artscapeレビュー
2024年01月15日号のレビュー/プレビュー
梅田哲也展 wait this is my favorite part 待ってここ好きなとこなんだ(1期)
会期:2023/12/01~2024/01/14
ワタリウム美術館[東京都]
既存の建築物を舞台に、バックヤードや屋上、裏階段などを順路に組み込み、通常とは異なる導線で建築の裏/表を巡るツアー・パフォーマンスという手法は、近年の梅田哲也の代表的スタイルである。美術館での初個展「梅田哲也 うたの起源」(2019-2020、福岡市美術館)で試みられたこの手法は、埼玉、高槻、京都と続き、老朽化などで役目を終えた建築物の記憶にも触れながら、音や光の仕掛け、空間の開閉によって建築物を有機的に再活性化させた。埼玉の旧区役所を舞台とした展示作品『O階』(2020)、閉館した高槻の劇場を巡る『9月0才』(2022)、元銀行を舞台とした『リバーウォーク』(2022)である。
現役の美術館を舞台にツアー形式で巡る本展では、「三角形の敷地」という空間の特異性を、「過去の記憶を再演する」という反復構造にうまく組み込み、忘れがたい経験をもたらした。ツアーは20分ごとにスタート。少人数の観客はガイド役のキャストに導かれ、4階の真っ暗な展示室からツアーが始まる。実験器具のようなガラス容器と蝋燭のついた棒が振り子のように揺れ、懐中電灯に照らされた影が壁に揺らぎ、ガラス容器に入れられた小さな粒が蝋燭に熱されて高く澄んだ音を立てる。音や光の仕掛けによって鑑賞者を日常から切り離し、感覚を研ぎ澄ませる静かなオープニングだ。
その後、オフィスを通り抜け、3階の展示室へ。ガラス壁越しの吹き抜け空間には、工事現場のように足場が組まれ、美術館の建築計画のパネルを掲げるキャストが佇む。足場を下りた先は手すりの付いた台車になっており、汽笛の合図とともにキャストに押され、「船」となって「出航」する。「船」が大きなガラス窓に近づくと、窓が開けられ、建物正面が面する大通りの物音が流れ込んでくる。視覚よりも「音」で一気に感覚がひらける。そして道の向こう側の小さな三角形の空き地には、手を振る人たちが見える。
その後、裏階段や暗室のような小部屋を通り抜け、横断歩道を渡って、先ほど見た三角形の空き地へ。組まれた足場に上ると、美術館正面の窓が開き、ひとつ後の回のツアー参加者たちを乗せた「船の出航」が見え、互いに手を振り合う。汽笛の音が聴こえた気もするが、車のクラクションだったのかもしれない。作為と偶然性、内側と外側、見る/見られる、鑑賞者/出演者、過去と現在の境目が溶け合い、「現在地」が一瞬宙に浮く。
「時間差の構造により、鑑賞者が目撃した光景が、鑑賞者自身によって“再演”される」という手法は、高槻の元劇場での『9月0才』と共通する。高槻の場合は、初めは客席に座る観客として眺め、2度目は「舞台上の出演者」として反復される「カーテンコール」の仕掛けが、市民に長年愛された劇場へのリスペクトとなっていた。一方、本作では、「美術館の敷地と相似形を描く三角形の空き地」が鍵となる。建設現場のように空き地を囲う仮設壁には、美術館建設工事の前の更地の写真が用いられている。「記憶を再演する舞台」としての空き地が、「美術館が建つ前の更地」と重なり、二重に過去を反復する。また、古い写真、建築模型、美術館の前身のギャラリーの看板といった「建築物の記憶」を示す物品があちこちに仕掛けられ、「記憶を再演する舞台」への無言の案内人となる。
こうした時間差の反復と反転の構造は、さまざまなメタ的な仕掛けで示唆されている。4階の暗い部屋から3階の吹き抜け空間に移動後、ガラス越しのキャストがタイムラインについてマイクで語る台詞がある。「さっき、暗い部屋でお会いした私は、今から1分後の私です」「今ここで話しかけている私は、暗い部屋に入る1分前の私です」。また、オフィスで流れるインタビュー音声では、寺山修司の演劇作品『観客席』(1978年初演)についての思い出話が語られており、観客/出演者という区分に対する問いを予告する。
最も直接的な示唆が、ミヤギフトシの映像作品《The Ocean View Resort》(2013)から引用した個展タイトルである。同性の友人Yに淡い恋心を寄せる主人公と、戦争捕虜だったYの祖父と米兵。ベートーヴェンの楽曲を聴きながら交わされる2組の会話が、「wait this is my favorite part/待ってここ好きなとこなんだ」という同じ台詞で中断され、親密さと絶対的な隔たりが溶け合った沈黙のうちに、荘厳な音楽が繰り返される。「同じ主題を反復する」楽曲の構造とナラティブをリンクさせつつ、アメリカと日本、日本と沖縄、沖縄戦の記憶と寂れたリゾート地の現在、ホモセクシュアル男性/へテロ男性といったさまざまな差異や政治的な力学が重ねられる。
