2021年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

2021年02月01日号のレビュー/プレビュー

Fever! Akiyama 秋山祐徳太子回顧展

会期:2020/12/04~2020/12/26

ギャラリー58[東京都]

2020年4月3日に亡くなった稀代のアーティスト、秋山祐徳太子を偲ぶ回顧展。秋山は1935年生まれだから享年85。1歳で父と兄を失い、以後母が亡くなるまで60年以上にわたり母子家庭を貫く。長身でイケメンでモテそうなのになんで結婚しなかったんだろう、余計なお世話だが。都立工芸高校を出て東京藝大を5回受験するも不合格。武蔵野美術学校で彫刻を学び、卒業後は電機メーカーのデザイナーとして勤務。組合活動から前衛芸術に軸足を移し、反万博闘争に参加したり、グリコのランナー姿で走るパフォーマンス「ダリコ」を行なう。退社後は、チープでポップなブリキを使った彫刻を制作しながら、1975年と79年には東京都知事選に立候補し、政治のポップ化を目指したが落選。その後も、赤瀬川原平や高梨豊とライカ同盟を結成したり、『通俗的芸術論』や『泡沫桀人列伝』を著すなど、泡沫精神あふれる活動を続けてきた。

ギャラリー入り口には石内都、篠原有司男、吉野辰海の連名による大きな花輪が掲げられ、会場には幼少期の写真から中学高校の卒業証書、東京藝大の受験票、デザイナー時代に図面を引いたオーディオ部品の設計図、労働組合の資料やデモの写真、ダリコのランニングシャツ、都知事選のポスター、畑中葉子との対談「後から前から」のポスター、母との東北旅行の記念写真、長年住んでいた高輪地区の防犯連絡所責任者の委嘱状など、200点以上がところ狭しと並んでいる。あ、もちろんブリキ彫刻などの作品もあるが、ここではいささか影が薄いなあ。これらの資料は自宅に残された遺品の一部というから、断捨離とは縁遠い人生だったようだ。いや断捨離とは不要なものを断つことだから、これらの「ガラクタ」は必要不可欠どころか、秋山の血肉だったに違いない。まさに泡沫桀人!

2020/12/09(水)(村田真)

山田脩二「新版『日本村』1960−2020 写真プリントと印刷」

会期:2020/12/11~2021/01/24

kanzan gallery[東京都]

山田脩二の『新版『日本村』1960―2020』(平凡社)は、タイトルが示すように彼が60年にわたって撮影してきた586枚に及ぶ写真をまとめた大冊である。本展示は、その刊行にあわせて菊田樹子のキュレーションで開催された。

「日本村」のシリーズは、山田が大阪万国博覧会の開催に沸く1970年に、中古車で日本全国3万キロを移動して撮影した写真群を、『SD』(1972年3月号)に「日本村/今」と題して発表した事に端を発する。その後、1979年に篠山紀信、磯崎新が「写真構成」を担当した写真集『日本村1969―1979』(三省堂)に集成された。だが、今回の出版や展示は、その「伝説の写真集」をさらに拡充し、厚みを加えたものになった。前作の写真集に収録された写真はもちろんだが、桑沢デザイン研究所卒業後、フリーの写真家として活動し始めた時期の初期作品や、『日本村1969―1979』刊行後に撮影したニューヨークや上海の写真、1982年に「カメラマンからカワラマンに」転身して、淡路島で炭焼きを始めてから後の仕事も含んでいる。写真集の最後のパートに掲載されているのは、「2000・01・01」の日付入りの「西淡町・慶野瀬戸内の夕景」である。

さらにkanzan galleryの展示では、「山田脩二の手焼きプリント、ネガからのラムダプリント、写真集の印刷の過程で制作された色校正」などもあわせてインスタレーションして、彼のカオス的な写真世界の全体像を浮かび上がらせようとした。そこから見えてくるのは、個々の光景の細部だけではなく、むしろ都会でも田舎でも等価に見通していく山田の視線のあり方であり、20世紀後半から21世紀かけての「人の住む場所」の手触りの集積としかいいようのない、熱量の高い写真群である。「日本村」は、たしかに山田が生まれ育った「日本」の姿を丸ごと捉えようとする営みだが、その射程はニューヨークや上海も含めて大きな広がりを持っていることをあらためて確認することができた。その意味では展示スペースが小さすぎるし、写真の数もまだ物足りない。どこかの美術館で、ひと回りもふた回りも大きい展覧会の企画を実現してほしいものだ。

2020/12/11(金)(飯沢耕太郎)

