artscapeレビュー
2022年09月15日号のレビュー/プレビュー
表現の不自由展・京都 KYOTO 2022
会期:2022/08/06~2022/08/07
京都市内[京都府]
「あいちトリエンナーレ2019」にてSNSでの炎上、電凸、脅迫を受けて開催3日で中止に追い込まれた「表現の不自由展・その後」。会期終盤の一週間、抽選制で再開したが、文化庁の補助金不交付問題における政治家の圧力、歴史修正主義や性差別主義に支えられたナショナリズム、社会的分断などさまざまな傷痕と課題を示した。
一方、「表現の不自由展・その後」の「その後」といえる動きが、あいトリ以降も国内外で展開している。2019年12月~翌年1月には韓国・済州島の済州4.3平和記念館で、2020年4月~6月には台湾の台北當代芸術館にて開催された。また、2021年には、東京展に加え、名古屋・京都・大阪の有志によるグループが、東京展の実行委員会の協力の下、各地での展示を計画した。だが、右翼の妨害や郵便物破裂のため、予定通りに開催できたのは大阪展のみだった。
2022年は4月に東京、8月に京都と名古屋、9月に神戸で開催された。筆者は、あいトリでの鑑賞予定日が中止決定と重なり、再開時は抽選に外れ、昨年の大阪展では整理券配布終了のため、実見するのは今回の京都展が初となる。事前申し込みで50分毎の入れ替え制がとられた。一ヶ月前の安倍元首相銃撃事件もあり、会場入り口や周辺は警察が厳重に警戒し、封鎖された道路周辺では右翼の街宣車が「不自由展を粉砕せよ」と怒号を上げ続けた。
京都展の参加作家数はあいトリとほぼ同じだが、半数が入れ替わっている。「平和の少女像」は彩色された等身大のFRP製の像のみでブロンズ製ミニチュアは出品されず(実際に東京都美術館で展示拒否されたのは「ブロンズ製ミニチュア」の方)、大浦信行の出品作は版画の《遠近を抱えて》のみで映像作品はない。また、あいトリからの継続組の小泉明郎と岡本光博は新作を出品。小泉は、天皇の報道写真をキャンバスにプリントし、SNSの投稿写真の「背景補正」のレタッチのように、天皇の写った部分に「仮想の背景」を描き重ねて透明化させ、空気のように見えづらく内面化された天皇制を可視化する「空気」シリーズの新作を展示した。
岡本は、あいトリでの不自由展中止の新聞記事と、昨年の大阪展で抗議活動した街宣車をミニカーで「再現」したものを組み合わせるなど、自作を含む展示拒否の事例をドキュメントとミニチュア化で提示する「表現の自由の机」シリーズを展示した。ろくでなし子の有罪確定を報じる記事と「まんこちゃん」人形のコピーを組み合わせた作品や、済州島に設置された「平和の少女像」の肩にとまる鳥を3Dスキャンで複製して鳥かごに閉じ込めた作品は、「著作権」と「わいせつ」という不自由展では扱われてこなかった検閲トピックを示す。これら小泉と岡本の新作は、「実際に展示拒否された作品」ではないが、同展の継続性を「バージョンアップ」として示す意義を持つ。
一方、もう一つの「バージョンアップ」が、丸木位里・赤松俊子(丸木俊)、赤瀬川原平、山下菊二、新潟の前衛美術グループ「GUN」の中心メンバーだった前山忠という戦後美術史を召喚し、「検閲」「規制」を歴史的文脈の広がりのなかで捉える視点の提出である。「千円札裁判」での有罪判決を受けて赤瀬川が制作した、批判精神とウィットに富む《大日本零円札》(1967)。軍服姿の昭和天皇の写真や背広姿の似顔絵を砲弾やチャップリンの写真とコラージュした山下菊二の《弾乗りNo.1》(1972)。「カンパ箱」が美術館側の撤去の対象となった前山忠の反戦旗は、字体とあいまってベトナム戦争の時代感を伝えるが、2022年のいま、ウクライナ侵攻への抗議として回帰するように見える。そして、丸木夫妻が占領期に制作した絵本『ピカドン』(1950)は、GHQによる事後検閲で発行禁止となった。現在も読み継がれる絵本だが、占領軍による検閲の事例は、検閲主体の多様性とともに、「何がだめと判断されるのか」が恣意的であることを示す。
「美術館や公的施設における検閲や規制について実作品とともに考える」というのが不自由展の当初のコンセプトだが、会場の「外」から見ている限りでは、「右翼の攻撃VSカウンター」というネット上での攻防をリアルの場に可視化する事態へと変質したように映る。だが、妨害による延期や中止を乗り越えて開催された本展は、時代や判断主体による検閲事例の多様性と恣意性を示し、継続による深化を示していた。
表現の不自由展 公式サイト:https://fujiyuten.com/
2022/08/06(高嶋慈)
