artscapeレビュー

2014年08月01日号のレビュー/プレビュー

世界のビーズ

会期:2014/06/18~2014/09/13(*8/10~17は夏期休館)

文化学園服飾博物館[東京都]

「ビーズ」と聞いてイメージしたのは手芸で用いられる小さなガラスビーズ。日本では広島県に大きなメーカーが2社あり、ビーズの製造と輸出を行なうほか、手芸教室を支援し、ビーズ細工の普及に努めている。小さな商店のレジのあたりに置かれているビーズでできた動物とか置物、ビーズと安全ピンでできたドレスを着たキューピー人形、手作りのケータイストラップなどは、彼らの営業努力の賜物である。2013年からは国内最大手のひとつトーホー株式会社(広島市)が、「ビーズビエンナーレ」というビーズアートの祭典を主催している。
 日本における手芸としてのビーズ細工は1980年頃からはじまったもののようであるが、世界的に見るとその歴史は古い。ビーズの定義にもよるが、基本的にはどのような素材であっても、穴をあけて糸でつないでつくられる装飾品はいずれもビーズと呼んでよいようだ。勾玉もビーズの一種である。本展で取り上げられているビーズには、貝、真珠、木の実や果物の種、動物の牙、貴金属、貴石、金属貨幣、ガラス、魚のウロコやニカワでできたスパングルまで、多様な素材を見ることができる。「装飾品」と書いたが、じつはビーズ細工の意味・目的もまた国や地域、時代によって異なる。魔除けであったり、身体の一部・急所を保護するものであったり、富や財産の象徴、身分や社会的立場を示すものであったり、たんなる装飾の一部であったりと、さまざまなのである。
 2階展示室では主にアジア・アフリカ地域におけるビーズ、1階展示室ではヨーロッパのビーズが展示されている。東アジア地域では、古来装身具で飾り立てる慣習がなく、ビーズが大量に利用されることもなかったという。日本においても現在のビーズ細工の隆盛とは異なり、装身具の一部に珊瑚や真珠の玉が用いられる程度だったようだ。これに対して南アジアでは、紀元2世紀頃にインドで管引きのガラスビーズが大量につくられるようになり、装飾の他、清浄や生命力の象徴、魔除けとして利用され、また世界各地に輸出された。西アジア・中央アジアでは、遊牧民がコインをビーズに仕立てて財産として身につけたほか、魔除けとしての意味もあったという。アフリカには大航海時代以降ヨーロッパ製のガラスビーズが交易品として大量に持ち込まれた。彼らにとって高価な輸入品であったビーズは装身具として用いられると同時に、富や権力の象徴にもなった。アフリカ北部では比較的大粒のビーズが、南部では小粒のビーズが好まれたようであるが、これはビーズ商人がアフリカ大陸を南下するにつれて最終的に小粒のビーズが売れ残ったためなのだそうだ。ヴェネツィアやボヘミアなど、ビーズ製造の中心地があるヨーロッパでは、富を象徴するのは貴金属や貴石であり、ビーズはドレスやバッグに用いられて主に華やかさを演出する装飾として用いられることが多いという。これら実物の展示と、ビーズの交易ルートを時代ごとに色別で示した世界地図のパネルを合わせてみると、同じ装飾材料が地域によって異なる意味で受け入れられていった様がわかり、とても興味深い。[新川徳彦]


2階展示風景


1階展示風景

2014/07/09(水)(SYNK)

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渡辺篤 ヨセナベ展

会期:2014/06/28~2014/07/19

Art Lab AKIBA[東京都]

