artscapeレビュー

石|溶けちゃってテレポート、固まってディレイ

2016年09月15日号

会期:2016/08/26~2016/08/28

アトリエ劇研[京都府]

同世代の演出家と写真家、それぞれ2組が、演劇/写真/ダンスの境界を交差させて共同制作を行なう企画、『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』の1本目。俳優の言葉と身体の関係性に取り組む演出家・和田ながら(したため)と、写真イメージと物質の関係性を考察する守屋友樹が組んだ。印象的なタイトルは、2人が一緒に山に登り、鍾乳洞に潜った後、写真家の守屋から出てきた言葉であるという。出演者に課せられたのは、「ある写真について言葉で描写する」というシンプルな行為だが、写真イメージと言葉による記述を通して、語る主体と語られるイメージと身体が乖離/癒着していくプロセスが出現する、スリリングな作品だった。
冒頭、男女の出演者は、顔にトレーシングペーパーを押し当て、フロッタージュで写し取る。表面の痕跡を残したその紙を、仮面のように顔の前に吊るしたまま、2人はそれぞれ、別々の写真について説明し始める。参照された写真集は、鬼海弘雄の『東京ポートレイト』、石内都の『モノクローム 時の器』と大野一雄の肉体を写した『1906 to the skin』。鬼海の撮った奇抜で個性的な風貌の人々について、身振り手振りを加えて説明する2人は、服装や目鼻立ちなど外見的な特徴を説明するうちに、どれほど言葉を費やしてもイメージに追いつけない焦りが、振り回した腕や前後左右にドライブする上半身の動きとなって身振りの過剰さを加速させていく。あるいは、写された山の荒い岩肌や亀裂は、Tシャツの布地を寄せた皺や肩甲骨の盛り上がりと重ねられ、その形態的類似性は言葉を聞く観客の想像力の中で溶け合い、骨の陥没がマクロな大地となって新たなイメージを形成する。一方、「ここに木が生えていて、ここからここまで山肌が広がっていて…」と自身の肩や背中を指差しながら腕や肩甲骨を動かしていく行為は、やがて説明する言葉への従属をやめ、ダンス的な運動の自律へと接近する。
こうしたイメージと言葉、イメージと身体の融合や乖離に加えて、もうひとつ前景化するのが、「時間」の要素である。モノクロームで写された「1989年製の冷蔵庫」には、何枚かのシールが貼られ、いくつかは剥がれて跡だけになっている。「今」剥がれているシールはかつて冷蔵庫に貼られていたはずだし、「今」貼ってあるシールもいつかは剥がれてしまう、と顔の見えない声が告げる。写真に凍結された「今」と、それを言葉で記述している「今」との、埋めようのないディレイ。写真の中の「今」も、冷蔵庫が製造された年、誰かの手でシールが貼られた時、何枚かが自然に剥がれた時、そして写真が撮られた瞬間、といくつもの時間の相を内包している。写真を記述する行為は、どこまでも写真の「表面」をなぞりつつ、時間の襞を分割していく。
後半、向き合った2人は、シャッターを実際に切る代わりに、互いを「言葉で」補足しようと試みる。「今、あ、今」「今、シャッターを切っていたら、肩の窪みが写ります」「さっき、シャッターを切っていたら、腕がこうなっている人が写ります」。「今」と言った瞬間に後退する「今」、明滅するフラッシュが告げる暴力性、眼差しの主導権を取り合う抗争。「今」を暴力的に切り取り、所有しようとする欲望は、捉え損ねた「今」の切れ端しか手にすることはできない。発語にかかる時間が、写真の「決定的瞬間」を解体させていく。
シンプルな構成の中に、演出家と写真家、それぞれの思考が拮抗しつつ浮かび上がった公演だった。なお、この企画は公演だけで終わらず、2016年度内に展覧会も予定されているという。


撮影:守屋友樹

2016/08/28(高嶋慈)

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