井上裕加里「Women atone for their sins with death.」
会期:2022/07/30~2022/08/07
KUNST ARZT[京都府]
戦前に広島に渡り被爆した在韓被爆者、終戦による「国境線」の引き直しによって故郷から分断された日韓の女性たちの個人史、ルールの服従と排除による「集団」形成のプロセスの可視化。井上裕加里はこれまで、東アジアの近現代史や共同体の境界線を批評的に問い直す作品を発表してきた。
「死をもって罪を償う女性たち」というタイトルの本展では、イランおよび隣接するパキスタンで起きた「名誉殺人」をテーマとする写真作品を発表した。ともにイスラム共和国である両国では、女性の人権に対するさまざまな制限に加え、「貞節」を守るべしという性規範に抵触したと見なされた女性が、「家族の名誉を守る」という理由で父や兄弟によって殺害(惨殺)される「名誉殺人」がしばしば起きている。
日本とイラン。地域的・宗教的な隔たりを架橋する仕掛けが、ギャラリーの扉の表/裏にそれぞれ掲示された両国の「女性専用車両」のサインだ。公共空間において男女を厳格に分ける宗教的要請に基づき法制化されているイランとは異なり、日本では「女性専用車両」に乗車するかどうかは個人の選択だが、設置の背景には痴漢の性被害に合う「公共空間」の非安全性がある。井上は、「女性専用車両」のサインを「公共に開かれた安全な空間」であるべき展示空間にインストールすることで、表現の現場調査団による『「表現の現場」ハラスメント白書2021』が明らかにしたように、ギャラリーや美術館もまた、「性差別的発言」「男性観客による執拗なつきまとい」といった性被害に脅かされる「安全ではない」空間であることを突きつける。
そして、扉の内側には、「名誉殺人」の事例を人形で再現した写真作品計7点が並ぶ。被写体に用いられたのは、「Fulla(フッラ)」という名前の中東・イスラム版のバービー風着せ替え人形。褐色がかった肌、黒い目、ヒジャーブ(スカーフ)の下は黒髪だが、目鼻立ちやスレンダーな体型はバービーを思わせ、「アラブ美人」のステレオタイプ化という点でも興味深い。井上は、衣装の何着かを手作りしたフッラ人形とともにイランに渡航し、現地の路上で「再現シーン」を撮影した。添えられたテクストには、各事件の経緯が記される。女性性をアピールする写真やリベラルな発言をSNS上で公開し、パキスタン初のソーシャルメディア・スターと呼ばれたモデルのカンディール・バローチは少し異色だが、彼女以外は10代の少女で、「父親の反対する男性とつきあった」「親族ではない男性と通話した」「出席した結婚式で異性の前で歌い踊った」「バイクの少年を二度振り返って見た」といった行為を理由に殺害された。
これらはいずれも、実の父親や(義理)兄弟による「家庭内殺人」である。ここに、単に「イスラム教の怖い国」「人権意識の遅れた地域」と切り捨てられない、DVとの構造的類似性がある。すなわち、妻や娘、姉妹は家長(男性)に従属する所有物であり、(性の)管理の対象と見なす家父長制的支配構造だ。自分の意のままに従う、意志も声も持たない受動的な人形。男たちには、娘や妹がまさにこのように見えていた。井上による「再現シーン」は、「殺害現場」そのものの再現ではないが、「男たち自身が見ていたビジョン」の再現という意味で恐るべきイメージである。そこでは、「理想美の造形化」に加えて、「家父長的支配者である男性にとっての規範的女性像」として、女性たちの身体は二重にモノ化されているのだ。
公式サイト:http://www.kunstarzt.com/Artist/INOUEyukari/iy.htm
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2022/08/06(高嶋慈)
ディミトリス・パパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』
会期:2022/08/10~2022/08/11
ロームシアター京都 サウスホール[京都府]
2019年の初来日で反響を呼んだ『THE GREAT TAMER』に続く、ギリシャ人演出家ディミトリス・パパイオアヌーの最新作の日本ツアー。台詞が一切ないまま、ギリシャ彫刻のように鍛え上げられたダンサーの身体美により、西洋美術や聖書、ギリシャ神話を思わせるイメージが次々と「活人画」として美しくもナンセンスに展開する魔術的なトリックは本作でも健在で、(後述する「開口部」の存在も含め)続編的といえる。タイトルの「TRANSVERSE ORIENTATION」とは、「蛾などの昆虫が、月などの遠方の光源に対して一定の角度を保ちながら飛ぶ感覚反応」を指し、光源が近距離の人工の光に替わると、角度が狂うという。
