artscapeレビュー

2021年02月01日号のレビュー/プレビュー

トヨダヒトシ映像日記/スライドショー

会期:2020/12/19、25、26

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

トヨダヒトシはニューヨークに在住していた1993年から、駐車場や公園、教会、劇場などのパブリック・スペースで、スライドショーの形で自作の写真を上映し始めた。もはや旧式になってしまったスライド・プロジェクターを使って、一枚ずつポジフィルムを手動で送りながら上映していく。途中に言葉(字幕)が映し出されることはあるが、基本的には写真が淡々と壁に映写されるだけだ。音楽等の音響も一切使わないので、観客は沈黙のまま画像を見続けるしかない。

トヨダはそのやり方を続けて、1990年代後半からは日本の美術館やギャラリーでもスライドショーを開催するようになった。時には廃校になった小学校の校庭などで、野外上映を行なうこともある。今回のふげん社のイベントで上映されるのは、1999年に初公開されたスライドショーの第一作の「An Elephant’s Tail─ゾウノシッポ」(12月19日)、2004年の「NAZUNA」(12月25日)、2007年の「spoonfulriver」(12月26日)の3作品である。そのうち、19日の「An Elephant’s Tail─ゾウノシッポ」の回を見ることができた。

実は3作品とも前に見たことがある。とはいえ、かなり前のことなので、その細部はほとんど覚えていない。そこにスライドショーという表現の面白さもあって、見るたびに新たな発見があるし、上映環境の違いによってかなり異なった印象を受けることにもなる。今回もそのことを強く感じた。 トヨダのスライドショーは自分自身の体験を綴った「映像日記」であり、「An Elephant’s Tail─ゾウノシッポ」では、1992-97年ごろの彼の身の回りの出来事が3部構成(約35分)で映し出される。窓からの眺め、迷い込んで来た猫、一緒に暮らしていた女性、エンパイア・ステイト・ビルの最上階での記念写真撮影のアルバイト──その合間に植物は育ち、花が開いては枯れ、狩人蜂は互いに殺し合い、夏から冬へ、また夏へと季節は巡る。その、見方によっては退屈極まりない日常の眺めが、瞬いては消えていくスライドの映像として再現されると、切々とした、不思議な輝きを帯びて見えてくる。トヨダのスライドショーの視覚体験には、魔法のような力が備わっていることを、あらためて確認することができた。

2020/12/19(土)(飯沢耕太郎)

大山エンリコイサム展 夜光雲

会期:2020/12/14~2021/01/23

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

最近、立て続けに作品発表と著書の出版を行なっている大山の最大規模の個展。大山は主に、グラフィティ(彼の用語によればエアロゾル・ライティング)特有の勢いあるジグザグの線を抽出した「クイックターン・ストラクチャー(QTS)」を用いて、壁画やペインティングなどを制作している。こうした絵画作品のタイトルはすべて「FFIGURATI」に統一され、作品ごとにナンバーが振られている。

最初の部屋は「レタースケープ」シリーズの2点。長さ6メートルほどの台紙に、漢字やアルファベットなどさまざまな言語で書かれた手紙をツギハギしたもので、片隅に「QTS」モチーフが小さく描かれている。どこか絵巻やパピルス文書を思わせるそれは、グラフィティの起源が文字と絵の融合にあることを証しているようだ。これも「FFIGURATI」の比較的初期の作品。次の部屋には2メートルを越す縦長の画面に、少しずつ異なる「QTS」を書いた「FFIGURATI」の新作9点が並ぶ。もっとも大山らしい作品だろう。逆によくわからないのは、黒い板状のスタイロフォームを斜めに天井まで積み上げた3点の立体。タイトルは「Cross Section/Noctilucent Cloud」で、訳せば「断面/夜光雲」となる。展覧会名にもなっている「夜光雲」は、噴霧状のエアロゾルからの連想だろうか。映像を見ると、黒いスタイロフォームを使っているのではなく、明るい色のスタイロフォームを積み上げて黒いエアロゾルを吹きつけているのがわかる。なにもない宇宙空間を切り取った暗黒の断片のようにも見える。