千葉市美術館拡張リニューアルオープン・開館25周年記念 宮島達男 クロニクル 1995−2020

会期:2020/9/19~2020/12/13

千葉市美術館[千葉県]

宮島の作品はしばらく見ていなかったなあ。美術館の常設コレクションでたまに目にすることはあるけれど、ある程度まとめて見るのは、森美術館の「STARS」展と今回の個展が久しぶりな気がする。そう思ってカタログの年表を調べてみると、なんと2000年の東京オペラシティでの個展以来、じつに20年ぶりと判明。なぜ見なくなったのかというと、ひとつには日本より海外での発表が増えたから。これは仕方がないというか、よいことだ。二つ目は、海外が増えたのは広くアーティストとして認められたということであり、エラそうにいえば、ぼくが見る必要がなくなったということだ。見ていてワクワクするのはエマージングの段階であって、宮島はもうその域を超えてしまったからだ。三つ目は、そのころから「Art in You」を提唱し、芸術による平和を唱えるなど、ヒューマニズムが前傾化してきたから。それ自体は悪いことではないが、それが前面に出てくると違和感も増してくるのだ。

と、見なかった弁解を長々書いたが、久しぶりに見てどうだったかというと、案外おもしろかった。作品は相変わらずデジタルカウンターなのだが、それをここまで拡大するかというくらいさまざまなかたちで見せているからだ。展示はタイトルにもあるように、1995年から2020年までの4半世紀の作品に絞っている。1995年というと戦後50年に当たり、阪神大震災や地下鉄サリン事件など時代を画する災害が起き、宮島が「柿の木プロジェクト」を始めた年でもある。加えて、千葉市美術館が開館したのもこの年だ。

展示の前半は、身体を使ったパフォーマンスや多くの人たちを巻き込んだプロジェクトを中心に紹介。赤ワインや墨の中に顔を浸けて10カウントしたり、顔や身体の一部にデジタル数字を書いたりするパフォーマンスの記録映像を見せているが、パフォーマーは本人だけでなく、西洋人、東洋人、日本人など多彩な人種を選んでいる。10進法は世界共通なので、液体の種類や肌の色を変えることで多様性を確保したともいえる。長崎で被爆した柿の木の2世を各地に植樹する「時の蘇生・柿の木プロジェクト」は、学生時代に対峙したヨーゼフ・ボイスの「7000本の樫の木」に触発されたプロジェクトだろう。日本でその後ブームになる「アートプロジェクト」の先駆けとなった。

後半は数字を描いたドローイング、LEDのデジタルカウンターを用いたオブジェやインスタレーションの展示。ドローイングといってもただ紙に数字を書くだけでなく、裁断前のドル紙幣を数字の形に焼いたり、楽譜を切り取ったりあれこれ試しているし、デジタルカウンターも鏡面に取り付けたり模型機関車に乗せたりプールの底に沈めたり、さまざまなバリエーションを試みている。もちろんそれぞれに意味づけされているが、それをひとまず置いても楽しめるのは、チカチカと数字が変わることに加え、手を替え品を替えアイディアを繰り出す宮島のサービス精神ゆえではないだろうか。

一室に、千葉市美術館のコレクションから選んだ河原温、菅井汲、杉本博司、中西夏之、李禹煥の5作家による作品とコラボレーションする《Changing Time/Changing Art》というインスタレーションがあった。陳列ケースのガラスを鏡面状にしてデジタル数字の形に抜き、その透明な窓を通して5人の作品をかいま見るというものだ。自分の作品と先輩アーティストの作品を重ねたこの作品から、彼らに対する尊敬の念とともに強烈な自負も伝わってくる。デジタルを使いながら人柄がにじんでくる個展であった。

2020/12/12(土)(村田真)

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桑久保徹「A Calendar for Painters without Time Sense. 12/12」

会期:2020/12/12~2021/02/07

茅ヶ崎市美術館[神奈川県]

コロナ禍で企画展の自粛や延期が重なったせいか、ようやく年末になって見応えのある展覧会が増えてきた。これもそのひとつ。桑久保が2014年から、12人の画家のスタジオをカレンダー仕立てで描いてきたシリーズが完成、全12点およびLPレコード付きドローイングを公開している(1点は海外にあるため映像を出品)。なぜカレンダーかといえば、日本で西洋名画を身近に親しむメディアがカレンダーだったからではないか。画集のようにわざわざ開く必要がなく、毎日のように眺めるし、月替わりで異なる作品が鑑賞できるのだから。