本作は2種類の「光(源)」の演出が印象的だ。舞台装置は一見シンプルで、上手側にドアと水道の蛇口、下手側の高所に1本の蛍光灯が付けられた横長の「壁」が設置されている。無機質な青白い光を放つ蛍光灯は、警告を発するようにバチバチと音を立てて明滅を繰り返し、何度も「修理」される。一方、オレンジ色の光で舞台を満たす投光機が台車に載せて運び込まれ、ダンサーたちのシルエットを動く「影絵劇」として変容させ、何度も観客席に向けて投射され、見る者の目をまばゆく眩ませる。光/影の対比、無意識の闇に対する理性としての光、その危機的失調、イリュージョンを生み出す光(源)など、本作のテーマが凝縮される。
『THE GREAT TAMER』では、ベニヤ板を張り重ねた「舞台」の上で西洋美術史や聖書、神話から抽出したイメージが「白人の身体(ヌード)」によって演じられる一方、その「ヨーロッパの歴史的地層」のあちこちに開けられた「穴」「開口部」から、バラバラ死体や骸骨などグロテスクなイメージが噴き上がり、「ヨーロッパの抑圧された下部」を示唆していた。本作でも、「壁のドア」の向こう側から、「極端に小さい頭とひょろりと長い腕をもつ真っ黒な人間(?)たち」「スーツ姿に牛の頭部をもつミノタウロス」といった奇妙な者たちが「光の照らすこちら側」にやって来る。あるいは、ドアを開けると、向こう側は巨大な白い石を積み上げた壁で塞がれ、その「石」がこちら側に人間もろとも延々と吐き出され、奔流となって飲み込んでしまう。垂直から水平に置き換わったこの「ドア」は、「ヨーロッパ」という「理性の世界(光)」が抑圧してきた「無意識」「暗部」「異界的狂気」への通路なのだ。
また、『THE GREAT TAMER』と同様、上半身+下半身、右半身+左半身を「合体」させたダンサーによる「両性具有者」「半人半馬のケンタウロス」や「男性の人魚」といったジェンダーや種の境界を撹乱する身体が跋扈する。牛頭人身のミノタウロスは剣を持った男(テセウス)に「断首」(=去勢)されるが、後半でテセウスは、腕に抱えた牛頭から舌の愛撫を受けて悶絶する。
ただ、前作以上に強く感じたのは、「ヨーロッパの精神文化が(真に)抑圧してきた二項対立かつ非対照的なジェンダー構造」はむしろ温存され、男性中心主義的視線がより強化されている点だ。ブラックスーツに身を包み、匿名化・均質化された男たちと、癒しであり欲望の源泉でもある「水」を与える神聖化された(唯一の)女性。男たちの集団は「巨大な黒牛」のシルエットと同化し、脚や尻尾を本物の牛のように操りながら、「闘牛」「野生の調教」に従事する。一方、荒ぶる牛の背に全裸でまたがり、股間の果実を裸の男に与える女は、エウロペかつエヴァであり、「男に略奪される女/男を誘惑する女」という両極に定型化されたイメージを二重に身にまとう。老いて太った全裸の女が杖をつきながらゆっくり舞台上を横切り、ドアの向こうに姿を消した一瞬後、ドアが開くと「均整の取れた肢体の若い女」に入れ替わっているシーンはマジカルだが、なぜ、女性のみ、「老/若」「醜/美」の対で眼差されるのか。
母乳か精液か判然としない白い濃密な液体を滴らせる聖母。「生きた噴水彫刻」として男たちのグラスに水を与える女性像。「水と女性」という定型化されたテーマは終盤、アングルの《泉》のように水を床に落下させ続ける女に変奏され、やがて水もろとも「床の下」に姿を消してしまう。スーツの男たちが床板を剥がすと、島影の映る美しい海景が現われる。照明が星のまたたく夕凪ぎの海を出現させ、スーツを脱いだ裸の男がその光景を見つめ続ける。舞台を文字通り支える物理的基盤であると同時に、イリュージョンを支える透明化された基盤が剥がされるが、その「イリュージョンの崩壊」自体が「幻想的な夕暮れの海景」という別のイリュージョンをつくりだす。だがそれさえも、「壁のドア」を開けて去っていく裸の男によって、文字通り亀裂を入れられる。上演中、常に「こちら側」に向けて開けられていたドアは、ラストで初めて「向こう側」の暗闇に向かって開かれた。(危険な)ドアは開け放たれたままだ。だが、(強固に蘇る)イリュージョンを自己破壊し、通路を自らの手で開いた「彼」は、「向こう側の抑圧された世界」とは何であるかに本当に気づいていただろうか。
関連レビュー
ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年08月01日号)
2022/08/10(高嶋慈)
