artscapeレビュー
2021年02月01日号のレビュー/プレビュー
佐藤岳彦「裸足の蛇」
会期:2021/01/07~2021/01/18
オリンパスギャラリー東京[東京都]
1983年、宮城県生まれの佐藤岳彦は、2018年に日本写真協会賞新人賞を受賞するなど、このところ注目を集めている若手写真家である。2018年に刊行した写真集『密怪生命』(講談社)では、生と死の境界領域に潜む生きものたちの姿を鮮烈な画像で捉え、自然写真の新たな方向性を開示した。今回、オリンパスギャラリー東京で開催された個展「裸足の蛇」でも、壁面全体を使って250点余りのプリントを貼り巡らすという、意欲的な展示を試みている。
展示内容は、日本、アジア、南米などで「蛇となって森羅を這いまわり、裸足の邂逅をかさねた15年」の成果をアトランダムに展開するものだ。写真撮影を通じて、「わたしの内に生命をみつめる」という旅の記録といってもよいだろう。生命現象の不可思議さが伝わってくる密度の濃い展示だったが、それほど広くない会場のスペースの問題もあって、インスタレーションが成功していたかどうかは疑問が残る。「目」のイメージを中心に、「見ることと見られること」を問い直すパート、粘菌の格子状のパターンのイメージを中心に組んだパート、乱舞する蝶たちを連続的に撮影した写真をモザイク的に展示したパートなど、部分的には興味深いのだが、全体としてはややまとまりを欠いていた。1点1点の写真が互いに相殺してしまって、むしろ均質な展示に見えてしまう。また、写真だけでは方向性がつかみにくいので、もう少し言葉によるメッセージを加えてもよかったのではないかと思う。
大きな可能性を持つ作家なので、もっと大きな会場で、違ったパッケージの展示を見てみたい。文章能力の高さを活かして、言葉の比率を高めた展覧会や写真集も考えられそうだ。
2021/01/09(土)(飯沢耕太郎)
本山周平「日本2010-2020」
会期:2021/01/09~2021/01/24
ギャラリー蒼穹舎[東京都]
本展のDMに使われ、同時に刊行された写真集『日本・NIPPON 2010-2020 』(蒼穹舎)にもおさめられた写真を見たとき、かなり強い驚きがあった。湖面に影を落とす富士山、突堤の根元のあたりにたたずむ人物を、やや引き気味に撮影した写真の構図、明暗、空気感が、日本に写真が渡来した幕末・明治初期に撮影された湿板写真のそれと、まったくそっくりなことに気づいたからだ。あらためて確認してみると、写真展に展示され、写真集に収録された写真の多くから同じ印象を受ける。これは明らかに意図的というべきだろう。
本山周平は、2010年にも同タイトルの写真集を刊行している。その後、2016年には『NIPPON2003-2013』と題するカラー写真の写真集を刊行した。これらと今回の『日本・NIPPON 2010-2020』を比較すると、引き気味で画面のどこかに人物を配した写真が確実に増えてきているのがわかる。本山はどこかで、彼自身が風景を見る眼差しのあり方が、日本の写真家たちが幕末・明治初期以来育てあげてきた美意識と共振することに気づいたのではないだろうか。そのことが、今回の展示の出品作品の選択にもしっかりと反映されていた。別な見方をすれば、19世紀から20世紀を経て21世紀へと至ったにもかかわらず、日本の風景、あるいは日本人が風景を見る視線の基本的な構造は変わっていないということになる。本山の写真によって、あらためてそのことを確認することができた。
本山の写真家デビューは1990年代だが、その頃の現実世界に荒々しく挑みかかるようなスナップショットのスタイルは、もはや遠いものになってしまった。今回の展示作品のクオリティの高さは特筆すべきだが、逆にかつてのダイナミックな写真のあり方を取り戻すことはできないのだろうかとも思ってしまう。
2021/01/15(金)(飯沢耕太郎)
千葉正也個展
会期:2021/1/16~2021/3/21
東京オペラシティアートギャラリー[東京都]
