artscapeレビュー
2022年09月15日号のレビュー/プレビュー
上田義彦「Māter」
会期:2022/08/27~2022/09/24
小山登美夫ギャラリー六本木[東京都]
上田義彦が前回小山登美夫ギャラリー六本木で開催した個展「林檎の木」(2017-2018)で印象的だったのは、写真のサイズの小ささだった。8×10インチ判の大判カメラで撮影した写真を、わざわざフィルムサイズよりも小さめにプリントしていた。そのことによって、観客はよく見ようと写真に顔を近づけるので、より個人的な視覚的体験に集中できるようになっていた。
今回の個展「Māter」でも、やはり写真は小さめのプリントだった。といっても、前回よりはやや大きめのポストカード大で、木製のフレームの中にゆったりとおさめられていた。作品は月の光で撮影されたという風景と女性の裸体の2枚セットで、その組み合わせによって「根源的な生命としての存在」のあり方が浮かび上がるように構成されている。風景は屋久島で撮影されたということだが、どこか懐かしく、記憶を呼び覚ますような海や滝の眺めが、そのまま女性の体のイメージとシンクロして、眼に快く浸透してくる。写真のコンセプトと会場のインスタレーションとが、とてもうまく釣り合っていて、完成度の高い作品になっていた。写真展に合わせて赤々舎から刊行された同名の写真集も、作品に呼応した瀟洒な造本である(デザイン・葛西薫、中本陽子)。
作品から伝わってくるのは、上田が以前のように精力的に作品を発表するのではなく、一作ごとに時間をかけ、制作のペースをキープしていこうとしているということだ。写真家として、充実した実りの時を迎えつつあるのではないだろうか。
2022/08/27(土)(飯沢耕太郎)
LIVE+LIGHT In praise of Shadows 「陰翳礼讃」現代の光技術と
会期:2022/08/26~2022/09/25
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は、言うまでもなく、建築家やデザイナーらに広く読まれている名随筆である。私も何十年か前に初めて読んで以来、ことあるごとに書棚から文庫を取り出しては目を通してきた。昭和初期、日本家屋に電灯やストーブ、扇風機といった文明の利器がどんどん入り込んできたため、それに対して抱く違和感や嫌悪感についてを全編通して述べた作品だ。当時、日本は近代化すなわち西洋化への過渡期にあり、そうした不協和音は重々にしてあったのだろうと想像に難くない。もともと、日本家屋は奥まで採光が行き届かない造りとなっていたため、日本人はその薄暗さの中で暮らしを営み、いつしか闇に美を見出すようになったというのが谷崎の見解である。
しかし現代の日本の暮らしときたらどうだろう。衣食住の様式がすっかり西洋化したうえ、世界的に見ても最先端の機器やインフラに恵まれた便利な暮らしへと変貌した。そして街も住宅も昼夜問わず、明るさに満ちるようになった。それゆえなのか昭和初期に書かれたこの随筆が、時折、そんな我々の暮らしに疑問を投げかけるように引用されることがある。懐古趣味なのか、それとも温故知新なのか……。
本展も『陰翳礼讃』を題材にした展覧会なのだが、その試みは温故知新に当たるのだろう。「現代の光技術」であるLEDを使い、谷崎がその著述の中で美しいと誉めそやしたシーンを再現したのである。和紙を通して見たろうそくの炎のような灯り、薄明かりの中で映し出される漆器や羊羹、そして暗い家の中でレフ板効果を果たした金屏風など。会場は想像以上に真っ暗闇で、その中でLEDの光が点々と灯っていた。恐る恐るたどり、それぞれに近づいて見てみると、確かに漆器は表情がより浮き上がって見え、羊羹は闇にほぼ溶け込んでいた。羊羹について「あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ」と表現した意図が理解できたのである。
近年、光源としてLEDの精度が上がり、太陽光、月明かり、炎といった自然光の色みに(製品によって多少のばらつきはあるが)、最高値で97%まで近づいたという。これは従来の白熱灯や蛍光灯では成し得なかった色みだ。つまりLED灯を使えば、現代の暮らしでも『陰翳礼讃』の世界を再現できるというわけである。古い日本家屋に住まい、ろうそくを灯して明かりにする暮らしをいまさら我々はできないが、最新技術を使えば、その美しさや豊かさを享受できるかもしれない。そんな可能性を本展では示唆していたのだが、それを実行するにはまず我々が暗がりに慣れることから始めなければならないのだろう。
公式サイト:https://www.brillia-art.com/bag/exhibition/09.html
2022/08/27(土)(杉江あこ)