いま、グラフィティのメッカは渋谷でも新宿でもなく、浅草橋である。とりわけ総武線の高架下には、質的にも量的にも、すぐれたタギングが多い。もちろん、それらは法的には違法行為であり、すべてをアートとして評価することはできないが、だとしても私たちの視線を鍛え上げる魅力的な触媒であることに違いはない。
その浅草橋と秋葉原のあいだにある会場で美術家の渡辺篤の個展が催された。今回発表されたのは、そのグラフィティをはじめ、宗教団体、ホームレス、右翼の街宣車などを主題とした、おびただしい作品群。卒制として発表された池田大作の巨大な肖像画から近作まで大量に展示されたから、ほとんど回顧展のような展観である。
それらの主題は、確かに私たちの社会的現実に即している。けれども同時に、私たちの多くが、それらを正視することを避けがちでもある。まさしくグラフィティがそうであるように、私たちは見ているようで見ていない。ホームレスのブルーシートハウスも、右翼の街宣車も、視界には入っているが、決して焦点を合わせようとはしない。渡辺の視線は、そのような社会の隙間に埋もれがちな対象を、じつに鮮やかに切り出してみせるのだ。
それは一方で批評的な身ぶりとも言えるが、他方で偽悪的ないしは露悪的な振る舞いとも言える。溜め込んだ鼻くそを固めた金の延べ棒や、枯山水を主題にしながらも庭石をブルーシートで覆った屏風絵などは、ある種の批評性を求める人びとにとっては痛快な作品だが、ある種の美意識をもった方々には到底受け入れられない代物だろう。その微妙なラインを渡辺は巧みに突いている。
とはいえ、渡辺の真骨頂は必ずしもそのような悪意のある批評性にとどまらない。それは、むしろ渡辺の視線が、グラフィティであれホームレスのブルーシートテントであれ右翼の街宣車であれ、そして現代アートであれ、すべてを等しく「表現」として見ている点にある。行政によって壁に貼付された落書き禁止の通告書をていねいに写生し、現物の横に一時的に掲示したうえで、額縁に収めて会場で発表した作品は、シミュレーションには違いないが、そうすることで通告書にひそむ「表現」を導き出したとも言える。無味乾燥で抽象化された通告書を見ても、それがどこかの誰かによってつくられた表現であるとは思わない。けれども、すぐれたグラフィティを目の当たりしたとき、その作者の存在に思いを馳せるように、渡辺は通告書ですら紛れもない表現であることを、その精巧なシミュレーションによって浮き彫りにしたのである。

2014/07/10(木)(福住廉)

篠田千明『機劇──「記述」された物から出来事をおこす』

会期:2014/07/11~2014/07/13

SNAC[東京都]

快快脱退後、本格的なものとしては初となる篠田千明の公演は、演劇を「『記述』された物」という点から考察し上演するという、言ってみればとても意外なものだった。篠田と言えば「つながり」を重視する快快のなかにあって、おもに演出を担当していた中心人物。「パーティ・ピープル」と受け取られることもある彼らのなかで、もっともパーティ寄りの存在ではないかとぼくは勝手に思っていた。もちろん『アントン、猫、クリ』などでは、多重のレイヤーを駆使して、きわめて方法的なアプローチも見せてはいた。それにしても、正直、今作ほど方法的な考察を重視した上演をするなどとは想像していなかった。とはいえ、それは、やや大げさに言えば、今後の日本の演劇やダンスの環境に強い刺激を与えるものであったと確信させられる上演だった。
本作は、二つの作品で構成されていた。最初の『The Short Chatri / タイトルコール』は、同じく快快を脱退した中林舞が伝統的なタイ舞踊を習った過程をめぐる作品。幼少のころからバレエに親しんでいた中林が、継承者の絶えたタイ舞踊とどう出会い、どうそれを咀嚼し、体内化したのかを舞台にしたのだが、それを説く構成が丁寧だった。最初中林が登場し、自分のルーツを話し、またタイ舞踊との出会いを紹介した後、バレエの動きから次第にタイ舞踊独特の動きへと身体を変容させていった過程を踊りながら示し、次にリハーサルと称して踊りの確認を行なったうえで、最後に、猫のかぶり物を身につけ、音楽も鳴らして、いわば「本番」を踊った。それぞれの段階にそれぞれの身体がその個別の表情を見せていたことが興味深かった。そしてなによりも、師匠が体内化しているタイ舞踊をバレエの身体へ転写していく、そのブロセス自体を演劇(篠田はそれをまた独特な言い回しで「機劇」と呼ぶ)にしていることに、驚きに近い感動があった。
二作目のタイトルは「ダンススコアからおこしてみる」。ポスト・モダンダンスの文脈で理解されることの多いアンナ・ハルプリンの『ファイブ・レッグド・スツール』(1962)をダンサーの福留麻里(ほうほう堂)が1人で上演した。興味深いのは、95分ほどの作品を6分で行なったことと、五つのパートを1人で遂行したことだ。どう1人で遂行したか、それは舞台に置いた3台のモニターのなせる技で、スコアの一番上に書かれたパートを遂行し終えると、次に福留は舞台では二番目に書かれたパートを遂行するのだが、その際、舞台の福留とタイミングをあわせて、モニターに先のパフォーマンスが映写されるのだ。舞台上ではライブの身体と記録された身体が同時にディスプレイされているというわけだ。三番目のパートが遂行されると、モニターは一番目と二番目のパートを重ねた映像を映した。95分が6分になった時点で「正しい」上演ではないと評定することもできよう。しかし、この「正しくない」アレンジによって、スコアから「出来事をおこす」仕方を、ぼくたちは驚きとともに考えることができるのだ。篠田の「機劇」はさしあたり、そうした地平をひらいたことにその意義を見出すことができるだろう。

