artscapeレビュー

2021年06月01日号のレビュー/プレビュー

青年団リンク やしゃご『てくてくと』

会期:2021/04/17~2021/04/27

こまばアゴラ劇場[東京都]

伊藤毅が作・演出を務める青年団リンク やしゃごはその前身である青年団若手自主企画伊藤企画時代から、障害者とその周囲の人々を繰り返し描き続けてきた。最新作のテーマは「発達障害グレーゾーン」だという。

舞台は事務所に工場、直売店が併設された「コグマ製菓」の休憩室。障害者雇用で働く間宮(藤尾勘太郎)はようやく仕事に慣れてきたところだが、本当はパソコンを使った仕事をしたいと思っている。同じく障害者雇用で働く中本(井上みなみ)は小学生の工場見学でなぜか特技のルービックキューブを披露することに。一方、二人のジョブコーチの猿手(とみやまあゆみ)は、自らの仕事のできなさに落ち込む新入社員・八幡(石原朋香)の様子を見て相談に乗れるかもしれないと申し出る。八幡は猿手の勧めに従い発達障害の診断を受けるが結果はグレーゾーンで──。


[撮影:田中流]


「発達障害グレーゾーン」は「発達障害の特性があるが、診断基準は満たさない状態を指す通称」。当日パンフレットには「診断基準を満たす場合と比べ困難は少ないと思われがちだが、理解や支援が得られにくいなど、グレーゾーンならではの悩みもある」という解説も付されている。自分は発達障害だからこんなにも仕事ができないのだと折り合いをつけようとしていた八幡はその結果が受け入れられず「こんなに困ってるのに」「私普通なんですか?」「私は発達障害になりたかったんです」と感情を爆発させる。

八幡のあんまりな発言に「中本に失礼ですよ」と怒り出す工場ライン長の犬塚(佐藤滋)。それにもちろん、たとえ発達障害だという診断が下されたところで八幡の抱える困難のすべてが解決するわけではない。上司の綿引(中藤奨)は障害者雇用だと給料が安く、発達障害では障害者年金ももらえないという現実を八幡に突きつける。だから自分はクローズで(=障害のあることを伏せて)就職したのだと。「八幡さんは、出来ると思ってたことが出来なくて、駄々こねてるだけです」。

綿引の怒りの矛先は犬塚にも向かう。犬塚は中本に自らの妹の姿を重ねて見ているらしい。工場見学で中本にルービックキューブを披露させることを提案したのも犬塚だ。何かと中本を構う犬塚に綿引は「中本さんのことどう思ってるんですか?」「かわいそうだと思ってるんでしょ?」「思ってるから、あんな構うんですよ」「どっちが失礼なんだ」と畳みかける。その言葉は中本が猿手との面談で発した「私を助けてくれるから」「言われてる気がする。お前が悪いって」という言葉とも呼応するだろう。


[撮影:田中流]


「障害」は個人の性質ではなく周囲の環境との関わりなかに生じるものだという考え方がある。八幡の両親は家業であるケーキ屋を手伝う娘の「できなさ」を本人には「言えなかった」。結果として八幡は外で働くようになってはじめて自分の「できなさ」と向き合うことになる。両親の選択は「正しかった」のか。

一方、事務所で働く牧野(岡野康弘)と直売店で働く小渕(木崎友紀子)の娘は去年から学校に行っていないらしい。「私は別に自由にしたらいいと思うんだけど」「逃げられるんだったら、逃げた方がよくない?」と小渕は言うが、夫の牧野はフリースクールに通うことには前向きではないという。不登校の理由は明かされないのだが、小渕は八幡を「ピッコロ」と中学時代のあだ名で呼ぶ山下(辻響平)に「それって、いじめじゃないの?」「もう呼ぶのやめなね」と厳しい。山下は八幡が「嫌がってた前提じゃないですか」と反発するが、「ピッコロ」が『ドラゴンボール』に登場する全身緑色の宇宙人に由来するあだ名であることを考えれば八幡がそう呼ばれることを嫌がっていた可能性は高いだろう。しかし八幡と同期の小湊(赤刎千久子)は「ぴっころ」を『にこにこぷん』に登場するしっかり者の女の子ペンギンのことだと勘違いし、落ち込んでいた八幡を励まそうとして「ぴっころ」を連呼してしまう。


[撮影:田中流]


伊藤の筆は残酷なまでに公正だ。人も行為も出来事も、単純な善悪に振り分けることを許さない。コグマ製菓の人々に工場見学に訪れる小学校の先生・植田(緑川史絵)を加えた11人の登場人物の間に生じるいくつもの小さな出来事を通して、伊藤は観客の感情と思考を揺さぶり続ける。中本は「ちゃんと言ってくれないとわからなくて、すいません」と曖昧な会話の意図を汲み取れないことを詫びるが、翻って犬塚は、山下は、小湊は、あるいは私は、どこまで相手の気持ちを理解できているだろうか。

