artscapeレビュー

2024年01月15日号のレビュー/プレビュー

新国立劇場演劇研修所第17期生公演『君は即ち春を吸ひこんだのだ』

会期:2023/11/07~2023/11/12

新国立劇場 小劇場[東京都]

『ごんぎつね』の童話作家・新美南吉とその周囲の人々を描いた原田ゆうの戯曲『君は即ち春を吸ひこんだのだ』。「日本の劇」戯曲賞2014で最優秀賞を受賞したこの作品が、新国立劇場演劇研修所第17期生公演として田中麻衣子の演出で上演された。

舞台は南吉こと本名・正八(立川義幸)の住む渡辺家の離れ。玄関と土間、大量の本が乱雑に摘まれた二間続きの六畳間。縁側から続く草木の植わった庭には南吉の童話からとったと思しきモチーフが見え隠れしている(美術:伊藤雅子)。観客はこの離れを挟むかたちで対面に配置された客席から正八たちのままならぬ生を見守ることになる。


[撮影:宮川舞子/写真提供:新国立劇場]


翌月には国家総動員法が公布されることになる1938年3月。父・多蔵(樋口圭佑)と母・志ん(小林未来)が落ち着かない様子で待っているところに正八が帰ってくる。どうやら女学校の先生に採用されたらしい。若くしてその文才を見出され、童話雑誌『赤い鳥』に作品を寄稿するなどしていた正八だったが、筆一本では食っていけない。幼い頃から体が弱く、師範学校にも通えなかった正八がようやく手にしたのが今回の女学校での職だった。両親の心配も道理である。安堵し、母屋へと帰っていく二人。入れ違うように庭からやってきたのは幼馴染のちゑ(根岸美利)だ。離れで正八を待っているところに多蔵と志んがやって来たので、慌てて庭へと逃げ出し様子を窺っていたらしい。気の置けない二人は互いに憎からず思っている様子だが、ちゑの弁を借りれば二人がどのような関係なのかは「当の本人達にすら分かっていない」。中山家の殿様の末裔であるちゑは没落気味の家を自らの手で再興したいと願っており、そのためにも医者としてさらなる立身出世を目指したい。二人の関係が微妙なままにあるのはそんな事情も関わっているようだ。だがそれでも正八は「俺とお前は特別だわ」「お前のことは俺にしか分からんげな」と言い、ちゑもそれに応じるように「私、時折思うのよ。息をね、正八っあんの息をさ、思い切り吸い込んでもいいかなって」と告げる。


[撮影:宮川舞子/写真提供:新国立劇場]


[撮影:宮川舞子/写真提供:新国立劇場]


ちゑの言葉は謎めいてはいるものの、それが作品のタイトルと呼応していることは明らかだ。『君は即ち春を吸ひこんだのだ』。南吉の日記からとられたというこの一節に含まれる「春」のイメージも手伝って、ちゑの言葉はひとまず一風変わった愛情の吐露として受け取ることができるだろう。だが、やがて正八が結核に侵されていることが観客に明かされるとき、ちゑの言葉が、生のみならず死をともにすることをも厭わないという強い思いの込められたものだったこともまた明らかになる。

しかし、だからこそ二人の関係は袋小路だ。やがてちゑは大阪で医者として働きはじめ、正八も学校の近くで下宿することになる。それでも二人の関係は「私が手を握れば正八っあんが離して、正八っあんが手を握ってくれば私が離してって感じで」変わらない。ちゑはそんな関係を「やっぱり、私は、嫌よ」と言ってみたりもするのだが、正八は「身勝手だな、お前は」と応じるばかり。そしてちゑもやはり「知ってるわ。でも、正八っあんだって」と返すのだった。身勝手と相手を思う気持ちは見分けがたく、また相手の気持ちも知っているがゆえにますます二人は身動きが取れない。


[撮影:宮川舞子/写真提供:新国立劇場]


ところが、二人の関係は思わぬかたちで終わりを迎えることになる。旅先での心臓発作でちゑが亡くなってしまうのだ。独立開業に向けた過労がゆえだろうか。服用していた精神安定剤が影響した可能性もあるらしい。その薬は、ちゑの弟の文夫(佐々木優樹)によって服用を止められてからもなお、正八が密かに渡していたものだった。いずれにせよ、はっきりとした原因はわからず、正八がどのような思いで薬を渡していたのかも語られることはない。