そうした記憶の残響/残像を、本作はパフォーマンスのレベルと美術館建築の物理的なレベルで共振させた。また、梅田のパフォーマンス作品は、常に舞台芸術に対するメタ批評を胚胎させているが、本作では音楽の反復構造への言及を通して、「タイムライン」という舞台作品の基底の可視化がさらに重なり合う。
こうした三層構造を鮮やかに示す点で秀逸だったが、個人的には一種の臨死体験に近かったことも興味深かった。私が体験したのは日没後の夕方だったこともあり、暗い空き地から道路を隔てた明るい室内を見ていると、死者の世界から(かつて自分のいた)対岸の生者の世界を見ているような感覚を覚えた。「船の出航」や、道路=川を渡るという仕掛けの作用もある。見知らぬ観客どうしが互いに手を振り合うが、見送っているのか、見送られているのか。死んだとき、顔は定かではないが、誰かが向こう岸で手を振って見送っているのだろうか。計算されたさまざまな反転とともに、生者と死者の世界も一瞬溶け合うような体験だった。
なお、本展は、内容を変えた「2期」が2024年1月16日〜28日に予定されている。
梅田哲也展 wait this is my favorite part 待ってここ好きなとこなんだ:http://www.watarium.co.jp/jp/exhibition/202312/
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2023/12/10(日)(高嶋慈)
酒航太「山林的」
会期:2023/12/02~2023/12/29
スタジオ35分[東京都]
酒航太は東京・新井薬師でギャラリー、スタジオ35分を運営しながら独自の活動を続けている写真家である。2021年には、動物園の動物たちと向き合って撮影した写真集『ZOO ANIMALS』(bookshop M)を刊行した。今回展示しているのは、2022年から始まったという新たな写真シリーズで、「誰もいないような山林に身を置いて」撮影したというモノクロームの作品が並んでいた。
酒は動物園を撮影しているうちに、「自分自身の動物感覚を意識する」ようになったのだという。人間的な尺度を外して、動物のように全身感覚で世界を見つめ直す──そんな彼の思いが、やや不分明な、くぐもった空気感を強調したプリントにあらわれていた。だが、道や樹木やガードレールなどが遠近感を伴ってしっかり写っている写真もあり、「動物感覚」をどこまで徹底しているのかという点についてはやや疑問が残る。もっと無意識レベルでシャッターを切っていくようなやり方が必要になってくるのではないだろうか。今回の展示はまだ試行錯誤の段階だったが、とてもいいテーマなので、さらなる展開を期待したい。
なお、同時期に中野駅ガード下ギャラリー「夢通り」では、大判プリントでの動物たちのクローズアップ写真による「見ると見られる」シリーズを(12月3日~12月28日)、東京都美術館ギャラリーBでは、「動物園にて──東京都コレクションを中心に」展の一環として、「ZOO ANIMALS」シリーズを(2023年11月16日~2024年1月8日)展示していた。
酒航太「山林的」:https://35fn.com/exhibition/sake-kota-exhibition/
2023/12/13(水)(飯沢耕太郎)
小松浩子「Channeled Drawing」
会期:2023/12/02~2024/01/20
KANA KAWANISHI PHOTOGRAPHY[東京都]
建築工事の資材置き場のようなノイジーな場所を撮影した写真を、ロール紙のような大判の印画紙に焼き付け、定着液の匂いが漂うような状態で、展示会場に吊り下げたり張り巡らしたりする──小松浩子の写真展といえば、そのようなインスタレーションを想像する者が多いのではないだろうか。ところが、今回のKANA KAWANISHI PHOTOGRAPHYでの展示は、その予想を大きく裏切るものだった。黒と白のミニマルなたたずまいの画像がフレームにおさめられて、淡々と並んでいるだけだったのだ。
何やら不分明な凹凸が刻み込まれたように見える黒っぽい画像は、地面をフロッタージュしたもので、白っぽい画像はそのフォトグラムだという。そこには、数字とアルファベットでデータらしきものが添えられている。説明を聞かないと、小松が何を意図しているのかは掴みにくいだろう。じつは彼女がフロッタージュを試みたのは、殺人事件の現場で、データはその場所の緯度・経度、発生年、殺害方法、犠牲者の数だという。
コンセプチュアルな手法によって、生々しい社会的、個別的な事件の概要を普遍化して浮かび上がらせるというやり方が、とてもうまくいっていると感じた。思考とプロセスとのつながりに無理がなく、種明かしをされても白けるということがない。静かな自己主張ではあるが、新たな写真表現の領域を果敢に切り拓こうとしている意気込みが伝わってきた。なお、作者のステートメントと梅津元によるテキストをおさめた同名の小ぶりな作品集が、MAN CAVEから刊行されている。
