artscapeレビュー

現実のたてる音/パレ・ド・キョート

2015年12月15日号

会期:2015/11/07~2015/11/23

ARTZONE[京都府]

「音」に関する展覧会/ミュージシャン、DJ、アーティストによる一日限りのイベントの二本立て企画。筆者は展覧会のみ実見したので、本レビューでは、長谷川新の企画による若手作家8名のグループ展「現実のたてる音」を取り上げる。
「現実のたてる音」という展覧会タイトルが冠された中、「現実」つまり現在の政治的・社会的状況に最も鋭敏に反応していたのが、百瀬文の映像作品《レッスン(ジャパニーズ)》。仮設小屋の中のスクリーンに、手話と日本語学習が混ざった教材ビデオのような映像が流されている。貼りついたような笑顔で、「これはわたしの血ではありません」「これはわたしの犬ではありません」「それはわたしたちの血ではありません」といった例文を淡々と反復し続ける女性。画面の下部には、ふりがな付きの日本語の一文とともに、ローマ字表記の発音と英訳が付けられており、「日本語学習者のための(架空の)教材ビデオ」を装っている。だが、手話のように見えるジェスチャーは実はデタラメであるとわかり、映像内の身振りと音声が伝える意味内容が次第に乖離し始めていく。その乖離はさらに、映像内の女性の表情と音声の間にも広がり、発話主体が曖昧化/複数化されていく。例文と(デタラメの)手話を機械的に反復する女性は終始、仮面のような表情を崩さないが、音声は別録りされたものがかぶせられ、喜怒哀楽を含んだものへと変化していくのだ。すすり泣きのような声で発せられる、「これはわたしたちの血ではありません」。あるいは、冷酷な含み笑いとともに告げられる、「これはあなたの血ではありません」。ここでは、血=民族と言語をめぐって、強制・抑圧された者たちの嘆きや悲痛と、強制・抑圧の暴力を行使する者たちの冷酷さや欺瞞とが、仮面的な表情の向こう側で、「声」の抑揚の変化によって絶えず入れ替わる交替劇が演じられている。「日本語」の学習が強制的に要請される場面、それはかつては植民地支配のプロセスの一貫であったとともに、近い将来、移民の滞在・就労規制に関する制度化の可能性を想起させる。ここで百瀬のとる戦略が残酷にして秀逸なのは、「日本語学習の教材ビデオ」の「正しい」文法を模倣しつつ、「これはわたしの血ではない=わたしは異なる民族、外国人である」ことそれ自体を行為遂行的に発話させることで、仮面の背後に存在する「国民と民族と言語の一致」という抑圧的な作用の根深さを露呈させているからだ。

2015/11/22(日)(高嶋慈)

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