千葉の絵は、自ら粘土をこねた人物みたいな彫刻を中心に、植木や水槽、ナイフ、靴など身の回りのものを寄せ集めて描いたもの。あえて分類すれば静物画だが、背景はグレーに塗りつぶされたり、アメリカ西部の風景だったりする。その粘土彫刻にはいろいろと意味がありそうだが、いずれにせよそれらのモチーフを机や棚に載せて、達者なテクニックで克明に描いていく。その絵自体何ともいえず魅力的なのだが、今回はそれをとんでもない展示方法で見せている。
会場に入ると、壁に絵はなく、ギャラリー中央に設けられた細い通路が目に入ってくる。絵は通路の両脇に、しかも通路に向いて並んでいるのだ。なんだこれは? と思いながら通路沿いに作品を見ていくと、カメがのそのそと通路上を歩いているのに出くわす。千葉が飼ってるリクガメのローラで、通路は彼(オスらしい)の散歩道だそうだ。だから通路沿いにビルボードみたいに立っている絵は、ローラが散歩がてら見るために並べられているのだ。その散歩道には起伏があったり広場があったり、隣のギャラリーに行くために壁にトンネルを開けたり、絵のモチーフに使われる粘土彫刻などが置かれていたり。こんな絵画展、これまであっただろうか。
今回はさらに、他人の顔に千葉が自画像を描いて紙に転写した「顔拓」とその映像や、ホットカーペットに担当キュレーターやギャラリースタッフの肖像を描いたシリーズも出している。特にキュレーターの肖像は床に敷かれていて、まるで踏み絵。みんな喜んで踏むだろうね。会場の隅にはベニヤ製の手形が四方を指している彫刻が置かれていて、なにかと思ったら、その手形の指す方向を見ると、貴乃花や若乃花のホンモノの手形が壁に貼ってあるではないか。これは楽しい。
ふつう絵画の展覧会でこんなことをすると気を
2021/01/15(金)(村田真)
公文健太郎『光の地形』
発行所:平凡社
発行日:2020/12/16
1981年生まれの公文健太郎は、このところ「農業がつくる日本の風景、土地がつくる人の営み、川がもたらすもの、季節が与えてくれるもの」を通して日本をもう一度見直そうとする、充実した仕事を続けている。平凡社から刊行された新刊の『光の地形』も意欲的な内容の写真集だった。
公文が今回撮影したのは、佐多岬半島、能登半島、島原半島、紀伊半島、薩摩半島、下北半島、男鹿半島、亀田半島という、日本各地の8つの半島の風景、地勢、そこに住む人たちの暮らしである。かつては、海と山をつなぐ海上交通の要として、文字通りの「先端」の地であった半島は、都市化の進行によって「行き止まりの場所」になってしまった。だが逆に半島を見直すことで、現在の日本の経済、文化、社会のあり方をあらためて問いかけることもできるわけで、公文の問題意識は極めて真っ当であり、多くの示唆をふくんでいると思う。
撮影の姿勢も、被写体ときちんと向き合った揺るぎのないものなのだが、写真集の、アンバー系の色味を強調した黒っぽい印刷はどうなのだろうか。公文は2016年のキヤノンギャラリーSでの個展「耕す人」(平凡社から同名の写真集も刊行)の頃から、意図的に暗めの調子のプリントで発表するようになった。観客や読者を写真の世界により集中させるためともいえるし、被写体によってはうまくマッチしている場合もある。だが、すべての写真を同一のトーンに塗り込めてしまうと、今回のように、それぞれの半島の個別性が薄れて均質な見え方になってしまう。視覚的情報を制限してしまうようなプリントの仕方が、うまくいっているとは思えない。個々の写真のあり方に即した、より細やかなトーン・コントロールが必要なのではないだろうか。
2021/01/17(日)(飯沢耕太郎)
ほろびて『コンとロール』
会期:2021/01/19~2021/01/21
下北沢OFF・OFFシアター[東京都]
ほろびては劇作家・演出家・俳優の細川洋平が主宰するカンパニー。2020年2月・3月に上演された『ぼうだあ』は大きな注目を集め、その後、期間限定で同作の映像と戯曲も公開されていた。4月には俳優の三浦俊輔がメンバーに加入。本作は細川のソロ・カンパニーから体制変更後、初の公演となる。