そして正八の体も結核という病魔に蝕まれていく。正八にとってその病は、早くに亡くなった実母の面影と、そしてその死と強く結びついている。「母さんが春の花に春の風を吹かせようと言って一緒にふぅーと息を吐いたんだ。(略)あの時咳き込んだんは俺だったか、母さんだったか、それとも、俺も母さんもどちらもだったか……」。原体験とも言える光景のなかで生きること、愛することはその愛する者の死と分かちがたく結びつき、だからこそ正八はちゑとの関係において決定的な一歩を踏み出せなかったのだろう。「俺は毎日花に息を吹きかけて、吹きかけて、死んだ母さんと一緒に息を吹きかけて、何本もの花を枯らした、枯らしてしまった……」。静かな言葉の背後に慟哭が滲む。


[撮影:宮川舞子/写真提供:新国立劇場]


[撮影:宮川舞子/写真提供:新国立劇場]


正八の友人・畑中を演じた田崎奏太、正八の教え子・初枝を演じた飯田桃子も含め、丁寧な演技で細やかな感情の機微を舞台に立ち上げてみせた7名の若き俳優たちに拍手を送りたい。特にちゑを演じた根岸は、溌剌としながらも家への責任と正八への思いに引き裂かれ、ときに秘めた激情を溢れさせてしまうその姿を魅力的に演じていた。同じ俳優陣による公演として2月6日(火)から11日(日・祝)には演劇研修所第17期生修了公演『流れゆく時の中に─テネシー・ウィリアムズ一幕劇─』(演出:宮田慶子)が予定されている。


新国立劇場演劇研修所第17期生公演『君は即ち春を吸ひこんだのだ』:https://www.nntt.jac.go.jp/play/kimiharu_2023/
原田ゆう『君は即ち春を吸ひこんだのだ』戯曲(戯曲デジタルアーカイブ):https://playtextdigitalarchive.com/drama/detail/3

2023/11/08(水)(山﨑健太)

Afternote 山口市 映画館の歴史

会期:2023/11/25~2024/03/17

山口情報芸術センター[YCAM][山口]

以前、YCAMを訪問したとき、実は山口市に映画館がなくなっており、2階のスタジオCにおいてシアター事業を行なうことで、同施設がその代わりを果たしていると聞いていたが、まさにこの展覧会はかつて市内に存在した映画館を調査した企画である。

まず導入部にあたる2階ギャラリーでは、映画館のマップ、1902年の小郡寿座の開館に始まり、2012年の山口スカラ座閉館までの大きな年表を掲げるほか、山口大学の映画サークルの資料を展示していた。そしてスタジオBでは、山口で撮影された最古とされる映像、映画のポスター、映画館の写真、看板の下絵を描くための幻灯機などが続く。それぞれの映画館の外観意匠は興味深く、建築史的な分析もあれば良かったと思う。



「Afternote 山口市 映画館の歴史」展 映画館のマップ



「Afternote 山口市 映画館の歴史」展 年表


大きなスクリーンに投影されたハイライトとなる志村信裕の映像「Afternote」は、約1時間の作品だったが、内容に引き込まれ、全編を鑑賞した。その後、改めて展示された資料を見直すと、理解度がぐっと上がる。藤井光による南相馬の映画館のドキュメンタリー「ASAHIZA」(2013)は、目を閉じている人たちを映し、人々が集う場として描いていたが、「Afternote」では、目を開けながら、夢を見ている空間としての映画館の記憶について、市民や関係者から語られていたことが印象深い。なお、YCAMの前原美織によれば、この展示は地域資料を掘り起こし、200名を超える関係者にインタビューしたものであり、貴重な記録となっている。ぜひ書籍化して欲しい。



南相馬の朝日座


YCAMから駅に向かう途中、映画館の跡地にあるCOFFEE BOY山口店の関連イベント「金竜館の記憶と記録 1922-1991」展に立ち寄り、金竜館ブレンドを飲む。新しい情報としての写真はそれほどなかったが、商店街に面したこの場所を確認したことに大きな意味があった。歴史的な名所であれば、立て看板のひとつでもあるだろうが、現地には何の痕跡もない。また映画館の跡地マップによれば、駅前近くの、この周辺では、あと4館も営業していたことがわかる。もちろん、こうした街の変化は山口市だけでなく、日本中で起きている状況だろう。