結局、八幡は「もうちょっと頑張ります」と自分にできることを探しはじめる。工場見学でのルービックキューブの披露は無事に成功し、中本自身も嬉しそうにしていたらしい。犬塚の暴走にも見えた提案は、結果としてはよかったことになる。間宮はひとつ仕事が終わるたびにスタンプカードにシールを貼っている。それは「自分は間違ってない」と安心できるからだ。誰もが正解のない問いに向き合い、誰かに「間違ってない」と言ってもらいたいと思いながらときに間違い、それでも日々を「てくてくと」一歩ずつ進んでいく。そうやって進んでいくことだけは「間違ってない」。エピローグで間宮が八幡と犬塚に差し出すシールはどこまでも優しい。


青年団リンク やしゃご:https://itokikaku.jimdofree.com/


関連レビュー

青年団リンク やしゃご『上空に光る』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年10月15日号)

2021/04/23(金)(山﨑健太)

urauny「urauny dinner」

会期:2021/04/10~2021/05/05

White House[東京都]

Chim↑Pomのメンバーである卯城竜太、アーティストの涌井智仁、ナオ ナカムラの中村奈央によって運営される会員制のアートスペースWhite Houseの第一弾「展覧会」、「urauny dinner」が開催された。dinnerの語が示す通り、この展覧会は予約制レストランとして運営されており、観客は1時間ごとに4人ずつの予約枠を事前に押さえたうえで会場であるWhite Houseを訪れる。「提供される料理の素材は、無添加の有機食材などを使用した市販薬や化粧品」であり「作家は薬学者へのヒアリングと自身で食する事で安全を個人的に確認してきましたが、それは社会的に担保されるものではありません」とのことで、予約時には同意書へのチェックも求められる。

受付ではスマートフォンが回収され、私語が禁止であることを告げられると中へ。そこには白一色の立方体の空間が広がっている。入り口のある角から右奥へと対角線を引くように白く細長いテーブルが置かれていて、その突き当たる角にはテーブルがそのまま垂直に立ち上がるような形で強烈な白い光を発する照明器具が設置されている。連想したのは映画『2001年宇宙の旅』、あるいは実写映画版『進撃の巨人』(後編)に登場する謎の白い部屋。鳥や獣の鳴き声、何語かわからない会話に重低音(あるいはそれは照明器具から発せられたものかもしれないが)などが入り混じった音が聞こえてくる。それは発生源を想像することができる具体的な音を素材としながら、全体としてはどこでもない、むしろそれらの具体物からは切り離された空間を演出していた。

横並びでテーブルにつくとメニューが配布され、注文が決まったら手元のボタンを押してスタッフ(作家?)を呼ぶように言われる。しかし個別のメニュー名は文字化けしたような表記になっておりフード、(ノンアルコールの)ドリンク、アルコールの種別と値段の違いしかわからない。私は3000円のフードと1000円のドリンクを注文した。


「urauny dinner」メニュー表


しばらくすると水が提供されカトラリーがセッティングされる。カトラリー、と言ってはみたものの、それは私の知るフォークやナイフといったものではなく、Sの文字をグッと引き伸ばしたような(積分のインテグラル記号のような)形状の金属製の棒である。3種類の異なる太さのそれはテーブルの縁と平行に、波模様を描くよう恭しく置かれるのであった。

またしばしの間ののち、ドリンクが運ばれてくる。氷とともにロックグラスに入れられたトロリとした微発泡性の液体は私の予想に反し意外にも「飲める」。ジントニックがこんな味ではなかったか(私はほとんど酒を飲まないので何かほかの酒と混同している可能性もあるが)。

ちびちびとドリンクを飲んでいる間にほかの客の皿が運ばれてくる。どうやら居合わせた2人は同じものを頼んだらしい。チラリと見るとそこには棒状の物体が三つ並び、その上にはさまざまなトッピングが施されているようだ。小洒落たエクレアのようにも大きめの小枝(お菓子のアレを想像していただいても本物の枝だと思っていただいてもよい)のようにも見える。2人の客はカトラリーは使わず、手でつまんで端からそれをかじっていた。ポリポリと硬めの咀嚼音が聞こえてくるが、食が進まないらしく手も口もすぐに止まり、ときたま思い出したようにまたひと口、という様子。