テレビゲームをしているうるい(藤井千帆)と永端(三浦俊輔)。うまくプレイできないうるいに永端は横からああしろこうしろと口を出すが、うるいは聞く耳を持たず気ままにゲームを楽しんでいる。プレイヤー交代。今度は永端が(腕前を自画自賛するような蘊蓄を垂れながら)プレイするが、うるいは退屈そうだ。しかしある瞬間、永端が握るコントローラーによって操作されるキャラクターの動きに連動し、うるいの体が彼女の意思とは無関係に動き出してしまう。どうやらそのコントローラーには近くにいる人間の体を自在に操作する力があるらしい──。
一方、カフェにいる男女。スーパーの店長であるイマミチ(松浦祐也)はアルバイトのしすく(鈴政ゲン)に契約の打ち切りを告げる。どうやら経営が思わしくないらしい。笑顔で話を聞いていたしすくだったが、突然泣き崩れてしまう。「生きていけない」「アンタが私と妹を路頭に迷わせるんだ」と責め立てるしすくに「いつも楽しそうだから、ほんとはお小遣い稼ぎくらいに思ってた」「うっかり」「知らなかったから」と言うことしかできないイマミチ。やがて「うちに来るのがいいと思う」としすくを抱きしめ──。
男たちが他人の生殺与奪の権利を図らずも得てしまうところからはじまる二つの物語はある日、イマミチとその弟カワハギ(細井じゅん)、しすくとその妹カコ(宮城茉帆)が同居するマンションの一室に、隣室に住む永端がコントローラーを持って闖入してきたことによって陰惨な監禁暴行事件へと展開していく。コントローラーを使ってイマミチたちを操り、自分自身やお互いを傷つけ合わせる永端。爪を剥がれ、腱を切られ、電気ショックを与えられ、指を折られ。痛みは抵抗する気力を削ぎ、イマミチたちはやがてコントローラーなしでも永端の指令に従うようになっていく。カワハギは片手片足が動かなくなり、カコは4本の指を折られ、しすくは永端に弄ばれ、そしてイマミチは息を引き取る。いつまでも続くかと思われた暴力の時間は、隣の部屋で同じように監禁されていたらしいうるいが外の世界へと出て行く決意をすることでようやく終わりを迎えるのだった。
陰惨な事件を起こした「犯人」は間違いなく永端だが、彼は自らの手を一度も汚していない。暴力を振るったのは監禁されていたイマミチたち自身であり、その意味では被害者は残らず加害者でもある。目を背けたくなるような暴力は事件を特別な、私とは無関係なもののようにも見せる。しかし、強者は自ら手を汚さず、立場の弱いもの同士が互いを攻撃し合う構図は、程度の差こそあれ、現代日本を含め古今東西あらゆるところで見られるものだ。
ところで、「犯人」たる永端さえいなければこのような事件は起きなかったのだろうか。永端の言葉はそれを否定する。「他でもないコントローラーに操られていただけなんだからなにひとつ俺に責任はない」。イマミチたちに対する絶対的な支配を可能としたコントローラーの存在は、それを使う側であるはずの永端をも操っていたというのだ。もちろんこれは卑劣な言い逃れだが、同時に、力というものの本質を表わしている。そう言えば、永端はコントローラーの力に気づいた当初、自らの体を進んでうるいの操作に委ね、「楽しかった」「すごい充実感」と言っていたのだった。それがどちらの側であれ、力に身を委ねることの快楽というものはたしかに存在する。
この行動は自らの意思によるものではない、という言い訳が人間を残虐にすることは心理学的実験によっても歴史的な事実によっても証明されている。大義名分を掲げることにも同じような効果があるだろう。あなたのため、国のため、あるいは作品のため、芸術のため。支配をめぐる構造は演劇という形式とも不可分に結びついている。演出家と俳優、俳優と役、俳優の意思と体。苛烈な暴力を舞台上に出現させているのは誰の意志か。
永端と暮らす部屋から逃げ出したうるいは裸足で走り続ける。透明なロープ状のものがうるいの体に絡みつき、その場に縛りつけようとするが、彼女はそれを振りほどき、やがて舞台と客席とを仕切る枠組みを越える(美術:西廣奏)。自分を縛る環境から逃れ出ることは容易ではなく、そもそも自分が環境に縛られていること自体を認識できない場合も多い。客席を正面から見据える彼女の目はこう問うているようだ。暴力を許していたのはほかならぬお前ではなかったかと。
本作は春ごろに配信が予定されている。
公式サイト:https://horobite.com/
2021/01/20(水)(山﨑健太)