プレビュー:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022
会期:2022/10/01~2022/10/23
ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、THEATRE E9 KYOTO、京都市京セラ美術館、京都中央信用金庫 旧厚生センター ほか[京都府]
13年目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下KEX)。やっとKEXが戻ってきた! という実感だ。コロナ禍を受け、ここ2年間のフェスティバルでは、海外アーティストの作品は映像上映・オンライン配信などへの変更や公演中止を余儀なくされていたが、2年ぶりに海外アーティストを招聘し、新作や日本初演が並ぶ期待に満ちたプログラムだ。
今回は、「ニューてくてく」をキーワードに、上演プログラムのShowsには11演目がラインナップ。舞台芸術の創作環境や国際交流はもちろん、日常生活に大きな影響を与えた社会的変動の後、「歩くこと」を新たに捉え直すことを目指す。前回のキーワード「もしもし? !」に続き、肩肘の張らない柔軟な姿勢を示しつつ、深い思考の広がりを促すような言葉だ。「てくてく」には、身体的な移動に加え、異なる時間の移動、意識や感情の動き、思考を整理するための散歩、政治的行為としての行進やデモなど多様な含意が込められている。さらに、都市を遊戯的に歩くことで、消費資本主義の空間化や、近代的合理性や有用性に訓育された身体を批評的に脱しようとするドゥボールらシチュアシオニストの「漂流」の実践も位置づけられるだろう。
「歩くこと」を直接的に扱うのは、メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナス with 志賀理江子によるビジュアルコンサートと、ミーシャ・ラインカウフ。前者では、東日本大震災後に建設された巨大な防波堤を歩き続ける人物を映す志賀の新作映像に、国際コラボレーションによる大音量のノイズ・ミュージックが重ねられる。ミーシャ・ラインカウフは、陸路では越境困難な「国境」を海底を歩くことで横断する行為と、都市空間の地下の巨大インフラに潜って歩く行為を記録した映像作品を展示する。
観客が自ら歩くことで発見や出会いをもたらす参加型の作品が、梅田哲也とティノ・セーガル。梅田のツアー型パフォーマンス作品では、元銀行の建物の構造を活かしたインスタレーションの中で、ガイド役に案内されさまざまな出来事に遭遇する。ティノ・セーガルの作品では、京都市京セラ美術館の日本庭園を舞台に、観客自身について即興的に1対1で歌ってくれる歌い手との出会いが作品体験となる。
イギリス現代演劇のパイオニア、フォースド・エンタテインメントによる2作品は、「タイムトラベル」「クイズショー」の形式を借りて、場に起こるパワーバランス、経済や組織の構造について問いを投げかける。
個人の声や視点から大きな歴史と未来の物語を見つめ直すのが、ジャールナン・パンタチャートとアーザーデ・シャーミーリー。タイの演出家、パンタチャートは、隣国ミャンマーのアーティストや俳優との協働により、大きな物語として共有される歴史と個人的出来事の関係を問い直す。イランの演出家、シャーミーリーは、言論統制されたディストピアとなった2070年を舞台に、個人的な記憶が記録媒体を通してどう再構築されるのかを問う。
また、ジェンダーの視点から注目したいのが、フロレンティナ・ホルツィンガー、サマラ・ハーシュ、松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロの3作品。KEX 2021 SPRINGでの『Apollon』映像上映で大きな衝撃を与えたホルツィンガーは、三部作の最後を飾る『TANZ』においても、全裸の女性パフォーマーが演じる血みどろのバレエのレッスンをスプラッターやポルノと接続させることで、「美」の元に搾取・消費されてきた女性の身体について過激かつポップに問う。サマラ・ハーシュの参加型演劇では、受話器の向こうのティーンエイジャーから投げかけられるセクシュアリティ、老い、死についての疑問に観客が応えることで、大人/子ども、教師/生徒、パフォーマー/観客といったヒエラルキーの解体とともに、世代間の対話を促す。リサーチを元に身体とテクストの関係を探るチーム・チープロは、「接触禁止の下で想像の他者と踊るワルツ」をテーマとした前作からリサーチを発展させ、「月経の再魔術化」をテーマに、女性の身体と相撲の四股を参照した新たな「儀式」を開発する。