COFFEEBOY Beans & Cafe 山口店



「金竜館の記憶と記録 1922-1991」展 金竜館の写真アルバム


なお、YCAMでは、ホワイエにて「あそべる図書館─Speculative Library」も開催中だった。軽やかなミーティング・ドームにラジオ局、「有用芸術」のアーカイブ、声のライブラリーを付設し、その脇には街の情報を共有するマップも置く。



「あそべる図書館─Speculative Library」



Afternote 山口市 映画館の歴史:https://www.ycam.jp/events/2023/afternote/

あそべる図書館─Speculative Library

会期:2023年10月28日(土)~2024年2月25日(日)
会場:山口情報芸術センター[YCAM]
(山口県山口市中園町7-7)

2023/12/01(金)(五十嵐太郎)

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ももちの世界 #9『皇帝X』

会期:2023/12/07~2023/12/12

in→dependent theatre 2nd[大阪府]

ろうの母親が営むダイナーを舞台とした『華指1832』(2021)以降、手話を取り入れた現代演劇に取り組むピンク地底人3号(「ももちの世界」主宰)。ドイツの現代作家の戯曲を用いた手話裁判劇『テロ』(2022)は、「ひとつの役を、ろう俳優(手話)と聴者の俳優(発話)のペアで演じる」という実験的な形式により、バリアフリー上演のあり方の大きな更新と、二項対立で構成される戯曲世界への批評を両立させた秀逸な上演だった。

自身の戯曲を上演する本作では、「手話と発話による2人1役」ではなく、「ろう者の役」をろう俳優が手話で演じる(『華指1832』以降の手話劇に継続的に出演する山口文子が本作にも出演する)。字幕に加え、タブレット端末の貸し出し、前説や受付には手話通訳者が同伴するなど、観劇の情報保障も配慮されている。

舞台は平行世界的な架空の日本。1948年、巣鴨プリズンで死刑宣告を待っていたA級戦犯の桐野健人は、「神の祝福」を受けて釈放され、112歳になった今も「皇帝」として君臨し続けている(渋い和服にキリストの荊冠を被ったビジュアルであり、女優が演じる)。皇帝の親族である側近が暗殺され、遺児となった三姉弟が皇帝の庇護下に引き取られる。長男のひかるは、皇帝の孫の16歳の少年、桐野凛介に兄のように慕われる。軽い知的障害がある凛介は、現実よりも映画の世界に興味があり、2人は特攻隊の映画撮影を通して親しくなっていく。一方、祖父の皇帝も「映画に登場する月の裏側に住む宇宙人は中国と通じている」という陰謀論を信じ、軍備増強を進めるが、クリスマスに余命が尽きることを「神」から宣告される。


[撮影:北川啓太]


皇帝の死後、一時はリベラルな政治体制が実現するが、亡き皇帝にそっくりの男がモーセあるいはキリストの奇跡のように海を渡って現われ、凛介の秘書として「復活」し、新皇帝の座につかせてしまう。秘書に操られるまま、「おじいちゃまの無念」を晴らすため、祖父以上に軍国主義とナショナリズムを推し進める凛介。「平成のゼロ戦」であるX-2の滑走路拡張工事のため、自衛隊の舞鶴基地周辺の海は土砂で埋め立てられる。見返りとして舞鶴で開催されるオリンピックの聖火を燃やすのは、銃殺されたデモ隊の積み上がった死体だ。その国家スペクタクルの光景を、ナチス政権下のオリンピックを映画化したレニ・リーフェンシュタールのように、映画に撮って後世に残すことをひかるは命じられる。ひかるのカメラが回るなか、凛介は、かつてひかると撮った映画の特攻隊員を思い浮かべながら、X-2に乗り込み、アメリカから「爆買い」した戦闘機を率いて出撃する。その瞬間、空に穴が開き、世界は終わりを迎えた……。


[撮影:北川啓太]


後半になるにつれ、黙示録的なヴィジョンとともに日本の現代史がグロテスクに描写される。祖父から孫へ継承される帝政とは、岸信介と安倍晋三の世襲政治であるが、母親代わりの養育係として凛介を世話する「キク」の名が、「菊の御紋」を連想させることから、政治家の世襲に天皇制も重ね合わせられる。そして、皇帝に祝福を与える「神」は、戦前の天皇像や統一教会を示唆するとともに、「天の愛するお父様」「アーメン」といったキリスト教のフレーズの連呼は、アメリカの支配下にあることを示す。