かなり待たされた後で私の皿が運ばれてきた。鳥の嘴のような形状の物体と緩いマッシュポテトのような、あるいは少量の水で溶いた粉末のコーンスープのようなドロっとした液状の何か。表面に焦げ目がついた(おいしそうとも言える匂いのする)それらの上には青い花弁が散らされている。「鳥の嘴」と「マッシュポテト」が並ぶ様は焦げ目も相まってラクレットチーズ(バーナーで炙ってパスタの上にダーっとかけるアレ)のように見えなくもない。さすがに手で、というわけにはいかず、カトラリーになすりつけてひと口。おいしくも不味くも食えなくもないという絶妙なライン。私は食べ物を残すことにかなり強い抵抗感があり、完食するつもりでしばらく食べていたのだが、カトラリーが液体を掬える形状ではないためごく少量ずつしか口に運べず、しかも食べているうちにうっすら気持ち悪くなってきたためあえなくギブアップ。ドリンクにせよフードにせよ、味よりはむしろ口に残る舌触りの方が「気持ち悪い」と感じる原因だったように思う。


鐚 鐚 鐃�鐚醐執鐚�(2021)


しかしこれ以上は食べられないとなってもスタッフはキッチンに引っ込んでいて、どうなれば終わりなのかもわからない。手持ち無沙汰な時間を潰そうにもスマートフォンは手元にない。ほかの客とともに無言でスタッフを待つ気まずい時間がかなり長く続く。漂う気まずさには出された食べ物を完食していない(というかほとんど残している)ことへの罪悪感も含まれているだろう。宇宙人との会食に呼ばれたものの食事が口に合わず、残したことで相手の機嫌を損ねはしないだろうか(怒って私を食べたりしないだろうか)と心配するような心持ちである。

ようやく解放されると注文したメニューの食材が記された名刺大のカードを受付で手渡され、そこで私はようやく自分が何を食べたかを知ることになる。マウスウォッシュ、目薬、リップクリーム、脱毛クリーム等々。なるほど、そもそもマウスウォッシュやリップクリームは使っているうちにその一部が体内に取り込まれているだろうし、目薬もまた目の粘膜を通して「摂取」されるものだ。それらを使う行為と飲食との違いは実はそれほどないとも言えるのかもしれない。



しかし参ったのはその後である。帰宅して風呂に入ってはボディソープやシャンプー、入浴剤の匂いが、歯を磨けば歯磨き粉の匂いが吐き気を誘う。それは匂いに対する条件反射に過ぎないのだが、肌や口腔からそれらを「摂取」していることへの自覚が、身体という境界を侵犯されることへの抵抗として吐き気を生じさせているのだとも言えるだろう。そのとき、「食べられて」いるのはむしろ私の方なのだ。では、普段の食事はそうではないと言い切れるだろうか。「会食」のテーブルの向かいには誰も座っていなかった。私が対峙する相手は皿の上の「食べ物」であり、テーブルの向こうに広がる世界だったのだ。私の身体は一生をかけて内部から侵食され、世界という外部へと消化されていく。


urauny:https://twitter.com/urauny


関連記事

コロナ禍における正反対のふたつの展覧会──ダークアンデパンダン/内藤礼 うつしあう創造|能勢陽子(豊田市美術館):キュレーターズノート(2020年07月01日号)

2021/04/28(水)(山﨑健太)

大・タイガー立石展 POP-ARTの魔術師

会期:2021/04/10~2021/07/04

千葉市美術館[千葉県]

緊急事態宣言で都内および近辺の美術館、ギャラリーが軒並み休館を余儀なくされるなか、唯一、見たい展覧会で予約不要だったのがこれ。出品点数約200点、しかも眺めるだけでなく読み解く絵画が多いので、久々に見応えのある展覧会だった。

タイガー立石こと立石絋一は1941年生まれなので、今年が生誕80年。1963年に最後の「読売アンデパンダン」展でデビュー。以後、中村宏と「観光芸術」を提唱し、ポップでキッチュな前衛絵画を制作する一方で、ナンセンス漫画も描き始め、タイガー立石をペンネームとする。しかし本人によれば「売れっ子になりそうな危機を感じて」1969年にイタリア移住。ミラノでオリベッティ社のデザイナーとして働き、絵画、イラスト、漫画などで生計を立てる。このへんのダイナミズムはほかの日本人作家にはないところだ。1982年に帰国し、立石大河亞に改名。晩年は絵画、漫画、絵本に加え、陶芸にも手を出す。1998年に56歳で死去。

こうして見ると、数年ないし10数年にいちど大きな転機が訪れているのがわかる。改名もそのきっかけづくりなのかもしれない。おもしろいのは、そのつど活動の場は広がるものの、作品内容はあまり変わっていないこと。例えば、1963-64年の《東京バロック》と、1992年の《香春岳対サント・ビクトワール山》を比べてみると、両者には30年近い時差および東京と福岡(と南仏)との風景の違いがあるのに、どちらも富士山、蒸気機関車、動物、フェンスなどがごちゃごちゃとコラージュ風に描かれ、パッと見よく似ている。