広大なメインギャラリーには、1点の《無題》と5点の「FFIGURATI」(うち2点は1枚の表裏に描かれている)が宙吊りになったり、壁にかけられたりして、スポットライトが当てられている。これこそ「夜光雲」か? 作品の下の床には塗料の滴りが認められるので、その場で制作し(または仕上げ)たのだろう。最後の部屋は真っ白で作品らしきものは見当たらない。よく見るとスピーカーがあり、エアロゾルの噴出音が流れているだけ……。ほかのアーティストなら笑ってしまうところだが、ここは大山だから納得する。あれこれ出している割にテーマも作品も絞れており、統一感のある展示に仕上がっている。が、裏を返せば、会場の広さに比して作品量が少なく、しかも色彩がないこともあって寂しい印象を受けたのも事実だ。

2020/12/19(土)(村田真)

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Connections─海を越える憧れ、日本とフランスの150年

会期:2020/11/14~2021/04/04

ポーラ美術館[神奈川県]

久々に足を伸ばして(といっても神奈川県だが)箱根のポーラ美術館へ。着いたのは3時過ぎ、いまは1年でいちばん日が短い時期なので、まずは森の遊歩道をぐるっと散策してみる。あー都会とは空気が違う。なにしろ活火山が近いからな。千年後、ポーラ美術館がポンペイみたいに発掘されないことを願うばかりだ。

「コネクションズ」はサブタイトルにもあるように、日仏の150年にわたる美術交流の一端を見せるもの。美術交流といっても、フランスからの一方的な影響を思いがちだが、150年前の発端は逆で、フランスが日本美術を熱烈に受け入れる「ジャポニスム」から始まった。展覧会は第1章を「ジャポニスム―伝播する浮世絵イメージ」とし、浮世絵と印象派やエミール・ガレの花器などを対置させている。例えば、ジヴェルニーの太鼓橋を描いたモネの《睡蓮の池》と、北斎の《冨嶽三十六景 深川万年橋下》はジャポニスム(ジャポネズリーというべきか)のわかりやすい例だが、ゴッホの《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》と、広重の《高田姿見のはし俤の橋砂利場》の対比は苦しい。ゴッホが浮世絵の熱烈なファンだったのは周知の事実だが、この頃はすでに外面的な模倣を超えて内面化していたはずだから、比較展示しても一目瞭然というわけではない。その印象派と浮世絵の合間に山口晃が割り込んできたり、荒木悠の映像が流れたりして、東西だけでなく今昔の対比も目論まれている。

もっとも興味深かったのは、第2章の「1900年パリ万博―日本のヌード、その誕生と展開」だ。日本に本格的にヌード画をもたらそうとしたのは、パリでラファエル・コランに学んだ黒田清輝だが、その彼が1900年のパリ万博に出品されていたコランの《眠り》に触発されて描いたのが、ポーラ所蔵の《野辺》。第2章ではこの2点を軸に、日本のヌード画の展開を追っている。黒田はそれ以前にも全裸のヌード像を描いているが受け入れられず、コランに倣って半身ヌードの《野辺》を制作。師弟のこの2点はよく似ているだけに、違いの持つ意味は大きい。まず目立つのが肌の違い。コランの白くて柔らかそうな官能的な肌に比べて、黒田のモデルは黄色っぽくて中性的だ。また、コランの女性は眠っているのか、無防備に腕を上げているのに対し、黒田の女性は目を開き、片手で腹部を隠している。さらに、コランの女性の腹部には毛皮がかかっているのに対し、黒田の女性にかかっているのは布という違いもある。こうした違いは、黒田が裸体表現から官能性を排して日本社会にヌード画を根づかせようと工夫したものだという。実際その後の岡田三郎助にしろ満谷国四郎にしろ、ヌード画の多くは腰を布で覆っているし、その影響は、本展には出ていないが、萬鉄五郎の革新的な《裸体美人》にまで及んでいるというのだ。なるほど、納得。

第3章の「大正の輝き」、第4章の「『フォーヴ』と『シュール』」では、印象派からシュルレアリスムまでめまぐるしく変わるフランス絵画の動きを、日本の画家が数年遅れで取り込んでいったことがわかる。ルノワールそっくりの中村彝、セザンヌそっくりの安井曾太郎、ユトリロそっくりの佐伯祐三といった具合に、一方的な影響が暴かれている。そこに森村泰昌を忍ばせることで、日本人の抱く西洋コンプレックスを決定づける。けっこうシビアな展示構成だな。

