資材置き場」の視覚的なイメージよりも触覚的なイメージを強く感じさせるという点である。瓦礫や鋼材のざらついた質感だけではない。泥を浴びたブルーシートや剥き出しの土までもが、思わず触れたくなるような触覚性を醸し出している。この皮膚感覚を励起させたいがために、小松はこれほどまで執拗に写真空間の密度とボリュームを追究しているのではないか。
物質の触感を写真の平面に焼きつけ、なおかつ空間をそれらの平面で充填することによって、その触覚性を空間の物質面で増強すること。それは、一点の写真作品の芸術性を審美的に(つまり視覚的に)問う写真の規範では計りしれない、小松ならではの方法論である。写真作家としてそれを獲得していることに大きな意味がある。

2017/10/05(木)(福住廉)

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