小松浩子「Channeled Drawing」:https://www.kanakawanishi.com/exhibition-ph027-hiroko-komatsu
2023/12/15(金)(飯沢耕太郎)
劇団不労社『MUMBLE─モグモグ・モゴモゴ─』
会期:2023/12/14~2023/12/17
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
ブラック企業など、(理不尽な)ルールやアイデンティティの共有/強要が形成する閉鎖的共同体において、暴力が連鎖的に起こる構造を畸形的に描いてきた劇団不労社。「集団暴力シリーズ」の最終章と銘打たれた本作は、共同体の最小単位であり、かつメタファーとして拡張可能な「家族」というテーマが、「食(卓)」と交差して描かれる。
舞台は、ある家族が山奥で営む「民宿シャングリ=ラ」。「家族になれる宿」をモットーとし、設立者の猿渡ゲン(故人)の強い意向により、宿泊客も「家族のようにふるまうこと」を求められる。猿渡家の構成員は、大所帯だが一見「普通の家族」に見える。ゲンの妻のサチ、2人の子であるカイトとケントの兄弟、サチの弟と妻、妻の姪。そこに、帰省したケントが連れてきた恋人が加わる。
宿の設立者であり家長であったゲンは、舞台上では不在だが絶対的な存在として影を落とし、ゲン亡き後も「家族のようにふるまうこと」という掟は遵守される。そうした彼らの姿が、まさに「家族という演技」にほかならぬことを暴くのが、「家族の証」であるはずの「食卓を囲む一家団欒」のシーンである。皆が食卓についてカレーを食べるなか、「犬」という役割を与えられた「チャーリー」は、四つん這いで食事をするのだ。食事以外は二足歩行で普通に会話し、「人間」となんら変わりないからこそ、その姿は(外から来た宿泊客と観客にとって)異様に映る。だが、「家族という演技(もちろん愛犬も家族の一員である)」を続行している猿渡家の人々にとって、「犬のチャーリーが四つん這いで食べること」は「当たり前」なのだ。
ゲンの葬式を挟み、後半では、大雪のため食糧の供給が絶たれ、民宿の人々は飢えと猜疑心に蝕まれていく。カラスを捕り、傷口にわいた蛆虫やカーペットまで食べ、餓死寸前の彼らに残されたのは、人間の死体だった。村の猟友会のメンバーが除雪車に巻き込まれ、切断された半身の肉が、ジビエ料理を供する民宿の人間によってさばかれる。彼らがかき込むカレーの皿は空だが、強烈なカレーの匂いが舞台/客席の境界を侵犯する。
猿渡家の成員にとって、父、夫、(義理の)兄として家父長制の頂点に立っていたゲンは、「家族を演じる」というこの民宿のルールを定めた創造主でもある(ただし、ゲンは婿養子であることが当日パンフの家系図と台詞の端からうかがい知れ、「起源」の正統性は揺らいでいるが)。その絶対的なルールは彼の死後も遵守され続け、舞台と客席を隔てる透明な「第四の壁」が、実体のない映像として「家族というフィクション」を上映するスクリーンとなる。サチは何度も「ホームビデオ」を再生して嬉しそうに眺め、お茶の間に繰り返し流れるのはTVアニメ「サザエさん」だ。そして「サザエさん」の一家団欒のシーンとは、家族内の序列とジェンダーによって席順が決められた、家父長制家族のわかりやすい見取り図である。家長である波平は座卓の長辺を独占し、マスオも短辺を独占するが、二人の妻であるフネとサザエには、ほぼマスオ一人分のスペースしか与えられない。
映画セットのように緻密に作り込まれた舞台美術も昭和的ノスタルジーを濃厚に漂わせるが、「家族というフィクション」というテーマは、後半では「カニバリズム」へと一見すり替わってしまうように見える。だが、背面下で進行するのは、「新たな家長」が誕生し、極限状況下でリーダーとしてふるまい、「家族の絆の団結」を訴えて皆をまとめていく事態である。「次男ケントに一任する」というゲンの遺言が公開され、長男のカイトは実は連れ子であったことが明かされる。そして、父の葬式のために帰省したケントが「正統な嫡子」として実質的に場を仕切っていく。備蓄食糧を盗み食いした者には厳罰を与えるなど、「家族を思いやる温情ある厳父」になっていくケント。その姿は、毎日ホームビデオを眺めるサチにとって「若い頃のお父さんそっくり」に映る。ラストシーンでは、ケントの恋人が出産したことが語られ、「子の誕生」による「家長の地位の安定」が示されるが、「俺も子ども殴るんかな」とつぶやく台詞は、権力の座とともに暴力も継承されることを示す。