エピローグはフランスと対等に戦った画家としてレオナール・フジタが取り上げられている。このフジタ作品もそうだが、大半の作品をポーラ・コレクションで賄っているのはさすがだ。しかし「150年」とはいうものの、出品作品は明治から第2次大戦までの前半に集中し、戦後がすっぽり抜け落ちて、現代の森村や山口が唐突に登場するといういささかバランスの悪い配分になっている。もっとも戦後は相対的にフランスの影響力が落ちたから仕方ないけどね。

2020/12/20(日)(村田真)

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伊奈英次「残滓の結晶CRYSTAL OF DEBRIS」

会期:2020/12/17~2021/02/03

キヤノンギャラリーS[東京都]

2020年の写真展の掉尾を飾る意欲作である。1984年に、8×10インチ判の大判カメラを使って東京の風景を緻密な画像で定着した「In Tokyo」を発表して以来、伊奈英次の関心は都市という多面的な構造体をどのように写真化するかに向けられてきた。今回の「残滓の結晶CRYSTAL OF DEBRIS」では、それがひとつの臨界点に達しつつあるように見える。

伊奈は画像合成ソフトを使うときに出現する画像の欠陥(バグ)を意図的に利用して、ヴァーチュアルな都市空間を立ち上げることをもくろんだ。そのプロセスの要約は以下の通りである。「バグのコピーを繰り返すと、ある単純な反復画像が出現し、その反復画像を元の画像と再び合成することで、また新たな差異をともなったバグ画像があらわれる。その作業を繰り返すと単純な反復画像に回帰していく。再帰性のジレンマを回避するため、遊びや気まぐれといった恣意性をともなうコピーを重ねた果てに、この作品は完成する」。

このような偶発性と必然性を共存させたプロセスを経てでき上がった作品群は、まさに「結晶」という言葉にふさわしい、硬質な輝きを放つ画像の集積となった。元の画像は羽田空港、東京スカイツリー、六本木サウスタワー、品川インターシティといった、ある意味、よく見慣れたランドマークなのだが、それらの風景が元々孕んでいた内発的な崩壊感覚が、解き放たれて出現してきているようにも感じる。まさにデジタル時代の「In Tokyo」の試みともいえそうだ。普段は黒い壁面に、白い皮膜をかぶせて大画面の作品を並べた展示(会場構成・鵜澤淑人)もうまくいっていた。だが、フレームに入れて白枠をつけた写真作品は、ややタブロー的で、おさまりがよすぎるようにも見える。さらに徹底して、壁面全体(床や天井も含めて)に画像が増殖するようなインスタレーションもあり得たのではないだろうか。

2020/12/25(金)(飯沢耕太郎)

今井壽恵の世界:第二期「生命(いのち)の輝き–名馬を追って」

会期:2021/01/07~2021/01/31

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

連続写真展「今井壽惠の世界」の第二期として、コミュニケーションギャラリーふげん社で開催された「生命(いのち)の輝き–名馬を追って」展は、第一期の「初期前衛作品『魂の詩1956–1974』」とはまた違った面白さがある好企画だった。第一期では、今井が写真家として認められるきっかけになった、「心象風景」をさまざまな手法で展開した作品が並んでいたが、第二期では1962年に交通事故で重傷を負った以後に撮影し始めた写真群が「名馬の肖像」、「ガラス絵の牧場」の2部構成で展示されている。

馬たちを撮影した写真では、「フォトポエム」と称された初期作品の実験的、前衛的な表現は抑制され、被写体をストレートに撮影したドキュメンタリーとしての要素が強まってきている。とはいえ、ジェネシス、トウカイテイオー、オグリキャップなどを撮影した「名馬の肖像」のパートと比較すると、展示の後半部の「ガラス絵の牧場」のパートの作品には、彼女の写真の表現のあり方がより明確にあらわれているように感じた。そこに登場してくる草原を疾走し、雪の中で戯れ、夕陽にシルエットで浮かび上がる馬たちは、固有名詞化された競走馬ではなく、むしろ生命力そのものの象徴として捉えられている。「たそがれて」(1978)のように、空に馬たちの姿をモンタージュで合成した初期作品に通じる作品もあり、今井自身の「魂」に直接響き合うイメージが見事に形をとっていた。

これまでは今井の「初期前衛作品」と後期の馬たちの写真は、対比的に見られることが多かった。だが、それらを「生命の輝き」、「魂の詩」を体現した作品群として、一体化して捉える視点も必要になるのではないだろうか。

2021/01/08(金)(飯沢耕太郎)

2021年02月01日号の
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