artscapeレビュー
2022年07月15日号のレビュー/プレビュー
木原千裕「Wonderful Circuit」
会期:2022/05/24~2022/06/25
ガーディアン・ガーデン[東京都]
木原千裕は昨年、第1回ふげん社写真賞を受賞し、写真集『いくつかある光の』(ふげん社)を刊行した。今回の展示は第23回写真「1_WALL」のグランプリ受賞者個展である。ほかにも2018年に塩竈フォトフェスティバル写真賞で特別賞を受賞するなど、このところの活躍は目を見張るものがある。
木原が注目されているのは、あくまでもプライヴェートな視点にこだわりつつ、その写真の世界が開かれた普遍性を備えているからだろう。今回の「Wonderful Circuit」でも、僧侶である同性の恋人との関係が途絶したことをきっかけに、宗教とは何かと考えるようになり、チベットの聖地、カイラス山を訪れるというダイナミックな行動が写真の下地になっており、内向きになりがちな「私写真」の範疇を大きく拡張するストーリーが織り上げられていた。
会場構成にも特筆すべきものがあった。木原は展示の構想を練るうちに、仏教思想の「縁起」という概念に強く惹かれるものがあったという。「縁起」とは、万物は縁によって結びつき、生起し、消滅していく。一切は実体を持たない空であるという考え方だが、写真もまた、独立した個体ではなく、互いに結び合わされた関係性の束として捉え直される。その実践として、日本で撮られた恋人にまつわる写真、日常の光景、カイラス山への巡礼の旅などの写真群が、バラバラにシャッフルされた後で、いくつかの塊となって壁に並んでいた。どの壁に、どれくらいの大きさの写真を、どうちりばめるのかに苦心した様子が伝わってきたが、その試みがうまくいっていたかといえば、そうともいえないところがある。ただ、このようなもがきが、次のステップにつながっていくことは確かだと思う。
プライヴァシーの問題があって、本作を写真集として刊行できるかどうかはまだわからないということだが、ぜひ本の形でもまとめてほしい。その場合には、展覧会とはまた違った写真の構成原理を考える必要があるだろう。
関連レビュー
第一回ふげん社写真賞グランプリ受賞記念 木原千裕写真展「いくつかある光の」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年03月01日号)
2022/06/17(金)(飯沢耕太郎)
ガブリエル・シャネル展 Manifeste de mode
会期:2022/06/18~2022/09/25
三菱一号館美術館[東京都]
欧州のような上流階級の社交界がほとんど存在しない日本では、シャネルというと、そのわかりやすいダブルCマークも相まって、ひと昔前はバブル時代の象徴というイメージが強かった。ファッションが多様化した現在では、もう少し様相が異なるのかもしれない。しかし本展で紹介されたシャネルは、そんな消費社会、日本でのイメージとはずいぶん違っていた。シャネルは革新的ブランドであり、またガブリエル・シャネルは新しいことに挑戦し続けた強い女性デザイナーだった。
シャネルが成し遂げたことで有名なのが、コルセットからの解放である。女性のウェストを細く見せるための補正器具は、拷問器具とも揶揄されるほど、父権社会の象徴であったが、19世紀頃まで上流・中流階級の女性の間で広く着用されてきた。婦人用帽子のデザイナーとして活動を始めたシャネルは、1920年代に婦人用衣服も手掛け始めると、コルセットや何層にも及ぶ下着類をあっさりと排除し、シンプルで動きやすく、着心地の良いデイウェアを考案した。代わりに取り入れたのが、女性視点によるエレガンスである。ウェストはくびれていないけれど、女性の自然な身体のラインを尊重したドレスを発表したのだ。現代の我々から見れば、こうした身体のラインを拾わない女性ファッションは珍しくないが、この原点がシャネルにあったのかと思うと、見方がずいぶん変わる。シャネルは相当、斬新なブランドだったのだ。
「伝統は革新の連続である」という言葉どおり、いくつもの革新の連続があってこそ、現代のファッションはある。とりわけコルセットからの解放は、女性解放運動ともつながった。かつて男性が女性を支配していたフェティシズム的な視点から、女性が本来望む自然な美しさの視点へ。それは男性に媚びなくても、女性が自立して生きられるようになった社会の到来とも結びついている。本展を観にきていた来場者も、幅広い年齢の女性が多かったのが印象的だった。
公式サイト:https://mimt.jp/gc2022/
2022/06/18(土)(杉江あこ)
村石保『昭和、記憶の端っこで──本橋成一の写真を読む』
発行所:かもがわ出版
発行日:2022/06/30
本書を一読してちょっと驚いたことがある。掲載されている50点の写真、そのほとんどに見覚えがなかったのだ。本橋成一はいうまでもなく日本を代表するドキュメンタリー写真家の一人で、大きな展覧会を何度も開催している。『炭鉱〈ヤマ〉』(現代書館、1968)以来の彼の写真集にも、ほぼ目を通しているはずだ。にもかかわらず、編集者の村井保が一枚一枚の写真にエッセイを寄せたこの写真文集の掲載作は、初めて見るもののように感じられた。逆にいえば、いわゆる代表作として喧伝されている写真に頼って、本橋のような厚みと多面性を兼ね備えた写真家について論じることが、いかに危ういものであるかを思い知らされた。本橋の写真の世界は、細部に踏み込めば踏み込むほど、その輝きが増すものなのではないだろうか。