[撮影:北川啓太]


以下の本稿では、「政治風刺劇」から視点を変え、①上演ではカットされた、「劇中劇」としての特攻隊映画の台詞の引用、②手話劇であることの意義について考えたい。まず①について。本作が描くのは、世代が交代しても変わらぬ、現実とフィクション(映画)の境目が混濁した独裁者による支配構造である。「映画」は本作の軸線であり、凛介が特攻隊の映画制作を通してひかると親しくなったことが、終盤への伏線となる。終盤では、皇帝の椅子=X-2のコックピットに乗り込む凛介を、ひかるが「行かないで」と止めようとするが、凛介は「僕は君が好き。でもそれ以上に美しい国日本が好きだ。さようなら!」と振り切って出撃する。この二人の会話は、「特攻隊員の青年と恋人の会話」を露骨に想起させる。実は戯曲には、この会話が「凛介とひかるの撮影した特攻隊映画」のラストシーンとして、劇中劇で登場する。会話自体は、『花の特攻隊 あゝ戦友よ』(1970、森永健次郎監督)の引用である。

実際の上演では時間の都合上カットされたが、劇中劇として上演した方が、現実と虚構の混濁の強調に加え、潜在的にはらむクィアな批評性が浮かび上がったのではないか。戦争遂行を支える論理とは、「(未来の)妻や家族を守る」という男性に課せられた使命が、「国を守る」ことへと破綻なく接続・拡大される、家父長制と異性愛主義の結託にある。本作前半では、凛介がひかると手をつなぐ、疲れた凛介がひかるの肩に寄りかかるなど、二人の少年のホモエロティックな関係性が仄めかされるが、「劇中劇としての特攻隊員と恋人の台詞」が「男性どうしの台詞に置き換えて反復される」というパロディ的な構造を明確に示した方が、マッチョな論理に染められた世界の「崩壊」を示すクィアな批評性が際立つだろう。

②本作が手話劇であることの意義について。老皇帝の庇護下に引き取られた三姉弟のうち、末っ子のあかりはろうであり、姉の手話通訳がなければ皇帝の声を聞くことも自身の声を皇帝に伝えることもできない。あかりは転校先の学校で、コーダ(聴覚障害者の親を持つ聴者の子ども)の優子と親友になるが、凛介を操ろうとする秘書の企みで事故に遭い、死亡/退場する。あかりは、(凛介以外)健常者で男性が占める支配システムにも、物語のレベルにおいても「脇役」として二重に周縁化された存在だ。物語からの彼女の「排除」「消去」は、経済成長、軍備増強、ナショナリズムが加速する強権的な国家の裏返しでもある。

一転して、ラストシーンでは、あかりが神の祝福を受けて新皇帝になるという、ブレヒトの『三文オペラ』のような唐突な転換が起きる。「世界の終末」は「神があかりに見せた夢」であり、映画にしか興味がない凛介やひかるに代わって皇帝に就任したことが語られる。ここで注目したいのは、この「就任演説」において初めて、あかりの手話に「声」があてられたことだ。それまでのあかりの台詞は手話/字幕で伝えられていた。だが、ラストシーンのみ、壇上であかりが手話で話す就任演説を、下で向き合う優子が声で発話し、「手話と発話による2人1役」に近い状態が出現した。老皇帝や凛介によるそれまでの演説シーンとは異なり、舞台上に聴衆がいないことは、「不在の聴衆」こそ(多くは手話を解さない)観客自身なのだというメタメッセージを示し、舞台と客席を鮮やかに架橋する。黙示録におけるキリストの到来を思わせる新皇帝のあかりは、来るべき未来のヴィジョンでありつつ、「神が祝福を授ける」システム自体は何も変わらない点で両義的ではあるのだが。

このように本作は、ラストシーンにおいて、「手話劇」の演劇的な可能性を示した。ただし、手話裁判劇『テロ』が秀逸だっただけに、次回こそオリジナル脚本で「2人1役」システムを見てみたいと思う。



[撮影:北川啓太]



ももちの世界:https://momochinosekai.tumblr.com/

関連レビュー

手話裁判劇『テロ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年12月01日号)

2023/12/07(木)(高嶋慈)