桑久保が取り上げた画家は、1月のピカソから、ムンク、フェルメール、アンソール、セザンヌ 、ボナール、スーラ、ゴッホ、ホックニー、マグリット、モディリアーニ、そして12月のマティスまで、フェルメールを除いて近現代の巨匠たちばかり。おそらく作者が影響を受けた画家たちなのだろう。おもしろいのは、彼らのスタジオを描くという設定なのに、背景はマティス以外すべてオープンエアの浜辺であること。さらに瞠目すべきは、それぞれの代表作がことごとく描き込まれていることだ。つまり1枚の画面のなかに、巨匠たちの絵が「画中画」として何十点も模写されているのだ。痛快なのは、もともと画中画を描いているフェルメールやホックニーやマティスには「画中画中画」まであること(笑)。細密というほどではないけれど、1点1点どの作品か特定できるくらい忠実に再現されていて、画中画ファン(少数ながらいる)にとっては垂涎のシリーズというほかない。

それだけではない。例えば、1月のピカソは《ゲルニカ》に合わせてか全体がモノクロで描かれ、3月のフェルメールには全作品だけでなくヴァージナルやカメラオブスクーラまで並べられ、5月のセザンヌは遠景にサント=ヴィクトワール山らしき山塊を望み、8月のゴッホは星月夜の見事な夜景で、10月のマグリットは作品の半分以上が空に浮き、12月のマティスは眼下に海岸を見渡せる赤い室内風景になっている、といったように、それぞれの画家のアトリビュートを画面のどこかに忍ばせているのだ。これは何時間でも見ていられるなあ。ところで、タイトルの最後に「12/12」とあるけど、会期が12/12からなのは偶然か?

2020/12/13(日)(村田真)

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PUBLIC DEVICE──彫刻の象徴性と恒久性

会期:2020/12/11~2020/12/25

東京藝術大学大学美術館陳列館、絵画棟大石膏室[東京都]

これはおもしろい。2020年のベスト3に入るかも。公共彫刻をめぐる問題に焦点を当てた展覧会で、企画は小谷元彦と森淳一、共同キュレーターに小田原のどかが入っている。小田原は「展覧会に寄せて」のなかで、出品作家のひとり会田誠の「モニュメントには何らかの罪深さがある」「美術家としてモニュメントを作りたくなる誘惑への自制、自戒」という言葉を引き、「公共彫刻」における「自制、自戒」が本展に通底しているという。出品作家は20組。うち北村西望、本郷新、菊池一雄の3人は戦前・戦後を通じてモニュメントを手掛けてきた「旧世代」だ。北村はモニュメントの親分ともいうべき長崎の《平和祈念像》に関連するデッサン、本郷は旭川にある《風雪の群像》のプランドローイング、菊池はもともと軍人像が鎮座していた台座に3人の女性ヌードを載せた《平和の群像》のマケットなどを展示。菊池の作品は芸大所蔵だが、あとの2人はアウェーなのによく借りてこれたなあ。

戸谷成雄は日本の現代彫刻の転換点ともいうべきデビュー作《POMPEI・・79》など、森淳一は近代日本の問題が凝縮したいわゆる軍艦島をモチーフとする「Hashima Island」、小谷元彦はミケランジェロ作のダヴィデ像を模した高さ5メートルの女子高生モニュメント、青木野枝は未公開だったインスタレーションのマケットや作品解体中の映像、会田は「モニュメント・フォー・ナッシング」シリーズの写真や資料、および同シリーズの一環として兵庫県立美術館で発表した巨大ハリボテ彫刻の一部を展示。ある意味、自虐的ともいえそうな「自制、自戒」に満ちた作品群だ。

会場は絵画棟の大石膏室に続く。いまではほとんど無用の長物と化した大石膏室だが、同展には絶好の舞台だ。まず目に入るのが、騎馬像のあいだに挟まったブヨブヨの生命体みたいな椿昇のバルーン彫刻《Mammalian》。等身大の騎馬像が飲み込まれそうなほどデカイ。井田大介の《欲望の台座》は、彫刻に近くて遠いマネキンの「皮を剥ぐ」ことで近代彫刻を逆照射する。作品配置図にはロダンの《青銅時代》の石膏像も含まれ、(2020修復)と記されている。はてどういうことかとよく見ると、台座の欠けた部分が新しい石膏で補われていることに気づく。これか? その前には、サイドコアが「東京藝術大学」の文字をコピーした石膏の看板を台座に据えている。石膏に支えられてきた日本の美術教育のモニュメント。いや、墓碑か。

2020/12/16(水)(村田真)

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