コウノジュンイチ「終わりのない街」
会期:2022/08/08~2022/08/21
ギャラリー蒼穹舎[東京都]
コウノジュンイチの写真展は本欄でも何度か取り上げたことがある。その度に同じようなことを書いているのだが、街の路上を彷徨い歩き、シャッターを切り、プリント(自家製のカラープリント)して展示するという彼の行為は、何ともとりとめがなく、砂粒が指の間をすり抜けていくようにも見える。彼が2009年から、蒼穹舎で年に一、二度ほどのペースで続けている写真展も、全部見ているわけではないが、それほど大きく変わってきているわけでもない。だが今回の、2014年に集中して撮影した写真群を、あらためて選び直したという展示を見ているうちに、これもまた、写真家の行為としてある種の必然性を帯びているのではないかという気持ちが強まってきた。
コウノはプロフェッショナルな写真家ではないから、これらの写真は金銭を代価とする仕事ではなく、あくまでも“愉しみ”として撮影されたものだ。街を歩き、その時の自分の気持ちにフィットする光景に出会った時に、その手応えを確かめるようにシャッターを切る。あまり人の姿がない、写っていてもかなり距離をおいた光景そのものに意味があるというものよりも、むしろそこに彼がいたということの存在証明になるような写真が選ばれていた。今回の展示では、雨上がりの路上にカメラを向けた写真が目についた。そのやや青味を帯びたウェットな空気感が、プリントに的確に写し込まれている。一点一点の写真は砂粒のようだが、それらを結びつけ、つなげていくと、コウノジュンイチの写真のなかにしか成立してこない、「終わりのない街」の姿が浮かび上がってくるようにも思えてきた。
関連レビュー
コウノジュンイチ写真展「遠ざかる風景」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
コウノジュンイチ写真展 「境界」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年09月15日号)
2022/08/10(水)(飯沢耕太郎)
フィン・ユールとデンマークの椅子
会期:2022/07/23~2022/10/09
東京都美術館 ギャラリーA・B・C[東京都]
国連の世界幸福度報告で、近年、1位もしくは2位を占めているデンマーク。この国民の幸福度を向上させるのにひと役買ったとされるのが、デンマーク生活協同組合連合会(FDB)だ。日本にも同様の日本生活協同組合連合会(CO・OP)があるが、衣食住のうち、日本では食に対する取り組みが大きいのに比べ、デンマークでは住に対する取り組みを重視し、1942年から1980年代まで家具部門に当たるFDBモブラーが存在した。丈夫で、美しく、使い勝手が良いうえ、誰もが手にしやすい価格帯の家具を提供し、国民の生活レベルの向上を図ったのだ。その監修をコーア・クリントが担い、初代代表をボーエ・モーエンセンが務めたことでも知られている。
本展はそうしたデンマークの家具デザインの歴史と変遷から始まる。FDBモブラーについて私もある程度知っていたが、国の豊かさとは政策次第であることを改めて実感させられた。その政策が実を結び、世界でも「デザイン大国」と称賛されるまでに醸成したデンマークで、20世紀半ばに異彩を放ったのがフィン・ユールである。建築、インテリアデザイン、家具デザインの分野で活躍した彼は、もともと、美術史家を志していたという背景を持つ。それが影響しているのか、何とも美しい家具をたくさん生み出した。羽を広げたペリカンに喩えた「ペリカンチェア」がもっとも個性的で有名な椅子だが、それ以外はどれも一見、オーソドックスな家具に見える。しかし柔らかい丸みを帯びた座面や背もたれ、滑らかな曲線の肘掛け、ほっそりとした脚というように、「美は細部に宿る」ではないが、細部を見れば見るほどその美しさの理由がわかってくる。これほどの数のフィン・ユールの家具を一覧できる機会は珍しく、思わずうっとりとしてしまった。
また、本展の魅力は何と言っても最後の章「デンマーク・デザインを体験する」である。室内にさまざまな椅子が点在し、それぞれに自由に座ることができた。フィン・ユールの家具も見た目の美しさだけではない。座ると、しっとりと包まれる感覚を味わえる。加えて展示品の大半を占める「織田コレクション」のオーナーで、椅子研究者として有名な織田憲嗣のインタビューと自宅公開の映像も流れていて、なかなか興味深く視聴した。
公式サイト:https://www.tobikan.jp/finnjuhl/
2022/08/18(木)(杉江あこ)