「写された外地」 吉田謙吉・名取洋之助・鈴木八郎・桑原甲子雄・林謙一・赤羽末吉(JCIIフォトサロン)

会期:2023/11/28~2023/12/24

日本カメラ博物館[東京都]

タイトルの「写された外地」の「外地」というのは、旧満洲国(現・中国東北部)および内モンゴル地域である。今回の展示では、1930年代から40年代にかけて吉田謙吉(舞台美術家、デザイナー)、名取洋之助(写真家、編集者)、鈴木八郎(写真家、編集者)、桑原甲子雄(アマチュア写真家)、林謙一(内閣情報局情報官)、赤羽末吉(画家、絵本作家)の6人が当地で撮影した写真を集成している。

撮影者の社会的な立場、ものの見方の違いが、それぞれの写真に如実に出ているのが興味深い。名取、鈴木、林の写真は報道写真家の視点で、視覚的な情報を適切に切りとって画面におさめていく。桑原の眼差しはより柔軟で多面的だ。吉田や赤羽の作品からは、写真撮影そのものが目的というよりは、あくまでもデザインや絵画の素材として考えていたことが伝わってくる。共通しているのは、当時の日本人にとっての「新天地」であった旧満洲国やモンゴルの風土、習俗、人々の暮らしへの驚きと憧れを含み込んだ眼差しであり、そのことが、彼らの「内地」を撮影した写真との違いを生んでいるように見える。思いがけない角度から、この時代の日本人の写真表現の動向にスポットを当てた好企画といえるだろう。

ところで、本展をキュレーションしたJCIIフォトサロンの白山眞理は、来年に定年を迎えることになり、これが最後の大規模写真展企画となるという。白山はこれまで、名取洋之助の連続展をはじめとして、1920~40年代に活動した日本の写真家たちを積極的に取り上げ、綿密な研究・調査に基づいた写真展を開催し続けてきた。その業績を顕彰するとともに、今後も戦前・戦中の写真家たちの仕事を跡づけていく仕事が、同フォトサロンでしっかりと継承されていくことを望みたい。


「写された外地」 吉田謙吉・名取洋之助・鈴木八郎・桑原甲子雄・林謙一・赤羽末吉(JCIIフォトサロン):https://www.jcii-cameramuseum.jp/photosalon/2023/10/11/34156/

2023/12/08(金)(飯沢耕太郎)

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ミーヨン「KUU」

会期:2023/12/01~2023/12/24

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

ミーヨンは韓国・ソウル出身で、1991年からは東京を拠点に作家活動を継続している。これまで写真集『Alone Together』(Kaya books、2014)、『よもぎ草子──あなたはだれですか』(窓社、2014)などのほか、エッセイ集の刊行、国内外での展覧会の開催など、多面的な仕事を展開してきた。その表現行為の核心がどこにあるのか、なかなか掴みきれなかったのだが、今回のコミュニケーションギャラリーふげん社での展示を見て、腑に落ちるものがあった。

すでに8月にアルル国際写真フェスティバルで発表されたという本作は、「仏教の基本的な教理」である「空(KUU)」をテーマとしている。とはいえ、決して小難しく観念的な写真ではない。写っているのは、シャボン玉、花火、金属のドアや窓に映る光景、水面、草むらなど、ごく身近に見出すことができる被写体ばかりだ。ややブレたりボケたりしている写真もあるが、多くはストレートに写しとっている。これまでは主に黒白写真で発表してきたが、今回はカラー写真を用いてやや淡い色調でプリントしていた。そのこともあって、これまでの作品よりも、穏やかに自足した画面へのおさまり方に見える。

だが、写真を見ているうちに、ミーヨンの関心がむしろ被写体の実体よりは、それらが移ろいながらかたちを変えていこうとしている様相を捉えることにあることがわかってきた。「なにものもそれ自体では存在しない」、「すべては顕現という、たえまないプロセスの中にある」という「色即是空」の教理が、それぞれの在り方であらわれてくる刹那を写しとった写真群といえるだろう。その狙いはかなりよく実現しているのだが、まだ途中経過のように見えなくもない。いま撮り進めているという「聖地」のシリーズとも呼応させつつ、ひと回り大きな作品として完成させていってほしいものだ。


ミーヨン「KUU」:https://fugensha.jp/events/231201miyeon/

2023/12/09(土)(飯沢耕太郎)

2024年01月15日号の
artscapeレビュー