そして、前半と後半を切断しつつ、「家族」と「カニバリズム」というテーマの紐帯となるのが、劇中では時間を飛ばしてカットされる「ゲンの葬式」である。なぜ、ゲンの葬式は明確に描かれないのか。劇中では空白地帯である「父の葬式」の潜在的な意味を掘り下げることで、家父長制的共同体の持続の暴力的なグロテスクさが浮かび上がってくるのではないか。「父の葬式」とは、家長の死を弔う儀式であると同時に、「新たな家長」に権力が継承される場でもある。そして葬式とは、宗教的作法に則った遺体の処理の後、集った親族が「食を共にする」経験で構成される。ならば、(喪服こそ脱いでいるが)「一家そろって食卓を囲む人肉食」こそ「父の葬式」の一環なのであり、彼らは引き伸ばされた「葬式後の会食」の時間のただなかにいるのだ。そこで、「会食」として食われるのが「ゲンと対立していた猟友会のメンバー」であることは、「敵対する組織・共同体の者」を喰らって排除することで、家父長制的共同体の安定と結束が強化されるというグロテスクな暴力性を描き出す。
さらに、「猿渡家の血筋は、実は猿と人の混血だった」という終盤の語りは、神話的様相を帯びると同時に、家父長制家族の外延の拡張可能性を指し示す。「猿渡家(猿と人間の混血)」と「猟友会(人間)」という「種の違いによる対立抗争」は、「人種」にパラフレーズ可能であり、さらには民族、宗教、言語やそれらの差異を基盤とする国家という共同体の対立抗争のメタファーとして置換可能である。「半分猿の血が入った」猿渡家とは、「イエロー・モンキー」という他者の差別化の視線を自虐的に貼り付けられているのだ。「人肉の会食」の後、吹っ切れた彼らがカラオケで大熱唱するのは、チャットモンチー(chatmonchy)の楽曲『シャングリラ』だ。「話す猿」たちが順番にマイクを回して絶唱する大饗宴で、「父の葬式」はお開きとなる。テレビのリモコンが観客席に向けて押され、「見えないカラオケ映像」の画面を見つめる視線が観客席に向けられ、私たち観客が映し鏡となる。
2時間20分の大作である本作は、食と倫理、ヒトと動物の境界といったテーマとともに、「ホームドラマ」の形式をメタ演技で擬態しつつ、フィクションという視座から、家父長制的共同体の根源にある暴力性に迫っていた。
ロームシアター京都×京都芸術センター U35 創造支援プログラム 劇団不労社『MUMBLE─モグモグ・モゴモゴ─』:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/103764/
劇団不労社:https://www.furosya.com/
2023/12/16(土)(高嶋慈)
上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす —菌類、植物、動物、人間
会期:2023/11/16~2024/01/08
東京都美術館[東京都]
面白い展覧会だった。出品作家は小林路子、辻永、内山春雄、今井壽惠、冨田美穂、阿部知暁の6名。それぞれジャンルは違うが、菌類、植物、動物、鳥などの生きものの姿を、細部まで緻密に写しとる作風のアーティストたちだ。小林路子の精密なきのこたちの博物画や、内山春雄の鳥たちの色彩やフォルムがリアルに再現されたバードカービングが代表的なのだが、どの作品にも単なる「うつし」ではない力が備わっているように感じた。
タイトルにある「いのち」をどう捉えるのかというのが眼目かもしれない。「いのち」は移ろいやすく、刻々とかたちを変えていくので、それを定着するのはむずかしい。むしろ、対象物に成り切る/憑依するようなプロセスが必要になるのかもしれないと感じた。例えば今井壽惠の馬の写真や、冨田美穂の牛、阿部知暁のゴリラの絵の場合、アーティストは対象と同化しつつ写真や絵の制作に没入しているように見える。「いのち」というレベルでは、菌類も植物も動物も、そして人間もまた、同じ生命循環のプロセスのなかに組み込まれているということだろう。
なお、隣接するギャラリーBでは、関連企画として「動物園にて──東京都コレクションを中心に」が開催されていた。こちらは上野動物園関係の資料を中心として、動物園という場所に関連する写真、絵画などの作品が展示されている。特に写真部門は充実していて、東京都写真美術館が収蔵する東松照明、長野重一、富山治夫、林隆喜、児玉房子らのプリントが出品されていた。「エピローグ」として展示された、酒航太の「ZOO ANIMALS」シリーズ21点も見応えがあった。ただ、「いのちをうつす」と「動物園にて」のパートとの相互的なつながりがうまく見えてこない。会場構成、リーフレットなどに少し工夫が必要だったのではないだろうか。
上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす —菌類、植物、動物、人間:https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_uenoartistproject.html
2023/12/19(火)(飯沢耕太郎)