本書は、「信州産! 産直泥つきマガジン」として刊行されている『たぁくらたぁ』(オフィスエム)に、2008年から連載されたコラムの写真とテキストを中心にまとめたものだが、他の媒体の掲載作や書き下ろしも含んでいる。村井の文章は、本橋の写真に寄り添いながらも、独自の角度からその世界を読み解いており、そこに写っている光景をむしろ現代の問題意識に引き付けて浮かび上がらせるものだ。日の丸、チェルノブイリ、真木共働学舎、サーカスなど、共通するテーマの写真を並置したパートもあり、総体として、いまや背景に退きつつある「昭和」の時期に培われた世界観、現実認識を、より若い世代にあまり押し付けがましくなく伝えようとしているのがわかる。巻末の著者略歴を見て気づいたのだが、村石保は2022年4月27日に亡くなっていた。この本が遺作というわけで、そう考えると、本橋の写真に託した彼のラスト・メッセージが、より身に染みて伝わってきた。
2022/06/20(月)(飯沢耕太郎)
早川千絵『PLAN 75』
筆者は6月に『誰ための排除アート? 不寛容と自己責任論』(岩波ブックレット)を上梓したが、仕切りをつけた排除ベンチを検討するシーンが登場すると聞いて、早川千絵監督の映画『PLAN 75』を鑑賞した。相模原障害者施設殺傷事件を想起させる冒頭の場面を経て、75歳以上の高齢者に対し、お国のための死を志願することができる制度=「プラン75」を採用した日本という映画の世界観が説明される。特殊効果を用いたSFでもファンタジーでもない。そのまま現在と同じ風景が描かれる。それが、この映画の真に恐ろしい部分だろう。すなわち、生産性がない人間は排除しても構わないという日本を覆う空気と、『PLAN75』の映画が地続きであることが端的に示される。そして市役所では「プラン75」の申請窓口を担当する行政マンが、公園のベンチで寝られないよう、業者と仕切りを検討する短い場面も、効果的に挿入されていた。最初からプロダクトとしてつくられたものではなく、いわゆる後付けタイプの排除ベンチである。躊躇することなく、どの仕切りが良いですかねと会話するのだが、その無邪気さこそがリアルだった。
『PLAN 75』が秀逸なのは、複数の視点から、この制度をとりいれた日本を描いていることだ。限られた登場人物は、以下の通り。突如解雇され、住居も失いそうになり、「プラン75」という選択を考えるようになった一人暮らしの78歳のミチ、市役所につとめるが、やがて制度に疑問を抱くヒロム、死を選んだ年寄りをサポートするコールセンターのスタッフ瑶子、そして娘の手術費用を稼ぐため、介護職から「プラン75」関連施設における遺品整理の仕事に転職したフィリピン人のマリア。弱い人たちばかりである。逆に一体どんな政治が、少子高齢化による財政難の解決策として「プラン75」の制度を導入したのかは、まったく描かれない。権力者の不在を批判する向きもあるだろうが、日本国民の大勢がなんとなくそれで構わないと思うからこそ、こうなってしまうのではないか。本来、こんな社会をつくらないために、政治は重要なのだ。『PLAN75』における姥捨山的な設定は、社会に不要な人間の切り捨てを機械的にこなす現代の似姿にほかならない。
公式サイト:https://happinet-phantom.com/plan75/
関連レビュー
名古屋の排除アート|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2022年04月15日号)
2022/06/20(月)(五十嵐太郎)
TOPコレクション メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか
会期:2022/06/17~2022/09/25
東京都写真美術館2階展示室[東京都]
定期的に開催されている「TOPコレクション展」は、いわば、東京都写真美術館の常設展に当たる展覧会企画である。だが、第一次開館(1990年)から30年以上が過ぎた現在では、毎回新たな方向性を打ち出すのがむずかしくなってきているのではないだろうか。担当学芸員の苦心を感じることが多いのだが、今回の「TOPコレクション メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか」展は、館外から借用した作品(たとえば青森県立美術館が所蔵する小島一郎の作品)も含めて、企画意図と内容がうまく噛み合った展示になっていた。
それは、「写真と死」というテーマ設定に、動かしがたい必然性があるからだろう。以前「すべての写真は死者の写真である」と書いたことがある。そこに写っている風景、人物が、もはや無くなった(亡くなった)ものである場合はもちろんだが、たとえ被写体が現存していたとしても、それらがいつかは無くなる(亡くなる)ものであることを、われわれはよく知っているからだ。あらゆる写真には、死が二重映しに写り込んでおり、その意味で「メメント・モリ(死を想え)」という格言は、写真という表現媒体の本質的なあり方をさし示すものといえる。
その意味では、今回の展示作品のなかでは、たとえばマリオ・ジャコメッリのホスピスを撮影した写真、あるいはロバート・キャパ、澤田教一らの戦争写真のような、直接的に死を扱った写真よりも、荒木経惟、牛腸茂雄、ロバート・フランク、リー・フリードランダー、ウィリアム・エグルストンらのような、日常に顔を覗かせる死を絡めとるように提示した写真群の方が、より興味深かった。写真家たちがその繊細なセンサーを働かせて、スナップ写真のなかに「メメント・モリ」を呼び込むような営みがずっと続いてきたことを、あらためて見直すことができたからだ。
2022/06/22(水)(飯沢耕太郎)