artscapeレビュー

2021年06月01日号のレビュー/プレビュー

石内都展 見える見えない、写真のゆくえ

会期:2021/04/03~2021/07/25

西宮市大谷記念美術館[兵庫県]

石内都が関西地域の美術館で展覧会を開催するのは初めてだそうだが、とても充実した内容の展示になった。石内は2017年に、長年住み慣れた横須賀から群馬県桐生に移転した。そのことで、あらためてこれまでの自分の作品を見直し、新たなスタートラインを引き直そうと考えたのではないだろうか。作品の選定や配置にも、そんな思いがよく表われていた。

展示室Iには「ひろしま」と「Frida by Ishiuchi」「Frida Love and Pain」が、展示室IIには「連夜の街」「絹の夢」が、展示室IIIには「INNOCENCE」「Scars」「sa・bo・ten」「Naked Rose」の連作が並ぶ。 これらは旧作だが、スライド上映を試みたり(「連夜の街」)、シリーズごとに壁の色を変えたりするなどインスタレーションに工夫を凝らしていた。また「Naked Rose」のパートでは、2006年に制作されたという、カメラをゆっくりと移動させながら、バラの花弁をクローズアップで撮影した映像作品も出品されていた。

展示室IVには近作、新作が並ぶ。「One Day」「Yokohama Days」は、日常の情景をカラー写真でスナップ撮影したシリーズ、「Moving Away」は引越しをきっかけに、横須賀の自宅とその近辺、さらに自分の手足を「セルフ・ポートレート 」として撮影した写真群である。衝撃を受けたのは「The Drowned」で、2019年の台風19号で大きな被害を受け、収蔵庫が水没した川崎市市民ミュージアムで、自分の作品にカメラを向けている。急遽、展示が決まったそうだが、泥にまみれ、損傷し、異臭を発するプリントに向ける視線のあり方が、「ひろしま」や「Scars」とまったく変わらず、その触感を丁寧に画像に移し替えようとしていることに、逆に胸を突かれた。

展示室IVの作品には、石内が新たな表現の世界へとさらに踏み出していこうとしている強い意欲を感じる。むしろ新作だけで構成された展覧会を見てみたい。

関連レビュー

石内都「肌理(きめ)と写真」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年01月15日号)

石内都展 Frida is|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年08月15日号)

2021/04/16(金)(飯沢耕太郎)

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モネ─光のなかに

会期:2021/04/17~2022/03/30

ポーラ美術館[神奈川県]

ポーラ美術館は約1万点のコレクションを有するが、藤田嗣治コレクションと並んで充実しているのがモネ作品で、国内最多の19点を誇る。うち11点が、建築家・中山英之のデザインした空間の中で展示されている。選ばれた作品は《睡蓮の池》《ルーアン大聖堂》《国会議事堂、バラ色のシンフォニー》《サルーテ運河》など、主に夕暮れ時の微妙な光を捉えたものが多い。まず、トタンのような波型の板を角ができないように湾曲させて壁をつくり、その上に絵を掛けている。中山氏によれば、苦労したのは、作品を覆うガラス面に背景が映らないようにすることで、そのために壁の曲面の角度や絵の配置を考え抜いたという。

照明は直接絵に当てず、裏から天井に向けて光を当てた反射光で見せているので、少し薄暗い印象だ。もちろんこれは絵に描かれた風景に合わせてのことで、日の出2時間後、日の入り2時間前の薄明を意識しているのだそうだ。とはいえ《セーヌ河の日没、冬》みたいな日没の暗い光もあるので、すべての絵にとって適切な照度とはいえない。そこで中山氏が徐々に赤みがかった照明に変えてみせると、《セーヌ河の日没、冬》から鮮やかな夕日が浮かび上がってくるではないか。そこまでやるか? そこまでやるならゴテゴテうるさい額縁を一掃して、MoMAのようにシンプルなフレームに統一してほしいと思った。だって額縁がいちばん目障りなんだもん。

2021/04/16(金)(村田真)

フジタ─色彩への旅

会期:2021/04/17~2021/09/05

ポーラ美術館[神奈川県]

藤田嗣治といえば、1920年代のエコール・ド・パリ時代の「乳白色の肌」と、第2次大戦中の「戦争画」がよく知られている。白い女性ヌード像と血みどろの活劇画ではまるで正反対だが、その両極で頂点に立ったところが藤田のすごいとこ。でもその両極にも共通点はある。それはどちらも色彩に乏しく、ほとんどモノクロームに近いことだ。同展はそんな藤田の「色彩」に焦点を当てた珍しい企画。

出品は初期から晩年まで200点以上に及ぶが、ポーラのコレクションを中心にしているため、20年代の乳白色のヌードは比較的少なく、戦争画はまったくない。むしろそれゆえ「色彩」というテーマが浮かび上がったというべきか。作品が集中しているのは、パリから離れて中南米を旅していた1930年代と、戦後パリに定住してからの1950年代で、10年代、20年代、40年代、60年代はそれぞれ10点前後の出品なのに、30年代は30点以上、50年代は150点(うち約100点が「小さな職人たち」シリーズ)にも上っている。

30年代に色彩が豊かになったのは、乳白色がマンネリ気味になってきたこと、心機一転しようと(税金逃れもあったらしい)中南米を旅するなかで、明るい気候風土に触れたことだといわれている。いかにもな理由だが、いくら売れてるとはいえ10年も同じスタイルでやっていくと、志ある画家なら自己変革していきたいと願うはず。そのとき有効だったのが見知らぬ土地への旅だったに違いない。同展が「色彩」と、もうひとつ「旅」をキーワードにしているのはそのためだ。ブラジルで描いた《町芸人》や《カーナバルの後》などのにぎやかな風俗画は、乳白色と同じ画家とは思えないほどどぎつい色彩にあふれている。