身体とテクストの拮抗性の探求は、小野彩加・中澤陽のユニット「スペースノットブランク」と気鋭の劇作家・松原俊太郎による、4度目のコラボレーションにも期待できる。舞台上では、松原による戯曲の上演と、リアルタイムでの映画の撮影・上映が同時進行するという。
プログラムの3本柱のひとつで、関西地域をアーティストの視点からリサーチするKansai Studiesでは、建築家ユニット dot architectsと演出家・和田ながらが3年間の集大成を演劇作品として発表する。また、エクスチェンジプログラムSuper Knowledge for the Future [SKF]は、上演作品に関連したワークショップやトークに加え、山歩きツアー、LGBTQ勉強会、沖縄・タイ・ロシアのアートとポリティクスについてのトークシリーズなど多彩なラインナップで構成される。
期待がふくらむ一方、フェスティバルの存続をとりまく経済状況は厳しい。コロナ禍による経済への打撃、京都市の財政難による負担金減額、渡航費の高騰、円安の影響を受け、予算補填のためのクラウドファンディングを初めて実施した。もちろん観劇も支援であるという気持ちで劇場に足を運びたい。
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 公式サイト :https://kyoto-ex.jp/
2022/08/30(高嶋慈)
没後40年 山中信夫☆回顧展(リマスター)
会期:2022/07/16~2022/09/04
栃木県立美術館[栃木県]
山中信夫(1948-1982)が滞在先のニューヨークで急逝してから、もう40年経つのだという。驚きとともに感慨を禁じえない。山中の作品を多数所蔵している栃木県立美術館で開催された今回の回顧展には、現存する150点余りの作品のほか、貴重なアーカイブ資料も出品されており、充実した内容となっていた。
多摩美術大学絵画科在学中の1971年に、多摩川の堤防で開催した「川を写したフィルムを川に映す」展以来、山中は、現実世界を正確に写しとるだけでなく、そのフェーズを変換することで新たな認識に誘う映像や写真の可能性を追求していった。1973年には、黒白とカラーのピンホール写真を制作し始め、75年の個展「9階上のピンホール」(楡の木画廊)からは、天井、壁、床などにリスフィルムを貼り巡らし、部屋全体をピンホールカメラにして撮影する「ピンホール・ルーム」の連作を発表するようになる。以後、サンパウロ・ビエンナーレ(1979)やパリ・ビエンナーレ(1982)などに参加し、その仕事が国際的に注目され始めた矢先に、34歳の若さで客死した。
あらためて、山中の仕事を見直すと、その先駆性はいうまでもないことだが、写真というメディアの原点に立ち返り、ベーシックだが本質的な表現をめざす志向性が、初期からずっと一貫していることに気がつく。同時に、黄ばんだり、やや褪色したりしている当時のプリントが、その時代の空気感を見事にとらえきっていることが印象深かった。そのコンセプチュアルな側面が強調されがちだが、被写体の選択、画面構成などへの神経の働かせ方に、山中の「写真家」としての能力の高さがよくあらわれているのではないだろうか。
2022/08/30(火)(飯沢耕太郎)
公文健太郎『NEMURUSHIMA』
発行所:Kerler
発行日:2022年
公文健太郎はここ数年、精力的に写真集を刊行し、写真展を開催している。『耕す人』(平凡社、2016)、『地が紡ぐ』(冬青社、2019)、『暦川』(平凡社、2019)、『光の地形』(平凡社、2020)と続くなかで、彼が何を求め、何を伝えたいかも少しずつ見えてくるようになった。一言でいえば、日本の風土とそこに住む人々との関係を、写真を通して探求することといえるだろうか。かつて濱谷浩が『雪国』(1956)や『裏日本』(1957)などで試みたテーマの再構築ともいえそうだ。
今回、ドイツの出版社Kehrerから刊行された『NEMURUSHIMA(眠る島)』もその延長上にあるシリーズで、瀬戸内海の離島、手島(香川県)を撮影している。日本列島を巨視的な視点で見直そうとした濱谷浩とは対照的に、島というそれほど大きくないテリトリーを対象とすることで、多彩な地形、植生がモザイク状に絡み合う「小宇宙」の様相が、より細やかに浮かび上がってきた。特に今回は、人の暮らしのあり方を多めに組み込んでいることで、「土地と人の営みのつながり」を捉えようとする公文の意図が、よりくっきりとあらわれてきているように感じた。ややセピアがかった調子に傾きがちな彼のプリントワークが、このところずっと気になっていたのだが、それも写真一枚ごとに丁寧にコントロールされてきている。
こうなると、『耕す人』以来のシリーズをまとめて見る機会がほしくなってくる。美術館のような、大きめなスペースでの展示が実現できるといいのだが。
2022/09/02(金)(飯沢耕太郎)