進歩がなかったのではない。イタリア滞在でトポロジカルな発想や宇宙的ナンセンス、絵画と漫画の融合というべきコマ割り画法などを我がものとし、確実に世界観を広げた。しかしそれは漫画やイラストに生かされ、絵画ではあえて昭和ポップな画法にこだわったようにも見える。その集大成が平成に入ってから描かれた《明治青雲高雲》《大正伍萬浪漫》《昭和素敵大敵》の3部作だろう。3作合わせて幅20メートル近い大パノラマだ。これは圧巻、これを見られただけでも満足じゃ。もし生きていたら、続編の「平成」はどんな絵柄になっただろう。タイガー立石、もっと評価されてもいいアーティストだと思った。

2021/05/03(月)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00056673.json s 10169127

Ryu Ika『The Second Seeing』

発行所:赤々舎

発行日:2021/04/01

パワフルの一言に尽きる。『The Second Seeing』は、中国・内モンゴル自治区の出身で、武蔵野美術大学、パリ国立高等美術学校などで学んだRyu Ikaの、私家版ではない最初の写真集である。収録されているのは、第21回写真「1_WALL」展のグランプリ受賞者個展としてガーディアン・ガーデンで開催された、同名の展覧会の出品作。展示では、出力したプリントを壁一面に貼りめぐらせたり、くしゃくしゃに丸めて床に積み上げたりして、目覚ましいインスタレーションを実現していたのだが、今回の写真集ヴァージョンでも、出力紙を折りたたんだ状態で印刷するなど、印刷やレイアウトに工夫を凝らして視覚的スペクタクルの強度をさらに上げている。内モンゴル自治区、エジプト、日本、フランスで撮影された写真群が入り混じり、衝突しあって、異様にテンションの高い映像の世界が出現してきているのだ。ギラつくような原色、神経を苛立たせるノイズ、物質感を強調することで、真似のできない独特の表現のあり方が、形をとりつつある。

状況を演出し、撮影した写真にも手を加えることが多いにもかかわらず、Ryu Ikaの写真は現実の世界から離脱しているのではなく、むしろ地に足をつけた重力を感じさせる。それは、写真のなかに「我」を埋め込みたいという強い思いが貫かれているからだろう。ガーディアン・ガーデンでの展示に寄せたテキスト(本書にも再録)に「ただ撮った/見た風景を紙に再現したと思われるのが気が済まないというか、その現実からデータ、データから現実のプロセスの中に『我』がいることを、我々作り手としては、それを無視したくない、無視されたくないと世の中に伝えたい」と書いている。若い世代の写真家たちの仕事を見ると、画像を改変することで、「我」=「私」の痕跡を消去してしまうことが多いように感じる。そんななかで、Ryu Ikaの「我」に固執する姿勢は際立っている。そのことが彼女の写真に、絵空事ではないリアリティを与えているのではないだろうか。

2021/05/04(火)(飯沢耕太郎)

藤岡亜弥「花のゆくえ」

会期:2021/05/06~2021/05/30

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

藤岡亜弥は、今回の個展のために自分の古い写真を見直しているうちに、花の写真がかなり多いことに気づいた。意図的に花にカメラを向けるのではなく、無意識的に写り込んだものが多いが、逆にそこから何かが見えてくるのではないかと考えた。写真展に寄せたテキストに「花はいのちのメタファーとしてわたしの存在をより確かなものにしてくれるだろうか。また、花は女のメタファーとしてわたしの傾斜や偏見を説明してくれるだろうか」と書いているが、メタフォリカルな志向はそれほど感じられず、そこにある花を即物的に撮影していることが多い。とはいえ、そこにはやはり「藤岡亜弥の花」としかいいようのない独特の雰囲気が漂っているように感じられる。

ひとつには、花を単独で捉えている写真は少なく、多くは周囲の事物や人物たちが写り込んでいるということだ。花々はさまざまな事象と関係づけられ、その間にあって強い存在感を発している。花がそこにあることで、その場面の持つ意味が微妙に揺らぐ。そのことが、藤岡にシャッターを切らせる動機になっているように見える。もうひとつは、藤岡が撮影する花たちが「いのちのメタファー」=生命力の象徴、というよりは、むしろ死の匂いを濃厚に発しているということだ。それは花の写真に限らず彼女の初期の写真からずっと一貫している傾向で、どんなに輝かしい場面を撮影していても、不吉な翳りが滲み出てくるように感じる。花はそこでは、じわじわと死に向けて進行していく時間そのものを封じ込める器となっているのではないだろうか。

ひとりの写真家の仕事を、何か特定のテーマで掬いあげていくのは、なかなか面白い試みといえる。その写真家の無意識の領域が滲み出てくる可能性があるからだ。「花のゆくえ」を見極めることで、次の一歩を踏み出すきっかけが見つかるかもしれない。

2021/05/08(土)(飯沢耕太郎)

2021年06月01日号の
artscapeレビュー