その後、日本に戻って戦争画にのめり込んでいくことになるが、軍靴の響きが近づくにつれ、再び色彩は失われていくのがわかる。そして敗戦、戦争責任追及、日本脱出とツライ出来事が続くさなか、花園で踊る三美神を描いた《優美神》はいかにも場違いでグロテスクでさえあるが、西洋の古典美と色彩への渇望をそのまま絵にしたカリカチュアにも見えてくる。

再びパリに移住してからは、乳白色も戦争画もなかったかのようにカラフルな子供の絵に没頭する。しかし「小さな職人たち」シリーズをはじめとする子供の絵は、おしなべて無表情でちっともかわいくないし、色彩もたくさん用いているわりに明るい印象はない。

日本人を捨ててフランス国籍を取得し、カトリックに入信。これが藤田の人生最大の、そして最後の旅だったに違いない。最晩年に宗教画に没頭し、自ら建立した礼拝堂の壁画を完成させたのは、辻褄の合わなかった画家人生に無理やりオチをつけようとしたからなのか。

2021/04/16(金)(村田真)

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BankART Under 35 2021 井原宏蕗、山本愛子

会期:2021/04/23~2021/05/09

BankART KAIKO[神奈川県]

35歳以下の若手アーティストを支援する展覧会で、6月まで2カ月間にわたり計7人のアーティストを3回に分けて紹介していく。その第1回は、彫刻の井原宏蕗と染織の山本愛子の2人。

井原は動物の糞を使って彫刻を制作している。代表的なのは、犬や羊の糞を固めてその動物の全身像をつくった作品。排泄物によって、排泄した本体を再現しているわけだ。表面は漆でコーティングしてあるため、どれも黒くて無臭であり、いわれなければ糞だとわからない。糞が彫刻を構成する最小単位なので、点描絵画ならぬ点糞彫刻。そこでふと思うのは、人間像はつくらないのかということ。いや、つくらなくていいけど。絹布に蚕の糞(蚕沙と呼ぶらしい)で染めた新作は今回のためにつくったもの。会場のKAIKOはその名から察せられるとおり、輸出用の生糸を保管しておく帝蚕倉庫を改造したスペースだからだ。

山本は打って変わって草木染めの作品。テキスタイルを専攻した彼女は、中国やインドネシアなど東アジアを旅するうちに染織の素材や技法だけでなく、それがどんな土地で生まれ、どんな風土で培われてきたかに関心を抱くようになったという。今回は絹布に草木染めの作品を出品。藍から緑、黄、橙色までさまざまな色に染めた絹布をフリーハンドでつなぎ合わせ、大きな木枠に張っている。自然素材のため色彩もフォルムもテクスチャーも淡くて柔らかいが、絵画として見ればありふれた抽象でインパクトは弱い。しかし注目すべきは展示方法で、タブローと違って壁から離して裏面も見えるように展示しているのだ。いわば旗のようなリバーシブル作品。これは絵画にも応用できるかも。

黒褐色の糞の固まりとパステルカラーの草木染め。2人の作品は一見正反対を向いているように感じるが、どちらも自然素材。しかも糞にしろ漆にしろ絹にしろ染料にしろ、生物がつくり出す生成物や分泌物を素材にしている点で共通している(特に両者とも絹布を使っているのは、場所の記憶を呼び覚ます意図もあるようだ)。こうした「バイオメディア」による制作はポストコロナのひとつの流れかもしれない。

2021/04/23(金)(村田真)

イサム・ノグチ 発見の道

会期:2021/04/24~2021/08/29

東京都美術館[東京都]

昨秋開催予定だったのがコロナ禍で半年間延期になり、ようやく開かれたと思ったら、緊急事態宣言発令のためわずか1日の公開で閉じてしまった悲運の展覧会。会期は8月29日までたっぷりあるので、まさかこのまま終了にはならないと思うけど……。イサム・ノグチの作品は、これまで展覧会やニューヨークのノグチ美術館などで目にしてきたが、どこかユーモラスな彫刻もさることながら、照明デザインやモニュメントなども手がけていることもあって工芸的に見え、あまり興味が持てなかった。でも今回の展覧会はおもしろかった。どこがおもしろかったのかといえば、作品そのものではなくディスプレイだ。

地階の入り口を入ると壁がすべてとっぱらわれ、だだっ広い展示室に作品を点在させている。ほほう、そうきたか。中央には球形の「あかり」が100点以上ぶら下がり、その下を歩くこともできる。それを囲むように石や金属の抽象彫刻が一見ランダムに置かれている。1階、2階もほぼ同様の展示だ。制作年代もまちまちなので、彫刻の発展過程を学ぶとか、作品の意味を考えるみたいな教養趣味の押しつけがましさはなく、奇妙な形のオブジェの周囲を自由に巡り歩く楽しさがある。ちなみに1階では、隅にソファと「あかり」が置かれていたため、まるで家具のショールームのようにも見えてしまった。それはそれでイサム・ノグチの本質が現われているのかもしれない。

このように壁に沿って作品を展示するのではなく、床に点在させているため、キャプションの位置が難しい。キャプションを床に置けば見苦しいし、歩行の妨げにもなるので、ここでは当該作品に近い壁にキャプションを貼っている。でもそれだけではどの作品のキャプションかわかりづらいので、作品の略図まで載せているのだ。ただ相手は彫刻なので、略図はキャプションの位置から見た姿でなければならず、いうほど簡単なことではない。いろいろ工夫しているなあ、と感心する。

2021/04/23(金)(村田真)

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2021年06月01日号の
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