ちなみに、この上演をめぐって、筆者がディレクターを務める「BONUS」にて篠田千明にインタビューを行なった。これもレビューとあわせてご覧ください。


BONUS 篠田千明インタビュー「機劇」(Aプロ)をめぐって

2014/07/11(金)(木村覚)

杉浦康益「陶の博物誌──自然をつくる」展

会期:2014/06/07~2014/08/03

西宮市大谷記念美術館[兵庫県]

杉浦康益は、2012年度に日本陶磁協会賞を受賞したほか、2013年には瀬戸内国際芸術祭にインスタレーションを出品、近年ますます注目を集めている作家。今回出品されているのは、《陶の岩》《陶の木立》《陶の博物誌》のシリーズと、《落花のしゃら》のインスタレーション。《陶の岩》は、石膏で自然にある岩を型取ってつくられる、実物の岩と見紛うばかりの作品である。本展では、野外庭園にも《陶の岩》が置かれているが、言われなければわからないほど、その場に馴染んでいる。《陶の木立》は、木立を模したダイナミックさと自然の花の繊細さを兼ね備えた、大きなインスタレーション。なにより出色なのは、《陶の博物誌》シリーズ。陶による27品種の自然の花々がずらりと並ぶ。驚くのは、植物構造の徹底的に細密な表現。杉浦は「花の美しさ」に興味があるのではなくて、「花の内部構造が示すエネルギー、生命力」に魅かれたのだという。科学的な観察眼でもって、植物の生命を象る構造・各部位が精密に表現されるばかりでなく、ヒマワリの花・朽ちゆくヒマワリ・朽ちかけたヒマワリの種子など花の成長過程までもが制作される。その根底にあるのは、自然に対する畏敬の念であろう。杉浦のまなざしと実践に深く心を揺さ振られた。[竹内有子]

2014/07/12(土)(SYNK)

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沖見かれん展

会期:2014/07/15~2014/07/20

アートスペース虹[京都府]

沖見の絵画は風景をもとにしているが、決して再現的ではない。透明のメディウムで地塗りした生成りの画面には、さまざまな筆致の線や色面が交錯し、抽象的な画面をつくり上げている。絵具をたっぷり含んだ筆致は官能的で、作者はむしろ描く快感のために筆を走らせているのではないかと思うほどだ。また、同じ風景をもとに描いた複数の作品を見比べられるのも興味深かった。線、面、色彩といった絵画の諸要素が解放され、それぞれが自由に主張しながら全体として統一的な世界を構築する。そのスリリングな均衡こそ、彼女の作品の魅力である。

2014/07/15(火)(小吹隆文)

2014年08月01日号の
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